鏡写し。
「ぷはぁ!このために生きてる!」
ちらりと声の方を見ると、クリームまみれだった甘いコーヒーは、いつのまにか半分以上が消えていた。少し視線を上げると、ヒナの幸せそうな顔が目に入り、思わずこちらも口元が緩む。
もう半分しかないよぉ、と嘆くヒナを横目に、同じ様なコーヒーを口に運びながら昨日のことを考える。
自然数が溢れ出してからのことを全く思い出せない。あれ以降の記憶で一番古いものは今朝のこと。どうやら私は、少なく見積もっても、半日は眠っていたらしい。
「やっぱり、週に一回はコレ、飲まなきゃねぇ。」
ヒナはまた半分だけを飲んで、イタズラっぽく笑う。そんなに親密な中でもないので、この発言の真偽は不明だ。
対して仲良しでもないのに、こうしておしゃれなカフェに仲良く並んでいるのは、今日の朝とも昼とも言い難い微妙な時間にメッセージが来て、会えないかと打診されてしまったからだ。
数学の話ができて、かつ変に気を使う必要のない同学年という条件に、私が唯一当てはまってしまったらしい。私は人付き合いが好きではないのだが、そのくせ「いい人」に見られたいといった、目の前のクリーム以上に承認欲求マシマシの人間だったので、断るという選択肢は選べなかった。私はこのような動機を「暇だったから」と表現する。
ちなみに、こんな私が数学同好会なんかに所属しているのも、ヒナに誘われてしまったからだ。
あれは夏休み明けすぐの頃、ひとり図書室で読書に勤しんでいたところ、机の上の本の山の中に数学の本が含まれていたのを、ヒナに見つかってしまったことから始まる。急に話しかけられたと驚いていると、数学トークの雨を浴びせられることになる。まだ暑いとは思っていたが、こんなところで夕立に遭うとは。
加えて、図書委員に、静かにできないなら出て行けと、雨宿りの場所まで奪われてしまう。ヒナはかわいらしい捨て台詞を吐きながら、もっとゆっくり話そうと、私を数学準備室に、つまり数学同好会の活動に連行したのである。
ちなみに、私はその日、初めてヒナがクラスメートであることを知った。
「ねぇ、ちょっと聞いてるのー?」
ムスッとしながら、ヒナが声をかけてきた。慌てて現実にピントを合わせる。
「ごめんなさい、少し考え事をしてました。」
「もー、ミライってばよく考え事するよねー。」
数学同好会で定期的に話す様になってからたいして経っていないのに、ずいぶんと私の習性が把握されているようだ。他に例を挙げるならば、たい焼きは頭から食べるとか、bだけ頑なに筆記体で書かないとか、「f(x)」をたまに「ファンクションエックス」と呼んでしまうこととか。ちなみに、ヒナがどうだったかを私は把握していない。覚えられない。
目の前の人が「ヒナ」と呼ばれていることも、今いる店で注文の列に並んでいる時に、「私、こんなおしゃれなお店ほとんど来たことがないので、ソワソワしちゃいます。」、なんて言ったら、「安心して、このヒナさんにお任せあれ!」と、本当に偶然、呼び方を把握する機会があったからだ。たぶん、今日の夜には忘れている。
「ていうか、いつまで敬語なのさぁ!」
バシバシと背中を叩かれていることに戸惑いながら、口ごもりながらどうにか回答を絞り出す。
「やっぱり、人と話すことが普段から少ないというか、やっぱり、緊張してしまって…」
実際は話し方を知らないだけである。というか、ヒナはヒナで、数学同好会にいるときと、話し方が全くもって違う。わけがわからない。
「もう半年だよ!?同好会入ってから!ほんとに、ミッちゃんはシャイですなぁ。」
そう言いながら、ヒナは1人で楽しそうにしていた。この呼び方が変わるシステムもよくわからない。
「まあいいや。話を戻すんだけどさ、この前ミライが話してた話、後から興味湧いてきてさ。でも、自分の疑問もどうにかしなきゃだし、直接会って、お互いの成果を見合えたらいいな、と思ったんだ。」
それはメッセージの内容に含まれていたので承知している。下手くそな相槌を打って続きを待つ。
「それでさ、どう?何か進展あった?」
困った。すごく期待に満ちた目をしているのが、視界の隅であっても感じ取れる。残念ながら、なんの進歩もしていない。でも、期待はずれと評価されてしまうのは、今後数ヶ月のメンタルに響く死活問題である。私は、昨日考えたことを要約して話しながら、その間にどうにか新しい一歩を見出せないか脳をフル回転させた。ユウカのことに触れない様に気をつけながら。
努力は無駄だった。結局、昨日の概要を話しただけで終わってしまった。恐る恐る、ヒナの顔色を伺う。
「うーーーん、なるほどなぁ。」
