表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/6

質疑応答。

 発表がおわり、少しの安堵。窓からそよ風が吹いてくる。涼しい。私の身体がいくらか熱を帯びていたことに初めて気がついた。

 「ダーヴィニズムとか、コウモリであることとか、そのあたりの話はよくわからんけど、まあ、確かに言われてみれば不思議かもな。」

 部長が良さげな反応を見せていて、肩の力が少し抜けた気がした。しかし、私の方はまだ力を有り余らせている。さあ、君たちはどうするかな。フハハハハ。嘘です。早く解放してください。

 「疑問ではあるっス。そこには完全同意っス。でもこれって意味あるんスかね。」

 ヒナかシュンの一方が一番恐れていたことを言い出した。面倒なので、今後脳内では「っスの方」と表すとしようか。いや、そんなこと考えている場合ではないのだけど。

 「『意味がある』というのは?もう少し噛み砕いて教えてもらえるかしら。」

 「っスじゃない方」が助け舟を出してくれた様だ。果たしてどちらにとっての助け舟なのだろうか。手のひらがじんわりと湿ってきた。

 「えっと、ラッセルのパラドックスってあるじゃないっスか。自己言及をするとおかしなことになるっていう話の。ベリーのパラドックスなんてのもあるっス。今回のテーマって数学自体への自己言及になってないっスか?だから、ハナから矛盾を含んでいる様な気がするんスよ。」

 「なるほど。でも待てよ。今回は別に何かの証明をしたいと言う話ではないんじゃないか。だから仮に自己言及や矛盾があったとしても、それが直ちに問題になるとは言えないんじゃなかろうか。」

 「確かにそうかもね。それと、無限ホテルのパラドクスやバナッハ・タルスキーのパラドクスのように、直感的には矛盾がある様に見えて、実はそんなことはなかった、なんてものもあるだから、矛盾を根拠に理論の破綻を指摘するのであれば、それが矛盾であることを明示しなくてはならないんじゃないかしら。」

 「ムムムム…」と「っスの方」が小さく唸り出した。なんだか、今の数秒の肩の動きで、きれいなサインカーブを描ける気がしてきた。

 「うーん、この問題にどうやってアプローチをすればいいのやら。全く見当がつかんなあ。」

 全員が静まり返ってしまった。私の嫌いな静けさだ。持ってくれよ、私のメンタル。

 「そういえば、数感覚というものを聞いたことがあるわ。」

 「なんっスか、それ?」

 「簡潔にいうならば、数を認識する能力ね。スービタイズという言い方もあったはず。例えば、このチョコレートが100個ある山と99個ある山を想像してみて欲しいのだけれど、両者には一目でわかる違いなんてないわよね。数の違いを知りたければ、数えなくてはならいわ。でも、これが2個の山と3個の山だったらどうかしら。数えるまでもない。スービタイズはパッと見て何個あるかわかる能力と言えるかもしれないわ。」

 「その説明の仕方だと、数感覚には限度があるということか?」

 「ご名答。せいぜい3、4個が限度だと言われていたと思う。私たちがそれより大きい数を扱うことができているのは、数えることができるから。数えるという行為をよく見てみると、1個を認識する、それを取り除く、という過程を全てのモノが無くなるまで繰り返していることがわかるでしょう?だから、数えるという行為自体がスービタイズに依存しているといえるわ。人によっては2、3個ずつカウントすることもあるけれど、結局それらもスービタイズの許容範囲内だしね。」

 「そんなものがあるんっスねぇ。じゃあ、自然数はアタシたちの中にある、脳内プログラムってことになるんスか?」

 「いや、まだわからないぞ。イチゴとバナナの同一視によってフルーツという概念を得た様に、何かしらの存在の同一視によって高々4程度に該当する何かを見出しているのかもしらん。つまり、外からの可能性をまだ否定できない。」

 「うーん、でも、その同一視できるという能力自体が、脳内プログラムと見なしてもいいんじゃないっスか?そんな気がしないっスか?」

 「このケースで話を進めるのであれば、内と外で同時に自然数が存在している、という結論になるんじゃないかしら。外にある自然数を、私たちは内にある自然数に当てはめることで認識できているのかもしれないわ。」

 「あー、そう言われるとなんか納得するっス。そもそも外に自然数とみなせるものが存在しないのであれば、たとえ自然数判定装置が脳内にあったとしても、人類は自然数なんて微塵も知らずに死んでいくことになりかねないっス。」

 「ここまでの話を整理すると、自然数は『ある』ものだとして、それは我々の感覚として内在しているか、外部に自然数らしさを持つ物体が存在しているのか、あるいは両方が同時に成り立っているのか、となるか。ふーむ、全くもって前進しないなぁ。」

 再び沈黙。私には彼らの話に入る力はないらしい。ただ聞いてるだけでここまできてしまった。ちなみにスービタイズの話も後々、追加で話せる様に調査済みだった。もっとも、調べたこと、考えたことすべてが既に出てしまったのだが。

