彷徨う音楽家
昼下がり……いつもと変わらない日常を過ごしていたマコだったが、ジャズと名乗るアニマヒューマノイドの来院により新たな物語が幕を開けようとしていた。
うららかな昼下がり。メンタルクリニックロクドーを営む六道マコがカルテを整理していると、来院を知らせるベルが鳴った。
それに気づいたマコは一旦カルテを棚に収納し、椅子にかけていた白衣を回収して部屋を後にした。
受付の前には、アプリコットカラーのオールバックに紳士的な装いをした男性が立っていた。
「すみません、お待たせしました――」
謝罪を述べつつ男性に近づいたマコだったが、男性が振り返ったと同時にピタリと歩みを止めた。
目の前にいた男性の瞳は細長く、同族――爬虫類のように獲物を観察するような鋭さがあった。それに気づいたマコは、僅かに警戒心を抱いた。
「あの……」と呼びかけられ、我に返ったマコは男性に名前を伺った。
「私はジャズ。アニマヒューマノイドを治したことのある精神科医というのは、貴方で違いないだろうか?」
ジャズという者の言葉から、自身の活動が知られていることが窺えた。マコは内心、えらく内容が美化されてしまっていると苦笑しながらも頷く。
「お願いだ。私のことも治してもらえないだろうか」
深々と頭を下げて頼みこんでくるジャズの目を、マコは桔梗色の瞳を細めてジッと見た。
「……俺の専門とする治療は必要なさそうだけど……話を聞こうか。診察室にどうぞ」
飲み物はコーヒーで構わないかとマコは確認を取り、カップに中身を注いでいく。ソーサーの横にはお好みで砂糖も入れられるよう、スティックシュガーを添えて、彼はジャズにコーヒーを差し出した。
「そういえば自己紹介してなかったな。俺はマコ、よろしく。早速だけど、治療を望む理由を教えてもらっても?」
「その……仕事仲間から教えてもらって私も気づいたのだが、スリープモードに移行しているはずなのに、職場を彷徨いているそうなんだ」
「……夢遊病で悩んでいるってことか」
マコは、ジャズがどんな職場で働いているのかを尋ねてみた。
ジャズは目を丸くさせ、不思議そうに言う。
「大体のヒトは、私を見たらすぐに分かるんだが……」
「もしかして有名? 悪いな、案外流行りとかに疎いんだ」
「いや、私としては気が楽でありがたい。私が勤めているのはファンタイムプレックスというアミューズメント施設なんだ。そこでミュージシャンをやっている」
施設名を聞いたマコは「あぁ」と思い出したかのように言った。
「確か大人も子供も楽しめる夢の国……だっけ」
「あぁ」
「成程な……そこでミュージシャンをやってるなら、ストレスとかで夢遊病を発症してもおかしくはないけど……職場で何か悩みとかはある?」
その質問に、ジャズは「特別これといった悩みは……」と首を傾げる。
「なら質問を変えよう。症状を仕事仲間から指摘されたのはいつ頃から?」
「三週間ほど前だろうか……」
「その頃の職場環境とかはどうだった? 普段と変わりなかったか?」
ジャズは目を閉じて記憶を辿っていたが、「待てよ」と何か思い出したのか目を開いた。
「どうした?」
「この状態が起きる前のことを思い出したんだ。良ければログを見てほしい」
そう言いながらジャズは耳元のヘッドホンをクリックし、マコの前に映像を映し出した。
「……この映ってる場所がファンタイムプレックス?」
「そうだ。ここに住み込みで活動させてもらっているんだが……この日は何故か、警備スタッフが騒いでいたんだ」
ジャズの言うように、映像の中では懐中電灯を手にしたロボが忙しなく動き回っていた。
「確か、何者かが侵入したと騒いでいたんだ。私は何かあったら大変だからという理由で、手伝わせてもらえなかったんだが……」
作動音と共にジャズの耳が垂れ下がった。彼の先程の発言などからして、施設の看板ヒューマノイドらしいし、そう判断されるのも仕方がないように感じられた。
「……? ちょっと映像止められるか?」
「出来るぞ」とジャズはもう一度ヘッドホンをクリックして映像を止めた。
「……フィル、この銀髪のヒトは? 獣人とか、生身の警備スタッフ?」
マコが指をさす先に映るのは、黒いスーツに白衣を羽織った、明らかに施設のイメージには合わない雰囲気の男だった。
「いや……私の記憶が正しいのなら、こんなスタッフいない。それに……このヒトはこの日以降、見てすらいないんだ」
「それどころか……コイツを目撃してから夢遊病を発症したと……ジャズ、可能ならこの映像データのコピーを俺に送ってくれないか?」
「やってみよう。そこのパソコンを借りても?」
ジャズはマコからノートパソコンを受け取り、自身のヘッドフォンからコードを伸ばしてパソコンへ繋ぐと、慣れた手つきでキーボードを打ち始めた。
「……えらく慣れてるな」
「父に教えてもらったんだ」
「これで見られるはず」とジャズは呟く。
マウスカーソルの示すファイル内には先程の映像データと同じものが添付されていた。
「ありがとう。それと、キミの症状だが……まだハッキリと言えない。もしかすると重度のバグが隠れている可能性もある……念の為ログは毎日つけておいてほしい。それで何かまた変化があったら、うちにおいで」
「分かった。突然の来院だったにも関わらず、話を聞いてくれてありがとう」
「いやいや……気をつけて帰ってな」
マコはヒラヒラと手を振ってジャズを見送った。
「……さて」
早速送ってもらったログをもう一度再生し、ジャズが目撃したという不審者を出来るだけ拡大して見た。
男がこちらを振り向いた一瞬の静止画。拡大するまで確証は得られなかったが、エメラルドグリーンに光る怪しげな瞳に、マコは見覚えがあった。
「間違いない……」
マコは心の奥底から滲み上がってくる名前を漏らした。
「アベル……‼」