標的の名は
メンタルクリニックの看板を「閉院」へと裏返し、六道マコは急ぎ家路についた。ジャズの訪問によって得られたアベルに関する情報が、彼の心を突き動かしていたのだ。
屋敷へ戻ったマコを待っていたのは、家族との予期せぬ邂逅。従者、そして冷静沈着な姉のマミと祖母のユリ。和やかな雰囲気は、アベルの潜伏先が判明したというマミの言葉、そしてユリの衝撃的な提案によって一変する。
マコは診療所の看板を「閉院」へと裏返してから深く息を吐いた。
普段であれば、まだ何人かの患者が足を運ぶ時間帯だが……今日は思わぬ情報を得たため、彼の心は急かされたのだ。
手早く院内の窓を施錠し、薬棚や書類の整理を終えたマコは、施錠の確認を念入りに行なってから地を蹴った。
宙を滑るようにしてマコが向かったのは、勤務地からそう遠くない距離にある自身の住まいだった。
庭木の合間から瓦屋根が見え始めた頃、マコは高度を落として玄関先へと降り立つ。扉を開けて中へ入れば、縁側の奥からすぐ足音がやって来る。
「マコ様、お帰りなさいませ。本日は随分とお早いお帰りで」
「色々あってな。姉さんはもう帰ってる?」
「はい。何やら神妙な面持ちでユリ様のお部屋へ向かわれましたよ」
マコは頷き、従者に礼を述べてから縁側を歩き始めた。いくつかの角を曲がると、やがて一際華やかな襖が視界に入る。白地に淡く描かれた百合の花が、訪れる者を迎え入れるように静かに咲いていた。
マコはその前で足を止める。襖の向こうからは、微かに声が聞こえてきていた。
「依頼をされた以上、応えるのがうちの存在理由ですが……こればかりは……」
何やら仕事の話をしているようだった。中断させてまで話すものではない……そう判断したマコは、静かに背を向けようとした。だがその瞬間、床板が僅かに軋む音を立てる。
マズい。そう思ったのも束の間、襖が勢いよく開かれ、マコの腕が引き込まれる。
「っ――」
視界が回り、火花が散るような熱が一瞬走った。気がつけばマコは畳の上で組み伏せられており、彼を抑え込んでいたのは、見慣れた赤毛の持ち主――マミだった。
マコの目の前では金髪の婦人――ユリが「あらあら」と微笑み、扇で口元を押さえている。そして真上からは「マコ⁉」とマミの焦ったような声がした。
「侵入者かと思っちゃって……ごめん、大丈夫? どこも焼けたりしてない?」
「平気……」
普通ならば気がつかないような音を拾い、即座に対応する姉へ、マコは畏敬の念を抱いていた。
「マミに続いてマコも早く帰ってくるなんて、珍しいこともあるものねぇ……何かあったのかしら?」
ユリが穏やかに笑うのを見て、マコは慌てて上体を起こし、正座の姿勢を取る。
「あったのは事実ですが……お二人の話を遮ってまでは――」
「いいのいいの。そういう時は、ちゃんと話した方がスッキリするものよ」
マコは本当に自分が話を始めても良いのか、という意味を含めた視線をマミへと向けた。それに対し、彼女はどうぞと頷いていた。
「実は……夢遊病のような症状に悩むアニマヒューマノイドが、うちに訪ねてきたのです」
するとマミが口を挟んだ。
「そのヒューマノイド、ジャズって名前じゃなかったかしら」
「そうだけど……何で姉さんがそれを知ってるんだ?」
マミは肩を竦めて言った。
「そこのオーナーから聞いたの。症状も含めてね」
「……じゃあ、アベルの潜伏先も分かってるってことか」
「まぁね。今はどう動こうか考えているところだけど……」
先程漏れ聞こえていた会話はその件だったかとマコが納得したところで、今度はユリが口を挟む。
「情報の整理をしましょうか」
明瞭な声を聞き、マコとマミは再び背筋を伸ばした。
「二人は同じ場所に属する者から依頼を頼まれた……しかも因縁深いニンゲンによるもの。問題は……捕縛ね」
ユリはジッとマコを見つめた。
「……何か?」とマコが尋ねるも、ユリからの返答はない。元々彼女の思考も読み取れないことが多いため、不安になって視線を逸らしかけたとき、マミが探るように言った。
「御婆様、何か名案でも?」
するとユリは扇を閉じ、それをマコへと向けた。
「マコ。貴方は囮を務めなさい」
あまりにも唐突な言葉に、その場の空気が静まり返る。
構わずユリは続けた。
「以前に報告を受けた騒動の件もあって、アベルは貴方に強い恨みを持っているはず。でも……向こうは貴方がヒューマノイドと接触したことをまだ知らない。ならばその隙をマミが叩く余地があるということよ」
「御婆様……流石にマコ一人に掛かる負担が大きすぎではありませんか?」
マミが眉を顰めて咎めるも、ユリは首を傾げ、どこか達観した様子で「そうかしら?」と返す。
「マコ、無理して引き受ける必要はないわ。あんたの身が危険に晒される確率の方が高すぎる」
……アベルに恨まれているのは事実に相違ない。だが囮役を務めることで、マミが動きやすくなるのなら、やぶさかではないとマコは感じていた。
しかし、今日相談に来てくれたジャズのことを放置しておくわけにもいかないのも事実だった。
(囮をやりつつ、患者のサポートが行える良い方法は……)
「――あ」
一つだけある。我が身への負担は大きいが、確実性の高い方法が。
「――マコ?」
心配そうに覗き込むマミと目が合った。
「ごめん、ちょっと考えごとしてた」
「御婆様……一つ確認させてください。要はアベルに、姉さんの存在を気づかせないよう注意を引きつけろ……そういうことですよね?」
「えぇ」
それなら、やれる。やらねばならない。マコは膝元に添えていた手を強く握った。
「――分かりました。俺が奴の標的となることで事が円滑に進むなら、喜んでその役を引き受けます」
「……助かるわ」
マコは静かに頭を下げ、すぐに腰を上げた。
「どこ行くの?」とマミに問われ、「自分の部屋」とだけマコは告げると、そのまま部屋を出て行った。
「……あの子が動くのであれば、私も支度を――」
「あぁ待って。マミは……もう少しだけ、残ってもらえるかしら」
「……?」
……囮という大役を任された以上、生半可な準備では済まされない。マコの足取りは、既に決意を帯びていた。
「早いところガーディを完成させないと」