壱話 依頼
ノイズのかかった光景、曖昧で断片的な記憶。
ここがどこなのかも分からず、目の前にいるのが誰かも知れない。
そんな赤黒く染まった視界の中、影のように黒い、得体の知れない「何か」が袖を掴んでくる。
そして────
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「──ッ!!!」
音がするほどの勢いで喜助がソファーの上で起き上がる。
体にかけられていた毛布がパサリと床に落ちた。
この涼しい季節の中、全身に汗をかき、呼吸が乱れ、瞳孔は細かく震えている。
「やっと起きたのか。……って何だ、その汗」
「……」
声のする方を見ると、ピンク色のエプロンをした女の子が立っていた。
その姿に不思議と安心し、喜助は冷静差を取り戻す。
この若干男らしい口調の彼女の名はルリ。
魔人と呼ばれる種族の魔物だ。
……とは言え、魔人は体内構造こそ魔物に違いないが、外見は人間と何一つ変わらない。
人の目を惹くほど整った小さな顔に、見透すような紅い瞳。
クセのある長い金色の髪が、今はダイスの飾りがついたヘアゴムでポニーテールにまとめられていた。
どうやら夕食を作っていたらしい。
「俺、いつの間に寝てたっけ。夕食の材料買って帰って、それで……」
「……買い物袋を机に置いたと思ったら、そのままソファーに直行してたぞ。覚えてないのか?」
「いや……覚えてないな」
帰宅早々に無意識にソファーで入眠とは、かなりお疲れだったらしい。
時計を見る限り、喜助は一時間弱もの間寝ていたようなのだ。
人は家に帰ると安心感から疲労が増すと聞くが、その通りかもしれない。
────と言うのも、ここは「リバーシ」という名の事務所。
喜助が経営している便利屋で、同時に喜助とルリの家でもあるのだ。
この自宅兼事務所は広い部屋ひとつと小さな部屋二つ、そして風呂トイレという間取り。
そのうち広い部屋が事務所としてのスペースであり、端には机とソファーが置かれ、やってきた依頼主との応接スペースとなっていたりする。
「……そういえば買い物に行く前、魔物に財布を盗まれてさ。それを追いかけるために走って、わざわざ能力まで使って。だから疲れが溜まってたのかな」
「まったく……。体力管理もそうだけど、もう少し防犯意識を高めたらどうなんだ」
ルリはエプロンを脱ぎながら呆れた声でそう言った。
それもそのはず、この佐曽利町においては盗まれるような格好で歩く方が悪いというのが常識だ。
まぁ本当に日本なのか疑うレベルの治安だが、事実ここはそういう場所。
しかし、にも関わらず喜助はいつも財布をポケットに入れているのだ。
「もうキスケは、昔ほどの力はないんだぞ。今回は良かったかもしれないけど、いつでも取り返せるわけじゃないんだ」
「……ってもこの街の魔物に俺の『糸』に対抗できる奴はいないから大丈夫だって。逃げられても東京は高い建造物が多いから『糸』を使うのに有利だし、誰が相手だろうと慎重に糸を張って動きを封じれば────」
「ばか。他の地域から上位の魔物が来るなんてこと、東京の街じゃ珍しくないんだぞ。そんな奴に財布を盗られたらどうするつもりなんだ」
「いやぁ、まぁ……」
喜助の苦しい言い訳は打ち破られた。
この件に関して喜助に勝ち目はない。
ルリはポニーテールを解き、ヘアゴムが外れると肩甲骨あたりまで伸びた金髪がふわりと垂れた。
ルリはこれ以上言う必要も無いと思ったか、手をパンと叩いて雰囲気を変えた。
「さ、お説教なんて聞きたくないだろ。ご飯を食べよう。私お手製のハンバーグだ」
「手製!?」
しかし雰囲気は明るくなったものの、喜助の表情は相反して曇った。
「お、お前!先週作った野菜炒めですらあの有様だぞ!?少しくらい値が張ってもいいから、今からでも出前を────」
「失礼な。あの野菜炒めは美味しかっただろう」
「野菜はな!肉は……なんか本当、雨水に浸されたハチミツにトウモロコシの風味が合わさったような味だったろ」
「少し焦げただけじゃないか」
「少し焦げただけであんな味になるかよ!」
ご察しの通りルリは料理の腕が低い──というより、壊滅している。
魔物の体質が若干混ざっている喜助の胃袋だから何とか耐えられたものの、あれを人間が食べるとどうなるかは想像に難くない。
「うるさいなぁ。もう作ったんだ。食べよう」
「そりゃ食べるけど……」
お腹が空いていないと言えば嘘になる。
例えそうでなくとも、作ってくれたものを食べないわけにもいかない。
喜助としても気乗りはしないが。
「まぁ安心してよ。今回は自信あるんだ」
「作るならレシピを見て作って欲しいんだけどな……」
ルリが意気揚々とダイニングのある部屋に歩き、喜助もこの事務部屋の窓のカーテンを閉めてから後を追った。
さすがは佐曽利町、夕暮れといえど窓の外はいまだ賑やかだった。
と、喜助が前を進んでいたルリに声をかける。
「そうだルリ、入口の鍵閉めてくれよ。もう二分くらいで営業終了時間だし」
「え、なんで私が」
「そこから入口まで二歩じゃねえか」
「むう……」
ルリは言い返す言葉も見当たらず、大人しく事務所の入口の扉の前に立った。
鍵は二つ。
よくあるタイプで、扉の下と真ん中にひとつずつついている。
ちなみにルリはいつも真ん中の方を先に施錠する癖があるのだ。
「よいしょ」
腰を屈め、鍵に手をかける。
と、その時──
「────遅くにごめんなさい。まだ営業してらっしゃる?」
「フギャッ!」
「うわぁ…………」
突然開かれた入口が、ルリの顔面に容赦なく襲いかかった。