一三〇四号室のカフカ様
みなさまは『変身』という小説をご存知でしょうか。
勤勉で親孝行な主人公グレゴール・ザムザが、ある日、何の前触れも無く毒虫に変身し、最後には非業の死を遂げるという話です。
今回お話しする物語も、そんな不条理に満ちたストーリー。
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「こいつを雑巾絞りにして煮出せば、多量の食塩が採取出来そうだな」
張り付いたポロシャツの首元をパタパタさせながら、青年は誰にともなく呟いた。そんな、うだるように暑い日の昼下がりのこと。
青年は、無料で時間指定配達が出来ることが売りの某有名ネットショップ、の下請け会社に勤める配達員。
「十三階かぁ。頼むから、再配達にならないでくれよ」
疲労感の滲み出た独り言をもらしながら、青年はワレモノ注意、天地無用というステッカー貼られた段ボール箱を抱え、タワーマンションのエントランスをくぐり抜け、集合ポストの前を素通りし、ドアが閉まる直前のエレベーターに飛び乗った。
「一三〇四号室、カフカ。差出人は、アンゲツかな。それとも、ヤミツキか。どっちにしても、珍しい名前だな」
他に誰も乗っていないのを良いことに、エレベーターの中で青年は、宅配伝票を見ながらブツクサ言っていた。
そのあいだに、開閉ボタンの上にあるマッチ棒を並べたような階数表示は、十二から横棒二本へと変わった。そのときである。
ガコンという金属音と共にエレベーターは昇降運動を停止し、室内の照明が全部消えてしまった。
「うおっ、ビックリした。停電か? スマホ、スマホっと」
彼がポロシャツのポケットからスマートフォンを取り出そうとした、まさにその瞬間、不気味な静寂を切り裂くようにバイブレーションが鳴り、画面には「一三〇四カフカ」の文字が表示された。
「誰だよ、こんなときに。ってか、こんなアドレス、登録してねぇぞ。あぁ、クソッ。ホームボタンも利かねぇし。出るしかないのか」
青年が苛立たしげに通話ボタンを押すと、砂嵐のようなノイズの向こうからボイスチェンジャーを通したような声で「見ぃつけた」という一言だけが発信され、すぐにツーッツーッという音に切り替わった。
その声を聞いた青年は、カタカタと歯の根の合わない音を立てながら、スマートフォンもろとも抱えていた荷物を床に落とした。落下の衝撃が加わった荷物からは、ワイングラスが割れるような音が聞こえ、そして不気味な蛍光色に明滅するスライム状の粘液が溢れ出した。
「ひっ。来るな。俺に、近寄るなっ」
いくら青年が断末魔をあげても、小さな密閉空間に逃げ場は無い。粘液は無数の触手を飛び出してエレベーター一杯に広がり、その全てを飲み込んだ。
その日の夕方、そのタワーマンションの管理人が、昼間の防犯カメラに記録された映像を確認したところ、エントランス内にも、エレベーター内にも、誰も、何も映っていなかった。これは集合ポストを見れば一目瞭然なのだが、そもそも、そのタワーマンションは十二階建てで、ワンフロアは三部屋しかない。
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いかがでしたか。この物語がバッドエンドかトゥルーエンドかは、みなさまの判断にお任せします。
さてさて。よっこらしょ。今度は、どこへ送りましょうかねぇ。