道化の依頼
万事屋の応接室。昼下がりの光が差し込む中、マミは「昏睡事件」の資料が貼られたホワイトボードを前に、自らの無力感に苛まれている最中だった。原因不明の異変が国中に影を落とし、大切な人々が次々と静かに倒れていく。この得体の知れない現象に、彼女は歯がゆさを感じていた。
その沈黙を破ったのは、一人の奇抜な男──アミューズメント施設「ファンタイムプレックス」のオーナー、アガレス・ローレン。彼が持ち込んだのは、看板アニマヒューマノイドであるジャズが目撃したという、驚くべき情報だった──。
昼時の光が窓ガラスに差し込む中、マミは白磁の湯呑みに指を添えたまま、万事屋の応接室に一人佇んでいた。
ホワイトボードには神々廻の地図と数枚の写真、そして新聞記事が貼られており、所々に赤ペンで印がつけられている。
――昏睡事件と呼ばれる異変が発生し始めたのは、およそ三ヶ月前のことであった。
原因不明、発症の予兆なしに罹患者は国の各地で静かに倒れていく。それはまるで、何かがヒト知れず侵食しているようだった。
マミはこの得体の知れない現象が、国全体に影を落としていることを理解していた。それと同時に、自身の無力さを突きつけられていることへ目を伏せたまま、眉間に皺を寄せていた。
そんな沈黙を破ったのは、万事屋の入口に設置していたベルの音だった。
高く澄んだベルの音に、マミは反射的に立ち上がり、急いで部屋を出ていく。
戸を開けると、そこには道化師のような奇抜な衣服に身を包んだ男が立っていた。
「御機嫌よう」
帽子を取って挨拶をした男に、マミは一瞬だけ視線を細めた。
「……ご依頼でしょうか」
「えぇ。まぁ、依頼といえば依頼ですが……正確に言えば情報交換、でしょうか」
そう言って男は上着の内ポケットから一枚の名刺を取り出し、マミへと渡した。
「ファンタイムプレックスオーナー……」
「アガレス・ローレンと申します」
マミはアガレスを応接室へ案内することにした。
「別件の資料を広げたままなので、少々気が散るかもしれませんが」
「構いませんよ」
マミがお茶の準備をしていると、アガレスがホワイトボードを眺めて「巷で噂の昏睡事件……かなり調べ上げているようで」と呟いた。驚いた彼女は咄嗟にアガレスを見る。
「あぁ失礼。六道マミさん、私が相談したいのはその事件についてなのです」
「……詳しくお話を聞いても?」
「勿論」
アガレスはそのまま自身が経営する施設の説明を始めた。彼はアニマヒューマノイドと呼ばれる、獣人をモデルにした機械人形と共に、アミューズメント施設を運営しているという。
「様々な種族のお客様に満足していただいているのですが……最近、従業員から妙な報告を受けましてね」
アガレスは再び懐に手を入れ、写真を一枚机上へと置いた。
「写真に写っている方は?」
「彼はうちの看板アニマヒューマノイド、ジャズくんです」
マミは一言断ってから写真を手に取った。その様子を見て、アガレスはヒューマノイドの存在が珍しいかと彼女に尋ねた。
「いいえ、以前にも見たことはあります。ただ……更に別の機体がいたというのは初耳で……こちらの方がどうかされたんです?」
アガレスは黙ったまま、再びホワイトボードに貼られていた写真を見つめていた。
「……アガレスさん?」
「赤で囲まれた銀髪の男の写真……もしや事件の容疑者ですか?」
「えぇ、まぁ……」
「成程」とアガレスは目を細める。
「失礼……簡潔に申しますとね、ジャズくんが昏睡事件の容疑者を目撃してから、夜な夜な施設内を徘徊するようになってしまったのですよ」
アガレスは続けた。
「しかし……当の本人であるジャズくんは徘徊の件を知りません。他の従業員から報告を受けて、私も彼も把握したのです」
「……大体理解できましたが……私の方からも一つ、お尋ねしても?」
どうぞ、とアガレスはジェスチャーで彼女に促した。
「貴方が先程から口に出す事件……これを知るのは一部の者のみです。貴方……ただの経営者ではないでしょう」
アガレスは何度か瞬きを繰り返してから、高笑いをした。
「流石の観察眼! 友人が一目置くわけだ。大正解です、私はただの経営者ではありません」
