たぶんオマーン湖
「ねー、かずみん」
萬屋先輩が私の名前を横から呼んだ。
「『金太の大冒険』って歌、知ってる?」
私は席に座ったまま、かわいい『うんちくん』のマスコットを作っている手は止めずに、可能な限り淑やかな動きで首を横に振り、知らないと答えた。
心が痛んだ。嘘をついた。悔しかった。
この世で1番尊敬するつボイノリオ大先生のその名曲を、この私が知らないわけがなかった。
『お万の方』も『インカ帝国の成立(有名なマ★コ・カパックの歌だ。伏せ字にするのが悔しい)』ももちろん大好きだが、やはりつボイノリオ大先生の代表作といえば『金太の大冒険』だ。
もう何千回聴いたか知れない。聴くたびに体が震える。どういう展開で歌詞が進むのかなんてもう知り尽くしているのに、聴くたびにお腹を抱えて感動に震えてしまうのだ。
つボイノリオ大先生ほどの天才はこの世にいない。
先輩は歌った。『金太の大冒険』を、私の前で。
ここがもし音楽室だったらピアノで伴奏を弾いてしまっていたかもしれない。つボイノリオ大先生の曲はすべてコピーしている。幸いここは手芸部の部室で、机しかなく、私は机を指でリズミカルに叩いてしまいたくなる気持ちを編み針を動かすことで懸命に誤魔化した。
暗唱すら出来るその歌を、合わせて歌ってしまわないよう必死で自分を抑えながら、先輩の口から聴き終わると、私は笑った。お腹を抱えてではなく、頬をおさえて。
「えー、やだー、なんですかその歌ー?」
私は精一杯知らないふりをしながら、恥ずかしがるふりをした。
「どう? 面白い?」
ニヤつく先輩の問いに、私はかわいい顔を作って笑った。
「面白ーい。けど、やだー」
「へー、かずみんって、意外と下ネタOKなんだ?」
先輩は私の明るい反応に、まんまと私に興味をもってくれたようだ。
「勉強できるし大人しいから、こういうの嫌がると思ったけど、意外だなー。印象変わったよ」
私はというと大好きな先輩がつボイノリオ大先生の名曲を知ってくれていたことが飛び上がるほどに嬉しかった。
でも表面には決してその気持ちは出さず、ブレザーの制服の皺をきちんと伸ばすと、冷静さを装って机の上に肘を置いた。
「面白い歌ですね。でも今度はもっと真面目な歌を教えてくださいよっ」
本当はもっと歌ってほしい。『吉田松陰物語』なんかも聴きたい。松陰シンドバットみんなに見せるところなんて最高だ。あるいは『金太の大冒険』の金太がマカオにつくところの面白さを語り合ったり、金太がまたたいたら男の人はどれだけ痛いのかを聞いたり、色々したかった。
きっと私が先輩ともっともっと仲がよかったら、遠慮なくそういう話も出来るのだろう。バイト先の店長や友達の前でいつも岩谷テンホーの『みこすり半劇場』の話で笑い合っているように、先輩との仲も緊張しないようなものになれば、きっと一緒につボイノリオ大先生の名曲の数々を、笑って歌い合えるようになるのに。
私と先輩の仲は、今のところ同じ手芸部の部員というだけ……。
一番好きなひとに、一番好きなものを隠さないといけないなんて……。
私はクラスの中でも、私を知る上級生の間でも、お淑やかな優等生で通っている。意外すぎる面を見せたら先輩が遠ざかってしまうかもしれない。
「じゃあ、あれ知ってる?」
先輩が新しい話をはじめようとしている。
私は胸をドキドキさせながら、顔が輝きすぎないよう気をつけながら、それを待った。
先輩は言った。
「カナダのサスカチュワン州にある有名な湖の名前」
私の顔から笑顔が消えた。完全に消えてしまった。
カナダ? サス……なんだって? 湖て……。
つボイノリオ大先生の曲の話じゃないのかよ。
先輩は私の反応に気づきもせず、その湖の話を続けた。どんな形をしているかとか、どんな魚が釣れるのかとか、私のまったく興味のない話を、延々と。
先輩の口から聞かされる話なら、どんな話でも楽しいはずだった。でも続けたい話があるのに先輩はそれを続けてくれない。そのことが私をどんどん不機嫌にさせた。昼間見つけたかわいいお店の話を聞いてほしいのに延々と仕事の愚痴を話す夫を見る主婦の殺意がわかるような気がした。
つボイノリオ大先生の話をしようよ。
せっかく先輩のほうから始めてくれたのに、途中でどーでもいい湖の話に切り替えるなんてあんまりだ。
あれ? でも、つボイノリオ大先生の名曲『世界の国からあそこから』に登場した湖の話なのかもしれない。でも先輩ははっきりと言ってくれない。いつまで待ってもつボイノリオ大先生の話に戻って来てくれない。
その湖の名前をしつこく私に言わせようとしているようだったけど、お生憎さま。私はそんな湖の名前、知りません。なんとなく見当はつくけど、知りません。
「なー、かずみん」
疲れたのか、先輩は話を取り下げると、私から視線をはずし、言った。
「もうすぐ寒くなるだろ? マフラーとか、編むの?」
マフラーの話とかどうでもいい。
早くつボイノリオ大先生の話題に戻ってくれないかな。イライラ……。
「そのさー」
先輩は口笛を吹くような言い方で、言った。
「俺、かずみんが編んだマフラー、欲しいなー……なんて」
あげません。編む気にもなりません。
つボイノリオ大先生を裏切った先輩なんて、大嫌いなのです。
私がツンツンしていると、先輩は涙を流しているような顔になり、手持ち無沙汰そうに手をぶらぶらさせ、がっくりと頭を垂れ、私の側から離れて行きながら、再び、しかし今度は元気のない声で、『金太の大冒険』を歌い出した。
私はぱあっと顔を輝かせ、美しいお姫様が逃げてきたところから一緒に歌い出した。
「金太まもって」の歌詞を声を合わせて繰り返しながら、先輩は涙目のまま不思議そうに笑い、『もう覚えたの?』みたいな顔で、嬉しそうに私を見つめた。