囮の契り
万事屋を後にしたマミは、自身の邸宅へと向かっていた。「昏睡事件」の新たな情報と、アガレスからの依頼。しかしその内容は、マミ一人で背負うには重く……彼女は祖母であるユリに助言を求めるのだった。
「では……色よい返事を期待していますよ」
そう言って万事屋を後にしたアガレスの姿を見送ったマミは書類に手を伸ばした。机上に広げられていた資料たちは、手慣れた様子で丁寧に纏められていく。
全てを片づけ終えたマミは立ち上がり、事務所の玄関へと足を向けた。「営業中」と書かれた札を「営業終了」に裏返し、鍵をかける。そして戸に手を当てて、再度確認をした。
それが済むとマミは地を蹴った。身体はふわりと宙に浮き、そのまま万事屋の屋根を越える。陽光に照らされた街を見下ろしながら、彼女はまっすぐに自身の邸宅を目指した。
帰宅したマミが向かったのは自室ではなく、屋敷の奥にある、静かに閉ざされた襖の前だった。
「――御婆様、マミです。今、お時間よろしいでしょうか」
「入りなさい」
返ってきたのは、年齢を感じさせぬ澄んだ声であった。
「失礼致します」とマミは一言添え、襖を開けた。
香が仄かに漂う部屋の中に、婦人――六道ユリは端然と座していた。
「……こんな時間に戻ってくるなんて珍しいわね。何かあったのかしら」
問われたマミは深く頭を下げて答えた。
「例の異変について……情報と依頼を受けました。ただ、私一人で判断を下すには難しい内容と感じ、戻ってきた所存です」
「そう」
短く返したユリの声には続きを促す意図があった。それを察したマミは、顛末を語り始める。
「――奴を捕らえる千載一遇の機会と見ています。ですが……私一人で解決できる問題の依頼でも無いと、同時に考えているのです」
「そうね……私も、今回ばかりは貴方一人に任せたくないと思っているわ」
「かといって、弟や妹を巻き込みたくは――」
そこまで言って、マミは自身の背後にある襖の方へと向いた。外に居る者の気配を感じ取った彼女は音もなく立ち上がると、勢いよく襖を開け放つ。そして何者かの腕を取り、躊躇無く部屋の中へと引きずり込んでは火の粉を散らした。
「……マコ⁉」
驚いたマミはすぐに手を緩め、組み伏せていたマコを離して謝った。
「侵入者かと思っちゃって……ごめん、大丈夫? どこも焼けたりしてない?」
「平気……」
それを聞いてマミは安堵の息を吐いた。するとその様子を見ていたユリが穏やかな声をかける。
「マコも帰ってきているなんて、珍しいわねぇ。何かあったの?」
「……二人の話を遮ってまでする話ではないので、俺は一旦外に――」
「気にしないでいいわよ。座りなさいな」
ユリの柔らかな提案に観念したのか、マコはそそくさとマミの隣へ座を正した。
「それで……どうしたの?」
ユリの問いに、マコは一呼吸置いてから口を開いた。
「ついさっき、夢遊病のような症状に悩むアニマヒューマノイドが、うちを訪ねてきたのです」
マミは口を挟んだ。
「……そのアニマヒューマノイドのジャズって名前じゃなかった?」
「そうだけど……姉さん、何で知ってるんだ?」
「そのヒューマノイドを雇っているオーナーがうちに依頼をしに来たのよ。昏睡事件の犯人をどうにかしてほしいって」
「……ってことは、アベルの潜伏先も把握済みってことか」
マミは頷いてから、「どう動こうか悩んでるところ」と付け加えた。
その時ユリが扇をマミとマコに向け、「情報を整理しましょうか」と言い放った。すると二人は促されるように背筋を正す。
「二人は同じ施設から異なる経路で依頼を受けた……それも因縁深いニンゲンによるもの。後は……どう捕縛するか、ね」
ユリは視線をマコへと向けた。
「……何か?」とマコが尋ねるも、ユリからの返答はない。目を逸らしかけた彼に代わって、マミが割って入った。
「御婆様、何か名案でも?」
「えぇ」とユリは頷くと、開いていた扇を閉じ、それをマコへと向け「囮を務めなさい」と言った。
「以前の騒動の件もあって、アベルは貴方に強い恨みを持っているはず。でも……向こうは貴方がヒューマノイドと接触したことをまだ知らない。その隙をマミが叩くには十分じゃないかしら」
「御婆様……流石にマコ一人に掛かる負担が大きすぎでは?」
マミが苦言を呈すも、ユリは「そうかしら?」と呑気に首を傾げていた。
「……マコ、無理して引き受ける必要はないわ。あんたの身が危険に晒される確率の方が高すぎる」
「……」
しかし、マコは黙って何か問答しているようだった。「マコ?」とマミが再度呼びかけると、彼はハッと口を開いた。
「ごめん、何でもない」
マコはユリの方へと向き直った。
「――囮の件、俺が奴の標的になることで事が円滑に進むなら、喜んでその役を引き受けます」
「……助かるわ」
ユリが微笑むのを横目に、マコは静かに立ち上がった。
「どこ行くの?」
「自分の部屋」
マコはそれだけ告げると、足早に部屋を後にした。
「……あの子が動くのであれば、私も準備を始めようと思います」
マミも腰を上げかけたところで、「あぁ待って」とユリが引き止める。
「マミはもう少しだけ残ってくれないかしら。話しておきたいことがあるの」
「はぁ……」
マミは困惑した様子で再び座を正した。
「ごめんなさいね。貴方は私の孫であると同時に、友でもあるから頼みたいことがあったのよ」
「……」
六道家の孫――それが今の自分。そんなマミだが、かつては別の名で目の前に居る妖怪と肩を並べていた過去がある。
祖母ではなく、友として語りかけてくるユリの姿に、マミは僅かに姿勢を崩した。
「それで……頼みたいことというのは?」
「そんなに難しいことじゃないわ。アベルの器として私も囮になるから、次に会った時は殺すつもりでかかってきてほしい……ただそれだけ」
「――はっ?」
マミが聞き逃したのかと感じたユリは、言葉を繰り返した。
「私を殺すつもりでかかって――」
「聞こえてますよ! というか、半妖となった私が貴方に勝てるとお思いで⁉」
「そんなに心配しないでも大丈夫よ」と笑うユリに対し、「何も大丈夫じゃない!」と声を荒げるマミ。
ユリは全く気にしていない様子だった。
「マミ、自信を持ちなさいな」
「っ……そう、言われましても……」
マミが言い淀んだところで、ユリは自身の指先をそっと彼女の唇に当てた。
「貴方の昔を知る私が保証するわ……貴方は強者よ」
そしてユリは静かにマミへ問う。
「――やれるわね?」
暫しの沈黙を経て、マミはうっすらと憂いを浮かべながらも首を縦に振った。
「よし」とユリは満足気に目を細め、指を離した。
「頼んだわよ。そうだ、それからもう一つ……」
そう言いながらユリは自身のこめかみを撫で、裂け目を顕にした。
「万が一に備えて、私の記憶の境界から、このことは封じておくわ。他言無用でお願いね」
「……私だけ仕事が多すぎる」
マミはぽつりと珍しく弱音を溢した。