神谷警部補
あれやこれやの用事で家に着くのはそれなりに遅くなった。
もう、とっくに日は暮れている。
「ただいま」
灰色のマンションの玄関に、和弥の声が虚しく響いた。
どうせ、誰も返事はしない。
築三十年のマンションの一室は、一応、六人は住めるように設計された広い部屋だ。
しかし、住んでいるのは和弥と和弥の父だけだった
玄関のドアを閉めると、あたりが真っ暗になる。
電灯のスイッチを入れ忘れていた。
そのまま靴を脱ぎ、和弥は狭い廊下へと一歩を踏み出した。
むにゅっ、とした柔らかい感覚が足に当たった。
ぎょっとして和弥は後ずさった。
生暖かった。
和弥は片足で、床に転がっている謎の物体を確かめた。
(これは……)
その正体に気づいた和弥は慌てて明かりをつけた。
床には、和弥の父が寝転がっていた。
和弥は父の肩を揺さぶった。
「おーい、生きている?」
「……いまのところは」
むくりと起き上がった父は、眠たそうな目を和弥に向けた。
和弥の父、神谷拓哉は警察官だった。しかも刑事だ。けれど、外見からはまったく厳しい印象を受けない。
むしろ高校の教師だと言われれば納得するような、ぼんやりした雰囲気の中年男性だった。
実際に、昔の彼は社会科の教師になりたかったらしい。だが、東京の私大で日本史を学んでいた父は、なぜか警察官になった。
「疲れているのはわかるけれど、廊下で寝るのはよしたほうが良いと思うな、神谷警部補」
「その『神谷警部補』って呼ぶのはやめてくれ」
「わかったよ」
和弥は、あっさりとうなずいた。そして父を助け起こした。
二人はのろのろと廊下を歩き、ダイニングのテーブルに座った。テレビのスイッチを入れると、夜七時のニュースが流れていた。
「コーヒーでも入れようか」
「ああ、お願いするよ。僕のには、牛乳を半分入れてくれ」
和弥は立ち上がり、すぐ横にあるキッチンへと移動した。冷蔵庫からコーヒーの豆を取り出す。やかんに水道水を入れ、火をかけた。
「早く帰ってこれるんなら、言ってくれればよかったのに」
「いやあ、悪いね。これからまた仕事に出かけるんだ」
「ああ、なるほど」
和弥は肩をすくめた。よくあることだ。
県警本部の捜査一課にいる父は、膨大な仕事のせいで家に帰ることがあまりできない。たまに帰ってくると、さっきみたいに死んだように眠りこけていることが大半だ。
テレビ画面に、新しいニュースが映された。和弥の住む名古屋市内で起こった連続殺人事件についてだった。
ついに四件目が起きたらしい。
テレビ画面を見る父の目が、真剣なものに変わる。
和弥は、テレビを指さした。
「もしかして、この事件の捜査?」
「まあ……僕の口からはそうだとは言えないな」
つまり、「そのとおり」ということだった。
テレビ画面では、四件の殺人事件について詳しい解説が行われていた。
どの事件も使われた凶器は、鋭利な刃物だった。猟奇的なことに、死体の右手が切り取られている。
被害者は、みな若かった。いずれも、二十代前後の男性あるいは女性。
ただし、それぞれの被害者のあいだに接点は皆無。
和弥の父は、ため息をついた。
「ああ、明日から捜査本部に泊まりで仕事か。……嫌だなあ」
「お疲れ様」
「そういえば、夏原くんは元気にしているか?」
和弥はぎょっとした。唐突だ。
和弥の父は、智樹のことを割りとよく知っている。小学校のころ、和弥と智樹はお互いの家にしばしば遊びに行っていたからだ。
和弥は少しのあいだ口ごもった。
「それが……行方不明なんだ」
「行方不明?」
父はつぶやくように繰り返した。
「どういうことだ?」
「さあ、先週から家に帰ってきていないし、学校にも来ていないらしいけど」
「そりゃ大変だ。事故や事件に巻き込まれていないといいが。野球部のエースなんだっけ?」
「そのとおり」
和弥は、父の記憶力に感心した。智樹が野球部で投手として活躍していることは、家ではほとんど口にしたことがない。
智樹と比べられては、たまらないからだ。和弥が中学受験をしたのは、智樹の影響だ。そして、父もそのことを知っている。
父は、ぼんやりとした眠そうな目で和弥を見た。
「まあ、夏原くんの家族が捜索願を出しているだろう。もっとも警察のデータベースに登録されるだけだからな。補導でもされて情報が照会されなければ、見つからないが」
「もしくは、身元不明の遺体が発見されれば別だ」
父は嫌そうな顔をした。
「縁起でもないことを言わないように。友達なんだろう?」
和弥は黙って肩をすくめた。違う、とは答えなかった。
やかんの水が沸騰し、和弥はコンロのスイッチを切った。