「和弥兄さん」
「夏原さん」
「何ですか?」
喫茶店の椅子から立ち上がった葉月が、振り返る。首をかしげた葉月に、和弥は一言だけ声をかけた。
「誕生日おめでとう」
「え……あ、えっと、覚えていてくれたんですね、和弥先輩」
「ああ、うん。まあね」
「……ありがとうございます」
目を伏せた葉月は、ぺこりと小さくお辞儀すると、早足に立ち去っていった。その姿が店の外に消えた後、和弥はため息をついた。
デニッシュパンの一切れを、和弥は口にした。蜂蜜の甘い味とパンの柔らかい感触が口に広がる。
皿の上には、あと一切れを残すのみとなった。
「あんなこと言わなきゃよかったな」
和弥のつぶやきに、姫宮は不思議そうな顔をした。
「なんのこと?」
「誕生日のことなんて触れない方が良かったかなと思って」
「そうかしら? あの子、嬉しそうにしてたけど」
「『おめでとう』と言われた瞬間、逆に硬い表情になった気がするけど」
「気にしすぎ」
「兄の友達なんかに誕生日をずっと覚えられているなんて、気持ち悪いんじゃないかな」
「誰だって、誕生日を祝われて悪い気はしないわ」
「そうかな」
「そうそう。ちなみに
「ちなみに?」
「わたしの誕生日は、十二月二十二日だから。覚えておいて」
「忘れることにするよ」
「あ、ひどい」
「どうせ俺の誕生日を覚える気もないくせに」
「二月七日。神谷の誕生日」
和弥は驚いた。
なんで姫宮が和弥の誕生日を知っている?
不思議に思った和弥に、姫宮は「東雲さんから聞いたの」と答えた。たしかに、東雲なら知っているだろうけれど。
覚えていたら、姫宮にも「誕生日おめでとう」と言うことにしよう。
和弥はそう考えながら、コップの中の水を飲み干した。
「ところで、夏原さんが言っていたことは本当かな?」
「なんのこと?」
「智樹が、行方不明になった七日の夜に東雲さんに会いに行ったってこと」
「東雲さんは、そんなこと言っていなかったわ。七日にテストが終わった後、ちょっと会ったのが最後だって言ってた」
「会う約束をしていたとも言っていなかった?」
「ええ。東雲さんはいきなり夏原くんがいなくなったって言っていた。家出をするような心当たりもないって」
「と、すると、だ。考えられる可能性は三つ」
和弥はわざとらしく三本の指を立てた。姫宮は和弥の指をつかんで、拳をグーの形にさせた。
「……姫宮、何がしたいの?」
「……なんとなく。わざとらしい動作って、見ていて気になるの」
姫宮が、かすかに笑みを浮かべた。
姫宮の白い手は、とても温かかった。
柔らかい感触に指を包まれ、和弥はぼんやりとしかけたが、気を取り直して姫宮の手を振り払った。
そして、ふたたび三本の指を立てる。
「やり直し。考えられる可能性は三つだ。一つは、智樹が嘘をついていた場合。つまり、智樹は、約束なんて実際にはなかったのに、東雲さんに会いに行くと言った」
「それはありえないわ。夏原くんにそんなことをする理由がないもの」
「そのとおり。外出する理由が必要だったのなら、葉月には『コンビニに行ってくる』とでも言えばよかった。わざわざ、東雲さんに迷惑をかけるようなことを言って、家出をする必要はない。おそらくね」
「だとすると……」
「葉月が嘘をついている。それが二つ目の可能性だ。何かを隠すため、でなければ東雲さんに嫌がらせをしようと思って、葉月が嘘をついたのかもしれない」
「容赦ないのね」
「なんのこと?」
「葉月さんも、あなたの幼なじみなんでしょう? なのに、そんなふうに疑うなんて……」
「あくまで可能性の話だからね。感情論は捨てるべきだ」
「ふうん」
「仮に葉月が嘘をついているとする。その場合、葉月と東雲さんの関係が問題になる。あの二人は仲が悪い」
「あれで仲が良かったら笑えるわ」
「葉月はどうしてあんなに東雲さんを嫌ってるのかな」
「わからないわ。神谷の方がよく知っているんじゃないの?」
「さあ。俺もあの二人とは疎遠になっていたから……」
「たとえば、葉月さんが、東雲さんにやきもちを焼いているとか? 仲のいい兄を、彼女に奪われたって感じているのかもしれないわ」
「それはない……とは言えないか」
たしかにありえない話ではない。葉月は、小学生の頃からずっと智樹にべったりだった。 東雲に少し嫉妬したとしても、それほどおかしな話ではないだろう。
けれど、それだけだろうか。
和弥はため息をついた。