眉間にうっすらシワができているが、声色で判断するに、不快感はおそらく帯びていない様に思われる。
ムムムム、とか、そっかー、といった声を漏らしながら、ヒナは数分、思考に没頭していた。少しホッとしながら、コーヒーをすすった。
コーヒーの残量がおおよそ並んだ頃、ヒナがようやく話しかけてきた。
「いや実はさっき言ったのは嘘でさ、今日こうやってミライを誘ったのはさ、アタシが昔からぼんやりと考えてたことを聞いてほしくって。」
はぁ、そうですか、と戸惑っていると、ヒナは慌てて補足し出した。
「あ、別にそんな変な話じゃないよ?いや、変と言えば変なんだろうけど。うーん、なんだろうなぁ。まあ、とりあえず、この前に発表してた、自然数の話。これに結構関係してる話、だと思う。」
あの話に関するものなら変な話に違いない。もし、これを口に出せればいくらか話が弾むのだろうか。それとも白けてしまうだろうか。どうでもいいけれども。どちらにせよ、私の疑問を解決するのに役に立つかもしれない。私は黙って続きを待った。
「現代の人々は、数字なしで社会を営むことは不可能なのは、きっと誰もが認めてくれると思う。」
お金なんかがそうだよね、とヒナは笑った。少し悲しそうに見えた。
「そのせいか、私たちは数字に異常な信頼を寄せているように思えるの。例えば、たくさん再生された音楽は素晴らしかったり、思わず二度見してしまうような値段の絵画には価値があったり、とか。こんなの個々人が好きかどうかだけの話だとは思わない?」
一瞬、ヒナは考え込んだ。
「時には、ただただ数字を大きくしていくだけのゲームが楽しいことさえある。全ての人類に聞いてみたわけじゃないけど、私たちは本能的に数字が、特に大きい数字が好きなのかもね。まあ、それはどうでもいいや。」
心当たりがあることが、まあまあ思い浮かんでくるものだから、つい考え込んでしまった。ふと横を見ると、ヒナが捨てられた子犬のような瞳でこちらの顔を覗き込んでいた。私は慌てて続きを促した。
「えと、それで思うのは、その、ホントに頭おかしいんじゃないかって、自分でも思うんだけど、」
こんな感じの引き伸ばしが、しばらく続いた。そして、ようやく本題に入る。
「数字そのものが何かに関わらず、私たちは数字に寄生されているんじゃないかな、って思ってしまうの。」
「ミーム」と言う概念に近いかもしれない。確か、ギリシャ語で模倣を意味する単語を、遺伝子を意味する英単語「gene」っぽく縮めた造語だったはずだ。音楽は、CDやSDカードのような媒体自体はいつか壊れてしまうけれども、そのメロディは奏でる人がいる限りは続いていく。まるで遺伝子のように。それがミームだった、と思う。
「私たちは、何かを評価するにあたって、必ずと言っていいほどに数字を多用する。それって、数字が私たちに、数字自身を優先的に使わせるように仕向けているんじゃないかって。」
話は一区切りついたようで、「どう思う?」と聞かれてしまった。まだ続くと思っていたので、慌てて返事を絞り出す。
「そうですね、えと、そんなに変な話ではないというか、一応、ある種の説得力はあると言うか、」
視線を上に向けてヒナの表情をそっとのぞいてみた。ちょっとまずいかもしれない。
「と、とにかく。完全に否定できる説ではないと思います!どこかの本で、人間の集団に寄生するかのように、世代をまたいで流行る、ミームという概念があったはずです。数学もそれである可能性は十分にあると思います。ですから、そんなにおかしい考え方ではないと思います。えぇ、もう普通と言ってもいいかもしれません。」
私の慌てふためく様は、実に滑稽だったに違いない。私が言い終わると、少し間を置いてからヒナは吹き出した。
「アハハハハ!なんか、変に悩んでたのがバカみたい。そっか、普通かぁ。」
でもミッちゃんに普通って言われても信ぴょう性ないなぁ、と続いたことには一瞬、ムッとしたが、すぐに腑に落ちてしまった。
「ミームかぁ。人間が何かしらの概念に寄生されてしまう、あるいはそう感じてしまうのは、私が人間だからなのかなぁ。人間の特性として、知識の継承が挙げられることがあるけれど、まさにこれのことを言ってるのかな。」
ゆっくり確かめるように、ヒナは言った。
「私もきちんとわかっているわけではないですが、そうであると思います。まあ、知識の継承はミームでしょうが、それがミームの全てとは限らないかもしれないですけど。」
必要十分条件だ、とヒナは笑った。
「あぁ、なんか悩んでいたのがほんとバカみたい!ねぇ、ミライ。まだ時間ある?カラオケ行こ!」