笑みを潜めたアガレスの背後からチラリと尾が顔を覗かせた。
「……悪魔でしたか」
「何か困ったことがあったら、獣人と妖怪の混血種である半妖が営む万事屋に行くといいとオススメされまして」
マミはその助言をした者について思い当たる節があるのか、「あぁ……」と納得した様子で用意していた茶を飲んだ。
「……私ね、自分が娯楽に浸るのはもちろんのことですが、今を生きる者に娯楽の良さを伝えたいと思って営業を始めたんですよ。お客様には安心安全で楽しんでほしい――」
「というのは建前で」とアガレスは声のトーンを下げてからマミを見た。
「事件の被害者の中に、友人も含まれているのですよ。一矢報いてやりたいところですが、ワタシだけではどうしようもない……」
「そこでうちの出番……ということですか」
マミは席を立ち、ホワイトボードに貼られた地図をなぞりつつ言った。
「うちとしても、すぐに動きたいと考えています……が、犯人は逃げ足が速い」
依頼を受理するという前提でマミはアガレスに事件の詳細を語ることにした。ホワイトボードに貼っていた写真を外して席に戻った彼女は、それを机上に置いて、指先で写真に映る人物を軽く叩きつつ言った。
「アガレスさん、貴方……ニンゲンという種族はご存知ですか?」
「勿論ですとも。しかし、ニンゲンはとうの昔に絶滅したはずでは?」
そのはずなのだがと嫌味を込めてマミは顔を顰める。その様子でアガレスも気づいたのか、「……生き残りでも?」と呟く。
「御名答……それがこの男――アベル・ヌーマイトという人物です」
アガレスは興味深そうに写真を見つめた。
「見た目はニンゲン時代のままですが……今は機械の体で生き永らえている」とマミは説明を続ける。
「詳しくは話せませんが……彼は以前、ある問題を起こして獄中に入れられました」
「妙ですね……瓜二つの人物像を目撃した者がいるのですが」
「彼は肉体のみを獄中に棄てて脱獄したのです」
「ははぁ……つまりゴーストという状態に近いわけですね」という言葉に対して、マミはただ頷くだけであった。
「ゴーストが他者に取り憑くことは、西洋でもよくありましたが……」
「その手はすぐに周囲の者が異変を察知できるでしょう。厄介なことに、今回の件は誰も気づくことが不可能なのです」
マミは再び顔を顰めた。
事件の最初の被害者は、マミの叔父にあたる妖怪だった。彼女にとって、叔父は師のような存在であった。それ故、叔父が突然倒れたと知ったとき、彼女は動揺を隠せなかった。叔父とは数日前に会話を交えたが、何一つ違和感を抱かなかったのだ。
次の被害者は敏腕外科医と評された妖怪であった。外科医もまた、マミにとって知人と呼べる者だった。立て続けに関係者が倒れるのを見て、彼女は自分に恨みを持つ何者かの犯行ではないかと疑った。だが、その予想とは裏腹に、様々な種族の者が倒れていく。
何人目かの被害者が出始めた辺りで、マミのもとに烏天狗警察の者がやって来た。そこで彼女はアベルが脱獄をしたことと、昏睡状態に陥った者の原因を知ったのだ。
「肉体を棄てたアベルは、他人の身体を器として利用し、魔力のほぼを奪い取っていく。いくら屈強な妖怪といえども、魔力が空になれば倒れてしまう」
「被害者が中々目覚めないのは……」
「回復に時間がかかっているからでしょうね……」
「先程の誰も気づかないというのは?」というアガレスの問いに、マミは再び茶を飲んで口を湿らせた。
「……奇跡的に意識を取り戻した知人から教えていただきました。感覚としては眠っているはずなのに、誰かによって肉体が動かされているのは操り人形のようだったと」
「……つまり?」
「ヤツは乗っ取った体に刻まれた記憶から学習をして、あたかも本人のように振る舞っている……ということです」
「アガレスさん」とマミは彼の名を呼んだ。
「少々、動くまでに時間がかかると思いますが……お待ち頂けますか」
「構いませんよ。犯人に一矢報いることが出来るのなら、いくらでも待ちます」
了承を得たマミは懐から名刺を取り出し、それをアガレスへ渡した。
「――貴方は気配を偽るのが上手い。私と接触したことが、ヤツにバレるようなこともないと判断したので、差し上げます」
「……ありがとうございます」