牛乳の川
ここはとある桃源郷。高くそびえる山あり谷あり、どこまでも地平が広がっている。
理由は分からないが、気がつくとワタシはここにいて、しばらくすると空気に馴染んだ。目の前に川がある。白い清流から甘い香りがする。
「これは牛乳さ」
くすんだ色の外套を召した女が言った。いつからいたのだろうか。ワタシには思い出せない。しかしそんなことはどうでもいいのだ。
川縁にかがみ、見よう見まねで牛乳を掬う。
両手に包まれた白い液体は紛れもない牛乳の味がした。
「美味しいですね」
「そうだろう」
女は頷いた。辺りにはワタシたちと同じように牛乳を飲む人で溢れていた。そこでワタシは、
「こんなにたくさんの人が飲んだら牛乳は枯れてしまいませんか」
と女に問う。
「そんなことを気にするなんて、お前は面白いね」
と彼女は笑った。そして、
「上流に向かえば分かるだろうに」
とつけ加えた。
ワタシは牛乳で膨らんだお腹を抱えて歩いた。川の両岸には相変わらず人が満ちていた。
「ここから先は通れません」
通行禁止の札に行きついた。仕方なく道を折れた先に、今度は赤い川がある。そこでも人々は川の水を口に含んでいたのだ。
「これは何ですか」
近くの男にワタシは訪ねた。
「さあ、だけどうまいよ」
確かに赤い水は美味だった。ワタシはまたしても源泉に向かった。今度は通行禁止の看板を乗り越して進んだ。
しかしいつまで経っても源泉に辿り着かない。こんこんと止めどなく流れる赤い川が、ワタシの源泉への興味を減衰させていく。
「別に出所なんてどうでもいいかあ」
諦めかけたワタシはその場に蹲った。すると向こうから人影がやってくる。
「あなたはなぜここに来たの」
厳しい顔つきの青年がワタシに詰問する。白い川と赤い水の正体を知りたかっただけだ、と答えると、
「なら、見せてやるよ」
青年についていくと霧に覆われた森へ誘われた。
開けた場所に出ると、人が蠢いていた。
頭から串刺しにされた人間が、圧搾されて雑巾のようになっている。けたたましい慟哭が広場を埋めつくし、やがて残響に変わる。
白濁した脂肪と、赤黒い鮮血はろ過されて、二股に別れたレールを下流へと滑っていく。ワタシが後ずさりすると、視線が一斉に集まった。
地面を引きずられながらワタシは思った。理想郷とは甘露を舐めているときの側面に過ぎなかったと。