氷姫と勉強会
オーストリアの皇太子が暗殺され、第一次世界大戦が起こった。
翌日の最後の授業は、世界史だった。
授業が終わると、和弥はのんびりと帰り支度をして、立ち上がった。
夏原智樹の妹、夏原葉月との待ち合わせが六時だ。
図書室で時間をつぶすことにしよう。
教室のちょうど中央のあたりでは、男女数人の生徒が、クリスマス会の準備について話し合っていた。
クラスでも中心的な存在の彼らは、どうやら23日頃にクラス全体の企画としてクリスマス会を行うつもりらしい。
(ま、俺は参加しないけれど)
和弥は窓際の席を離れ、教室の後ろを通って目立たないように消えることにした。
廊下は、これから部活へ向かう生徒と、帰宅する生徒で溢れかえっていた。教室のなかと違って、窓が開け放たれている廊下はかなり寒い。
思わず身震いした和弥の肩に、柔らかい手が置かれた。
驚いて振り向いた和弥の視界に、背の高い少女の姿が入った。
「なんだ、姫宮か」
「『なんだ』とはご挨拶ね」
「なんの用? 葉月、じゃなくて夏原さんに会う時間ならまだ先のはずだよ」
「用事がないと話しかけちゃいけないの?」
「そういうわけじゃないけど……」
用もないのに、姫宮が自分に話しかけるとは珍しい。
和弥は姫宮をしげしげと眺めた。
「姫宮も図書室へ行くんだ」
「どうしてわかったの?」
「カバンを見ればわかるさ。その無駄に大きいカバン、図書室に返す本が入ってるんだろ」
「ええ」
「何の本を読んでたの?」
「推理小説。アメリカの」
「へえ」
「ね、神谷も図書室に行かない?」
「もともとそのつもりだった」
姫宮はくすりと笑うと、早足で歩き出した。
姫宮は身長が高い分、歩幅が大きい。
和弥は置いていかれそうになり、慌てて姫宮のあとを追った。
この学校の図書室は、和弥たちのクラスの教室がある本館ではなく、東館と呼ばれる小さな建物のなかにある。
蔵書も学校図書館としては充実している方なので、時間をつぶすのにはもってこいだった。
本館と東館をつなぐ渡り廊下にさしかかったあたりで、姫宮が急に立ち止まった。振り返った姫宮の髪を窓から差し込む夕日が照らした。
「クリスマス会、ね」
「何の話?」
「うちのクラスでやるんでしょ?」
「ああ、見てたんだ」
「わたしも教室にいたもの。当然でしょ。参加するの?」
「しないよ。そういう姫宮は?」
「参加すると思う?」
「しないだろうね」
「正解。行っても楽しくないもの」
そう言って姫宮は肩をすくめた。
「それに、わたしは他に心配事があるし」
「数学の赤点?」
「なんで知ってるの?」
「カバンから見えてる」
姫宮は顔を赤くした。
姫宮のカバンのふたは開いていて、赤い文字で「28」と書かれた答案用紙が顔を覗かせている。
「勝手に見ないで」
「見ようと思って見たわけじゃない」
「馬鹿にしてるでしょ?」
「べつに。他人の点数なんて、どうでもいい」
「神谷は筆記試験だけは得意だものね。背は低いし、運動できないし、歌は壊滅的だけど」
「余計なお世話だよ」
「でも、事実でしょう?」
背が低いのは、否定できなかった。
「成績はそんなに良くないよ。夏原とかと比べたらね」
姫宮は、和弥の目を覗きこんだ。
「そうやって、いつも自分を夏原くんと比べているんだ」
「そういうわけじゃない」
「なら、どういうわけなの?」
「さっさと図書室へ行こう」
「そう。図書室へ行くのよね」
思案顔になった姫宮が、ぽんと手を打った。
「ちょうどいいわ。これから図書室で勉強会をしましょう」
「なんでそうなるかな」
「自然な流れだと思わない?」
「まったく思わない」
「ね、神谷。勉強教えてよ」
「見返りは?」
「代わりに高いところにある本をとってあげる」
「そんな見返りはいらないよ」
「いい提案だと思ったけど?」
「どこが」
和弥はため息を付いた。
「俺が一日だけ勉強を教えたぐらいじゃ、成績は変わらないよ」
「なら、毎日教えてくれる?」
「ま、暇なときなら付き合うよ」
「本当に?」
「俺で良ければ。ちなみに、別に見返りはいらないよ」
「冗談だったのに」
「ああ、そうだったんだ。なら、この話はなしで」
「ううん。神谷がいいって言ってくれるなんて思わなくて、その、もし、よかったら、教えてくれると嬉しい」
姫宮は、急にぼそぼそとした口調になった。目を伏せて、顔を赤くしている。
和弥は笑った。
「そんなに恥ずかしがることはないよ。赤点をとったぐらいで」
「神谷のバカ……」