氷姫vs妹
デニッシュパンいる?ときいたあと、はっとした表情で葉月が顔を上げた。
「い、いりません」
「でも、欲しそうに見えたけど?」
「私は、他人の注文した食べ物を、物欲しそうに見つめたりしません!」
「ごめん、そういう意味で言ったんじゃないんだ。俺一人で食べるには少し多いから、いらないかな、と思って」
「……それなら、いただいておきます」
ありがとうございます、と葉月はつぶやくと、デニッシュパンの一切れを頬張った。葉月が表情を緩めたのを見て、和弥は安心した。
一方の姫宮が注文したのは、ただのブレンドコーヒだった。
姫宮は黙ったまま、熱いコーヒーをすすっている。そのまま黙っていてくれ、と和弥は思った。
けれど、姫宮は口を開いた。
「神谷。わたしも、そのパンもらってもいい?」
「……自分で頼んだら?」
「冷たい返事ね」
「熱いのなら、そこにコーヒーがある」
「その冗談、ちっとも面白くないわ」
「悪かったね」
和弥がそう言った瞬間、姫宮はさっと皿からパンをつまんで口に放り込んでしまった。和弥が抗議の声をあげる間もないほどの早業だった。
「姫宮……」
「なに?」
「いや、いい……」
すまし顔の姫宮に、和弥は何も言う気にはなれなかった。
見ると葉月はさっきより不機嫌そうな顔になり、二人を睨んでいた。
「神谷先輩と姫宮先輩って、仲が良いんですね」
「そう言われたのは、昨日から三度目だ」
和弥は気を取り直した。姫宮に奪われたパンのことはとりあえず忘れることにした。
硬い表情に戻った葉月に、和弥は問いかけた。
「ええと、つまり、金曜日の夜に夏原はいた。翌朝になったら、いなくなっていた。そういうこと?」
「いいえ、違うんです。兄は、その日の夜に出かけたんです」
「どこへ?」
葉月の大きな瞳が揺れた。
話すことをためらっているように見える。
場は沈黙に包まれた。
和弥は、葉月が答えるのを待つことにした。こういうとき、焦って答えをうながしても良いことはない。
という考えは、姫宮には共有されていなかった。
「早く答えたら?」
姫宮の一言は、葉月の反感を買うには十分だった。
姫宮の良くない癖だ。
姫宮は臆病だ。だから、つい人に対して攻撃的な態度をとってしまう。
そういうふうに和弥は理解していた。
葉月は、むっとした表情で姫宮を見た。姫宮は視線をそらした。
和弥としては気が気でない。
せっかく、重要な情報が得られそうだったのに、これでは葉月は答えてくれないかもしれない。
(姫宮の頼みごとが、姫宮自身のせいでうまくいかなくなるなら、仕方がない)
姫宮が同席しないほうがいいと最初に注意しておいたのだから、和弥に責任はないはずだった。
でも、本当にそれでいいのだろうか?
「私は」と葉月は言った。「和弥先輩の質問に答えているんです。姫宮先輩は黙っていてください」
「黙っていようと思っていたけど、わたしはせっかちなの。さっさと話すべきことを話してしまった方が、お互い時間を無駄にしなくて済むから、いいと思わない?」
「私のせいで、時間が無駄になっているっていいたいんですか?」
「ええ」
「私は、神谷先輩に呼ばれてここにいるんです。姫宮先輩は、帰ればいいじゃないですか!」
「わたしは、あなたのお兄さんを探しているの。だから、ここにいる」
「私は、兄を探してほしいなんて頼んでいません!」
「東雲さんから頼まれているわ」
「あんな人の頼みなんて、私には何の関係もありません!」
一瞬、姫宮が黙った。その隙に和弥は、姫宮の制服の袖を強く引っ張った。こちらを見る姫宮に「黙っておけ」と目で合図する。
これ以上、姫宮にしゃべらせてもいいことはなさそうだ。
和弥は葉月に言った。
「そのとおり。東雲さんは関係ない」
葉月も姫宮も、驚いたように和弥を見つめた
和弥は深呼吸をした。
「俺は俺の責任において、智樹を探している。だから、夏原さんには質問ばかりして、本当に悪いんだけど、協力してほしい」
「わかりました。最初からそう言ってほしかったですね」
「そうするべきだったよ。夏原がその日の夜、どこへ行く予定だったか、教えてくれないかな?」
和弥は補足した。
「もちろん、答えたくないなら、それでいいよ」
「……東雲先輩は知っているはずですよ」
「どういうこと?」
「だって、智樹くんは、行方不明になる直前に、東雲先輩に会いに行くと言って、出かけたんですから」
和弥はコップに伸ばした手を止めた。
どういうことだろう?
少なくとも、和弥はそんな話は聞いていなかった。
葉月は、うつむいて、ぎゅっとこぶしを握りしめていた。
和弥が続きを尋ねないうちに、葉月はふたたび話しはじめた。
「あの日は、お父さんもお母さんも、仕事で帰ってきていなかったんです。私と智樹くんは二人で夜ご飯を食べました。そのあと、八時ぐらいに、智樹くんが玄関で靴を履いていたから、私はどこへ行くのかと聞いてみたんです」
「そしたら、『東雲さんに会いに行く』と夏原は答えたわけだ」
「はい。どうしてそんな時間に、東雲先輩と会う約束をしていたのかはわかりませんけれど、たしかに兄はそう言っていました」
言い切った葉月は、和弥の目をまっすぐ見つめ、それから席を立った。
いつのまにか、葉月のソフトクリームもコーヒーも無くなっていた。
「お話することは、もうありません」
「助かったよ。まだ聞きたいことはあるけど、時間かな」
「はい。もう、帰らないといけません。だって……智樹くんが帰ってきたとき、家に誰もいなかったら、可哀想ですから」
和弥はうなずいた。
智樹と葉月の両親は、仕事のせいで家を空けていることが多かった。
医者は大変な仕事なんだろうな、と思った。
和弥は葉月の喫茶店代を負担するつもりだった。
呼びつけたのは、こちらだからだ。
けれど、葉月は、クリームコーヒーの代金を自分で払うと強く主張した。
しばらく揉めた後、ようやく和弥たちの奢りにすることに葉月は納得してくれた。
和弥は隣に座る姫宮をちらりと見て、ふとあることを思い出した。
今日は十二月十九日だ。




