つまり、
目が覚めてから、一番に吐いた。あまりにも急だったので、少しトイレからはみ出してしまった。私は黙々とそれを拭き取り、消毒スプレーを吹きかけた。
今日は朝から家に1人でよかった。フラフラする身体を引きずりながら、家中を見渡して、それを改めて確認して安堵した。ついでに天井付近にロープを結びつけられそうなつくりがないか探してみたが、そんなものはあるはずがなかった。わかっていたが。諦めて自室のベッドに帰る。
ユウカはいなかった。床に散乱する自然数も、本棚を塞ぐ巨木もない。
なぜ、自然数の正体が無性に気になったのか。きっかけは忘れてしまった。でも目的は思い出した。当時は知らなかった概念ではあるが、これはきっと「自分探し」だ。
自分探しというのは、歳をとると黒歴史になることが多いという話をどこかでみたことがある。自分はこんなに真剣にやっているのに、これが恥ずべき思い出となるというのであれば、実にやりきれない。
「若さゆえの過ち」なんて言葉あるが、実際に20歳前後と中年以上で、そんなに顕著な差はみられるのだろうか。まあ、片方しか経験のない自分があれこれ予想しても意味がないのだけれど。そして、自分が十分に歳をとってしまった時、今の私を覚えているのだろうか。きっと忘れているだろう。
私はなぜ産まれたか。この身体を構築するような遺伝子ができてしまったから。それはなぜか。遺伝子には自己複製をし続ける性質があるから。すなわち、遺伝子が形作る生物が生殖するのは、ある自己複製子がそのような乗り物を作ることができるようになって、それが自己複製に効果的であったから。両親が私を産み育ててしまったのも、結局はここに帰結する。愛情というのはよく美化されるが、それも遺伝子による事前のプログラミングにすぎない。美化されるという点も含めて。
ではなぜ、自己複製子が生まれたのか。この問いは、専門家でもない私には意味がない。なぜ光や重力、あるいは素粒子が存在するのか、と問うているのに近いだろう。少なくともそこに、人間の意思決定の時のような、動機はない。あったとしても、それならばさらに源流をたどる旅路が続くだけだ。要するに、私が産まれたことそのものに、理由も、運命も、使命もないと考えるのが妥当だ。あるのは「私」という個体だけ。
と、ここまで考えたことは、「私の身体」の話だ。では、「私」は?
それは、と妄想を続けようとしたところで、急に頭が働かなくなってしまった。ふと、カーテンの隙間から外を覗いてみると、空は茜色のグラデーションを描いていた。
「こういうとき」は本当に妄想がはかどるな、なんて考えながらキッチンへ向かった。
身体がフワフワする。ここまで何も食べてないと、頭が少しラクになる。空腹の苦痛がなければ、ずっとこのままでいたいくらいだ。まあ、そんな設計図を書いた遺伝子がいたとしても、とうに滅んでいるはずだけれども。
キッチンを漁ってすぐに目についた食パンを齧っていることにした。残り2枚を全て食べても、特に何も言われないだろう。
「せめて焼くなり、マーガリン塗るなりしたらどうなの?」
1枚食べきったところで、声をかけられた。振り向かなくてもわかった。そこにはユウカがいる。そんな面倒なことはしたくない、と頭の中で答えた。
あら、そう、と言って、ユウカは私の向かいの席に座った。今までどこに行っていたのだろうか。
「まあ、そんなに会いたかったの?」
また口に出してもいないことにわざわざ答えてくる。こちらは昨晩から気分が最悪なのだ。そんなことはユウカには当然のように知られているのだから、もはや何も喋る気にならない。ため息が聞けるだけ良いと思って欲しい。
急いで残りの食パンを口に放り込んで、蛇口から直接水を流し込んで飲み込んだ。いくらか戻しそうになりつつ、またベッドへと戻った。
部屋は真っ暗な上に、掛け布団を頭から被っているのだから、外の世界は全く見えない。でもわかる。そこにユウカがいる。こちらへ視線を向けているのがわかる。表情はわからない。
「『私』とは何か。進化の結果で生じたシミュレーションだ、と言って仕舞えばそれまでだけれど。ねぇ、ミライ。あなたが知りたいのは、あなたにとってあなたとは何なのか。」
急にユウカがそんなことを言い出した。それ以上は聞きたくない。いやだ。
「あなたが知覚するあなた自身は、物事を考えることができる。それは理論的というよりも、感覚的に。人間は理論的に考える能力があるだけで、デフォルトでは感覚的である、なんて話をどこかで聞いたのでしょう?」
耳を塞いだ。それでも変わらずユウカの声は頭に響いてくる。
「『人間は考える葦である』というのは誰の言葉だったかしら。これに従うのであれば、人間の、種としてのアイデンティティを、考えることとして良さそう。そして、それぞれがどのように考えるかが、個々人としてのアイデンティティとなると言えそうね。」
これは、他でもない私がずっと昔に考えていたことだ。もっとも、当時の知能ではここまで言語化されていなかったけれども。それがどれだけ幸せであったか。
「数学は、現象のモデル化に使われていることからわかるように、物事を形式的に考えることに優れている。中間値の定理の証明で、『当たり前』が証明される様を目の当たりにした時の感動はもう忘れてしまったのかしら。」
やめて、と呟いた。誰にも届くことのない声量だったが、ユウカには届いているはずだ。それでも止まらない。
「あなたは思った。『数学を極めていけば、いつか『私』が証明されるんじゃないか』と。『私が生きていることを保証できるのではないか』と。」
殺してやる。そう決心して、重たい身体をどうにかベッドから取り出した。途端に、自然数の濁流が、私の意思とは反対の方へと私を運んだ。
「でも、ここまでやってきたから、もうわかっているのでしょう?結局のところ、それができたとしても、トートロジーで終わる。たとえ自然数が外にあったとしても。」
この先は言わせてはいけない。きっと今までは無意識に自分を守るために、思考に蓋をしていたんだ。だから、これ以上聞いたらおかしくなってしまうと確信しているのだろう。すっかり部屋に充満してしまった自然数の中でもがいた。
「もういいでしょう?昨日の話の中でもう気づいてしまったのでしょう?」
いやだ。やめて。ごめんなさい。死ね。そんなつもりはないの。沈黙。頭が痛い。こわい。ごめんなさい。産まれてこなければよかったのに。吐きそう。身体が重い。こわい。こわい。こわい。どうして死ねないの。ルールを守りましょう。苦しい。目が回りそう。どうしてそんなこともできないの。パンチ。無知なあの頃。幸せなあの頃。幸せだと勘違いしていたあの頃。自分のことだろう。満員電車。爆音イヤホン。無気力。無気力。ねぇ。ごめんなさい。数学。自分。自分。自分。ミライ。きらい。
助けて。
「もう嫌だ、助けてよ。」
ユウカはそっと私を…