 「逆に疑問なんスけど、内だけ、外だけ、っていうパターンはあり得るんスかね。」

 「まさに今、それを考えていた。それで、外だけの方はあり得るんじゃないかと思うんだよな。」

 「あら、それはどうして?」

 「ダーヴィンの進化論を思い返してみたんだ。1やら2と呼べる様な特徴、つまり自然数らしさを持つものに対して、ある特定の反応を返す生物がたまたま誕生したとして、その行動がたまたま生存に有利であれば、それは自然淘汰によって広まっていくんじゃないか?さっきの話でも出てきたが、人類の発展具合を見るに、そのような性質が生存に有利となる可能性は十分にあるだろう。」

 「ちょっと待つっス。それって結局、進化の過程で内の自然数が構築されたという話にならないっスか?」

 「意識的かどうか、という話ではないかしら。要するに、人類は物体がある種の性質を持つときに、何かしらの反応をしていたり、感覚を持ったりしていることに気がついたのかもしれない。それに0、1、2と名前をつけた。いや、なにか間違えている気がするわ。」

 「まあ、パッと思いついたことを言っただけだからメチャクチャなことを言ってしまっているだけかもしれん。とりあえず、そろそろ次の発表に移ろうか。春休みはまだ始まったばかりだ。一旦、全員の疑問を共有してしまおう。一度離れてから再考してみると、いいアイデアが浮かぶかもしれないしな。よし、素晴らしい発表をしてくれた期待の新人に拍手だ!」

 私は愛想笑いで小さく礼をしてから、ホワイトボードの掃除を始めた。この後、他の三人の発表があったのだけど、何を言っているかわからなかった。それはあまりにも高度な内容だったからか、山場を乗り越えた安堵や疲労でぼうぜんとしてしまったからか。あるいは、私の疑問が解決されるささやかな希望が薄くなっていくのを感じたからか。


 気がつくと、発表は終わっていて今日の場はお開きになっていた。私は寄るところがあるので、と帰路の途中に1人離れ、反対側の公園のベンチに座ってぼんやりしていた。

 桜が散っている。今夜の私はあの桜のようになるかもしれない。いや、なる。ならでおくべきか。家の近くのスーパーで無駄遣いをする決意がみなぎった。

 「んぁ?ミライじゃないか。こんなところで何してんだ?」

 声の方を振り返ると、そこには先生がいた。酒の缶がたくさん入った袋を持って。立ちあがろうとしていたのだけど、そのまま先生が隣に座ってしまった。

 「しかし、まあ、なんだ。おまえさん、随分と変ところが気になるんだな。」

 えぇ、まあ、とまた愛想笑い。

 「ま、気持ちは分からんでもないよ。」

 そうなんですね、はは、と。急に人と話すことになるとパニックになる。自分は今どんな顔をしているだろう。

 「なあ、ミライ。数学は好きか?」

 「好きだけど、嫌いです。」

 いつも考えていることだけに、自分でも驚くくらいにスッと答えが出てくる。

 「ほお、不思議なことを言うな。」

 「私は、正確に、一歩ずつ進めていく数学の過程が好きです。登場人物の気持ちや作者の考えみたいに、それが正しいか確実でないことを聞かれることもなければ、物理や化学の様に、何が正しいかを手探りすることもありません。正しいことを正しいとはっきりと言ってくれる数学が、私は大好きです。」

 「それで?」と先生が続きを促す。

 「一方で、その正しさの根本に迫ろうとすると、少しずつ、でも確実にその脆さが見えてきます。例えばゲーデルの不完全性定理。あれが単に数学の一定理であって、『理性の限界』なんて称されることが馬鹿げていることはわかっています。が、やはり数学には完全であって欲しい気持ちもあります。完璧でいて欲しかったんです。だから私は数学が嫌いです。」

 「矛盾だな。もしかしたら、ミライの見る世界には、本当は数学なんて存在しないのかもな。」

 そう言って、先生はすごく楽しそうに笑った。

 「好きでないことが嫌いであることは証明されてないです。」

 先生に釣られて、ちょっと笑ってしまった。らしくないことも言ってしまった。後悔はない。少なくとも今は。

 「ふふ、なかなか痛いところを突くではないか。」

 さて、と呟きながら先生が立ち上がる。

 「名残惜しいが、そろそろ帰らないとならない。寄り道も程々にしろよ。」


 そしてその夜遅く、家族が全員寝静まった頃。私は先生が最後に言っていたことを思い出していた。

 「今日の発表を聞くに、おそらくメタ数学と数学を混同している。自然数やペアノの公理についてもっと詳しく知りたければ、この本を読むといい。」

 なんと、先生はあれから一度学校に戻り、私のために本を取ってきてくれたのだ。でも、それは学校に酒を持ち込んでしまったことになるが、大丈夫だったのだろうか。

 私は、その本を読む準備をしていた。その本は英語で書かれている。読めないことはないのだろうけど、パラパラと中を見てみた感じ、かなり集中しなければ読み解くことはできそうにない。

 結局あの後、スーパーに寄るのを忘れてしまった。おかげで糖分補給はできない。

 「よし、今日はもうやめよう!」

 1人なのにわざわざ口に出した。そのままベッドに飛び込む。そして、彼女のことを考える。


 数分後、いや、数秒も経っていないかもしれない。私は「向こう」にいた。「向こう」とは何かと聞かれても、よくわからない。私もここがどこか知らないし、なぜここに来られるのかすらわからない。

 「まあ、久しぶり。いつ以来かしら。いらっしゃい。」

 彼女が、ユウカが私を出迎えにきてくれた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