とりあえず、丸く治ったことに、ほっとした。この後のカラオケで、ヒナが歌った曲が、自己嫌悪ばかりのロックなデスボイスばかりだったのが少し引っかかるが、まあ、いちいち気にするような気遣い、あるいは優しさを持っていない。
知っている曲ばかりで、私も一緒に歌えたのだから、それで許してほしい。
帰宅してからしばらく経った頃、私は自室のドアを少しだけ開けて、中を覗き込んだ。今朝の記憶は、寝ぼけた人が見間違えたのさ、と自分に言い聞かせながら。だけどちょっと怖いな、なんちゃって。
隙間から出てきた「1」が私の頬を掠めてどこかに飛んでいった。思わずため息が漏れる。冷蔵庫は空いていただろうか。それともおやつを用意するべきかしら。少し考えてから、諦めて普通にドアを開けて自室に入った。
「あら、おかえりなさい。楽しかった?」
ベッドの上にはユウカがいた。
一度部屋から出た。ドアを背にわざとらしく瞬きを3、4回。そして深呼吸。再び部屋に入った。
ベッドの上にはユウカがいた。
ユウカが引き留めていなければ、私は今の動作を何回繰り返すことになったかわからない。
「疲れて幻覚でも見ているとでも思ったのかしら。でも、あなたが私を知覚しているということは、あなたにとってそれは幻覚であっても本物でしょう?あなた1人しかいない今、何を迷うことがあるのかしら。」
ユウカはいつもストレスがなさそうで、実に羨ましい。このカオスな状況で、ゆったりと読書に勤しんでいる。
今朝の時点では、「1」が部屋を漂っているだけだった。その時点でかなり気が狂っているのだけれど、見間違いだと思い込んでやり過ごすことにした。だって、「1」が本当に目の前に現れうるのであれば、私の疑問は、トートロジー的な回答に辿り着きかねない。だから見なかったことにした。
そして現在、床は自然数たちでごった返している。はじめに「1」がでてきたものだから、順番通りに現れるような気がしてくるが、そんなことはないらしい。ちょうど私の足元で、いつかネットで見た、やけに名前の長い巨大数がすごい速さで自転していた。なぜ、それが例の巨大数だとわかるのか。相変わらずわからない。
漫画で埋め尽くされている私の本棚があった場所には、「向こう」にあるはずの巨大な木があった。ゲームのバクか何かでオブジェクトどうしが重なってしまっているような、そんな感じになっているのだろう。木の表面から、本棚の角と思しきモノがはみ出ている。もう漫画は読めないかもしれない。
ふと、帰宅した時の家の様子を思い浮かべてみる。何度やっても、何の変哲もない、いつも通りの家が見える。しかしながら、この木の大きさを考えれば、家を余裕で突き抜けていないとおかしいはずだ。まあ、深く考えてもどうせ無駄なのだけど。
ざっと見まわした感じでは、変化、というか異常はこれくらいのようだ。改めてユウカを見ると、「落ち着いた?」なんて聞いてくるので、「えぇ、気が狂いそう。」と答えてやった。「なら、大丈夫そうね。」なんて言われてしまったが。
苦笑しながら、ベッドに腰掛ける。そして、ユウカが読んでいる本を覗き込んだ。お気に入りの漫画だった。どうやら、漫画を取り出すことはできるらしい。少し安心した。
「それで、どうだったのかしら?」
漫画を静かに閉じて、ユウカが改めて聞いてきた。どうと言われても困る。わざわざ言及するような出来事などなかった。だから、「別に。」と返す。
「どうせ、今日は何もやることはないのでしょう?お友達と何を話したか教えてくれたっていいじゃない。」
そう言って、ユウカは私の頬を突いてくる。これ以上逆らうと面倒なことになりそうなので、渋々、今日の出来事を話した。あの人の名前はやっぱり思い出せなかった。
「その子って、ミライに似ているかもね。」
ユウカがクスクスと笑うものだから、私の目はきっとまん丸だっただろう。それはありえない。そうであって欲しくない。
「でも、音楽の趣味も似通っているのでしょう?」
口に出していないこともユウカには伝わってしまう。ユウカには、愛想笑いで誤魔化すことができない。それ以外のコミュニケーションなんてわからないのに。こんなことを考えているのもバレている。しかし、特に気にせずにユウカは喋り続ける。
「数学が支配してくるような、恐怖を覚える。これってあなたが自然数の正体を知りたがっている動機に深く関わっているんじゃないかしら。」
私が自然数の正体を知りたい動機。そういえば、忘れていた。最初に知りたいと思った頃から、随分と時間が経ってしまっていたから。でも、思い出した。思い出してしまった。そうだとしたら…
「今日もちょっと失敗したかもしれないわね。」
気がつけば部屋は真っ暗だった。私はベッドとユウカに包まれながら泣いていた。