「最後は、東雲さんが嘘をついている可能性だ。つまり、実際に夏原と東雲さんは会う約束をしていた。そして智樹は七日の夜、東雲さんに会いに行き、行方不明になった」
「……そんなことありえないわ」
「根拠は?」
「……ないわ。でも、わたしは東雲さんを信じている。もし東雲さんが嘘をついていて、実際に夏原くんに会っているとしたら――」
「夏原が失踪した原因は、東雲さんにあるかもしれないね」
「ありえない。東雲さんと夏原くんが、どれだけ仲が良かったか知っているでしょう?」
姫宮は不満そうに和弥を睨んだ。
和弥は肩をすくめた。
智樹と東雲が親しくなるきっかけを作ったのは、和弥自身だった。二人のことはよく知ってる。
だからこそ、和弥は、智樹と東雲のあいだにトラブルがあってもおかしくないと思っていた。
それに、姫宮は知らないのだ。智樹と東雲が直前に喧嘩したことを。
東雲はそのことを隠していた。
和弥は、冷水の入ったコップを手にとった。
「姫宮。俺たちの目的は何だった?」
「夏原くんを探し出すこと。当然でしょ?」
「なら、ありそうな可能性は考えないといけない。東雲さんのことを疑いたく気もちはわかる。けど、東雲さんが嘘をついていないっていう証拠はないんだ」
「でも……」
「東雲さんが何も隠していないなら、それでいい。万一そうじゃないなら、東雲さんが何を知っているかをはっきりさせないといけない」
「それでも、疑うのは気分が良くないわ」
「信じるために疑うんだ。何も悪いことじゃない」
「……わかったわ。神谷の言うとおりね」
「といっても、データ不足だから、今はこれ以上、考えても仕方がないかもね。それより、他の人からも聞き取りをするほうが優先度が高い」
智樹の行方不明の事情を知っているかもしれない人物は、まだまだいる。
ついでに言えば、あまり会いたくない人物が多い。
まったく、気の重い話だ。
和弥は伝票を手にとって立ち上がった。支払いを済ませて、二人は店の外に出た。
「これでさ、智樹がふらっと帰ってきたら、俺たちは大間抜けだ」
「べつにいいじゃない。間抜けでも」
「嫌だよ。かっこ悪い」
「神谷がかっこいいことなんて、あったっけ?」
「なかったかもね」
「冗談よ」
くすりと姫宮は笑った。
実際には、何もせずとも智樹が見つかるなら、それに越したことはない。
和弥はすぐに店の前の横断歩道へ向けて歩き出した。
「神谷も帰る方向は一緒だよね」
「そっか。姫宮も地下鉄?」
「うん。クラスメイトの女子と一緒に帰るなんて、どうせ神谷は初めてでしょう?」
「東雲さんを除けばね」
「そんなの、東雲さんが夏原くんの彼女だからってだけでしょう?」
「そのとおり。俺は『ついで』さ」
姫宮はしまったという顔をした。
「無神経なことを言ってごめんなさい」
「べつに。でも、そういう姫宮こそ男と一緒に歩いたことなんてないんじゃない?」
「そんなことない」
「へえ、あるの?」
「ないけど」
「ないんだ」
「つまり、その、お互い、はじめてってわけね」
「あー、うん。まあ、そうなるのかな」
「ね、一緒にご飯も食べに行かない?」
「家の人は?」
「わたし、一人暮らしだもの」
「そうだったっけ」
「神谷も似たようなものでしょ?」
「まあね」
和弥は頭をかきながら、自分より背の高い姫宮を見上げた。
その背後には、かなりの量の乗用車が走っている。
四車線の向こう側に誰かがいるのが見えた。
「ごめん。教室に忘れ物をしたから、やっぱり姫宮は先に帰っててよ」
「忘れ物? なら、わたしも一緒に行くけど?」
「いや、大丈夫。時間をとらせるのも悪いし」
「ふうん。ひょっとして、わたしを避けてる?」
姫宮にしては珍しく勘が鋭い。
「そんなことないさ」
「なら、いいけど」
姫宮は不満そうに和弥を睨むと、さっさと立ち去っていった。
ふう、と和弥は息を吐いた。
べつに姫宮を避けたわけではないが、急用ができた。
和弥は学校へ引き返すふりをした。そして、振り返って姫宮がいなくなったことを確認すると、信号を待って、車道の反対側に渡った。
大型スーパーの入り口に立っている人間が、こちらに目配せをする。
勘違いではなかったようだ。
「和弥兄さん?」
「やあ。誰かを待っているってわけではなさそうだね」
「待っていましたよ。わたしは和弥兄さんを待っていたんです」
制服姿の女子生徒は、悪戯っぽく微笑んだ。
印象的な大きな瞳が、愉しそうに和弥を見つめている。
さっき喫茶店で会ったときとは、雰囲気ががらりと変わっている。
相手は、夏原葉月だった。




