空蝉
全面のガラス窓に叩きつけるような雨。
この部屋から雨雲までもうわずかだ。
もしかすると、斜め先にあるビルの高層階は雲の上なのかも知れない。
それを考えると、吾朗は悔しくなるはずだった。
だが、今は悔しくない。
実際、ビルがいくら高くとも雨雲の上につき抜けていることはない。
雲の上にいくにはジェット飛行機か、宇宙船に乗るしかないだろう。
そう考えても、自分より高いところにいる人間が許せなかった。
だが、もうそんなことはどうでもいい。
もう二度と手に入らないものを、失ってしまったからだ。
ガラスに打ちつける雨は、すじになって流れ続けた。
街の小さな小料理屋で、のれんを片付けている男がいた。
男の髪は長髪だったが、汚らしく見えないように後ろでまとめ、和帽子をかぶっていた。
男は店の中で、虚ろな表情をしていた。
「直樹さん、どうなさったのですか?」
「……」
長髪の男は、女性に声をかけられ、徐に振り返った。
「佳純…… いや、なんでもない」
もう何度も言って、結果はわかっていた。だから、彼女に言っても仕方ないことだった。
「まさか、また私のこと……」
直樹は慌てて打ち消した。
「いや、違うんだ。深く考えないで」
両手で顔を押さえて、泣き出しそうになる佳純を、直樹は抱き寄せる。
暖かい感触、髪の香り、優しい心。
何も変なことはない…… 変なことはない…… そう思えた。
だが、何もかもこっちの想像の通りだ。
意見が食い違うこともあるが、些細なことで、それはすぐに収まってしまう。
今の佳純…… いや彼女には何かが抜けてしまっている。
それはもう戻ってこないと、直樹は漠然と感じていた。
「疑ってしまって、ごめんなさい」
佳純がそう言って、ホウキとチリトリを持って店の外へ出た直後だった。
「あの、もう閉店時間を過ぎておりまして……」
弱ったような佳純の声がすると、押し込まれるように店の中に戻ってきた。
佳純を追うように、禿頭の男が入ってきた。
「料理とかそういうのは望んでいない。水の一杯でももらえないか?」
「……お客様、もう店は」
直樹はそう言いかけた。
直樹の中で、微かだが記憶に男の姿を覚えていた。
だが、名前や印象が思い出せなかった。
直樹が目配せすると、佳純は奥に水を汲みに行った。
禿頭の男は椅子に座ると佳純の方を見つめたまま、直樹に言った。
「お前は幸せなのか?」
「……」
「聞くまでもないというところかな。良かったな」
「……お前、何しにきた?」
禿頭の男が放った言葉に、妙に心を掻きむしられた。
「……通りかかっただけだ。ただ歩き続けて無性に喉が渇いていた」
こいつは何か知っている。
直樹の直感がそう言っていた。
佳純がコップに水を入れて持ってくると、禿頭の男はコップを持った彼女の手を包むように触れた。
「!」
そのまま水を受け取ると、一息に飲み切った。
そしてコップを机に置き、立ち上がる。
「ありがとう」
店を出ていく男を、直樹は追って店の外に出た。
男は消えるようにどこかにいなくなっていた。
直樹の心で燻っていた何かに火がついた。
その日から、直樹の日常は変わってしまった。
佳純と新しいメニューを作ることは続けていたが、店を開けることがなくなった。
包丁を持つことがなくなり、代わりにパソコンで何かを調べ続けていた。
一つは『佳純』の状態ののこと。
もう一つは『禿頭』の男のこと。
半月ほど経つと、直樹はある単語に辿り着いていた。
佳純のこの状態は『OFF』と呼ぶ状況だと言うことだ。
さらに調べていく内、それがどういったことを意味するか、直樹も詳細にわかってきた。
これは心のない状態を示すようだ。
姿形、声、反応、それらは佳純そのものだが、何かが足らない。
何を持って『心』がないと言うのか、直樹にもはっきり分からない。
匂いも、質感も全て佳純『そのもの』なのに何かが満たされない。
直樹の中で、明確な答えに辿り着けない苛立ちが募っていた。
それと、佳純がいつからこの『心がない』状態になったのか。
直樹には分からなかった。
何か、記憶が操作されているように思えた。
記憶を操作したり、佳純が何かされたとしたら……
きっと閉店後に現れたあの男に違いない。
直樹は店の防犯カメラ映像から男の顔画像を取り出し、ウェブで検索を掛けた。
ほどなく禿頭の男が『木下吾朗』で、商社の社長であることがわかった。
パソコン画面に表示される吾朗の顔をじっと見つめると、直樹は決心した。