拍
宗主の怒りは周囲の温度を著しく下げ、それによって、季節はまだ暑さ激しい盛夏であると言うのに、ダイヤモンドダストが待っているほど。
彼女がこれほどまでに怒っている理由。それは、
「羽虫にすら劣る存在のくせに我々の多重結界へ穴を開けたその力と浅知恵は評価しましょう。しかし、その意地汚く、浅ましい存在のママ、この神域をけがし、剰え我らに連なる血族へとそのけがらわしいつばをつける行為は許しがたいものです。
おまえはここで消え去ることになりますが、それでもおまえの本体をどやしつけないことには、つけられたつばを洗い流すことがかなわないというのは、誠に遺憾ですね。」
それによって開けられた結界の穴は、穴にへばりついて中に分体を送り込んでいたそれが宗主の一蹴りで引き剥がされた後、その場に控えていた下の棟に詰めるもの達によって瞬く間に塞がれていた。
結界外では宗主が、眼下でうごめくそれを射殺さんばかりに蔑みの視線を落としながら、これをどう甚振ってやろうかと考えていた。
だが、いかんせん、甚振ると言うよりもサクッと消す方が性分な宗主は、
「…ま、いっか。」
あっさりと、プチッとそれを消し潰した。それの本体がどこにいるかとか、それがなぜ井澄に目をつけたのかとか一切調べずにプチッとしたのだ。
まあ、彼女にしてみればそれらはその気になればあっさりと調べがつく事柄であるが故にあっさりとプチッとしたわけで。
数分前、井澄は命じられたまま、部屋で待機していた。
持っている携帯の充電はバッチリで、ポケットには満充電済みのモバイルバッテリーもある。宗主が冷たいお茶もある程度置いておいてくれているので、喉が渇いても大丈夫。問題は出てはいけないということでお手洗いぐらい。
そんな感じで、動画投稿サイトで登録しているチャンネルを見ていたところ、障子の向こう。廊下に何やらズリズリと這いずる音がして、目測で1mほどの物体が廊下を井澄から見て右から這いずっている影が映っていた。
障子の合わせ目まで来るとその影は障子を開けようとする仕草をしている。ホラー系には耐性のある井澄であるが、それは怪談とかお化け屋敷とかホラーものの動画に関してのこと。実際に自分が関わるとなると別である。
少しだけ障子の合わせ目が開き隙間が空くと、そこからおぞましい気配が入ってきた。
背中はぞわぞわ。喉はカラカラそして、おそらくちょっと大人としての尊厳を損なうであろう生理現象の感覚。
「井澄さぁーん。ここを開けてくださぁい。」
―君の声で障子を開けるよう求めてくるが、―君が言っていないことは明らかである。
なぜなら、―君は井澄を決して名前呼びしない。
ぞわぞわが強くなりカリカリという音も強くなって、これ以上は叫んでしまうとなった時だった。
「井澄さん、大丈夫やったか?」
障子ではなく井澄の右手側になる隣室とを隔てるふすまを開けて入ってきたのは宗主たちの国における最高学府で医学部のトップを務めるという女医さん。確か―君曰く、井澄とは「―くんと宗主ぐらいはなれた遠縁の親戚」という間柄の女性。入ってくるなり、彼女は井澄を思いっきり抱きしめた後、
「ごめんな。ちょっと暗くて嫌かもしれへんけど、堪忍な。」
そういって、大きなタオルを井澄にかぶせ、その上から何やら大きな袋をかぶせてきた。
抱きしめられたとき、強い安堵感が井澄を包みタオルをかぶせられたときは絶対的な安心感が湧き出した。
『そのまま10分ほど待っとってなぁ。』
そんな声と一緒にふすまが閉まる音がする。
再び静寂が訪れる。
3分もたっていない頃だろうかさっきとは違う嫌なぞわぞわとともに3拍子の足音らしきものが聞こえ始めた。
トンッ、トンッ、ダンッ!トンッ、トンッ、ダンッ!
そんな感じで3拍子目を必ず強く踏みならしている。この足音が近づくにつれ、足音と一緒に何やら声がしていることに気がつく。だが、足音の方が大きく、何を言っているカバでは解らない。
トンッ、トンッ、ダンッ!トンッ、ドンッ、バチャッ!足音が変わった。そして、止まった。少しして、障子が開いた。新たに感じた方のぞわぞわが近づいてきた感じがする。
ぞわぞわの元が井澄の前に立っている気配がする。
そして何ら言葉が聞こえる。
こっそりと携帯のレコーダー機能を起動し、マイク部分を袋の外へ出してみた。するとそれに合わせたかのようにそれまで、同じフレーズを繰り返していた言葉が文章らしき音へ変わった。
男声と女声が同時に同じ発音で同じ言葉を発しているように感じる。
『ワカチサダメノオンカタニツラヌルカタヘワレノキニオイテオゾマシキオモイヲワビル。コオクニイリタルナレヲネラウアハワガサジニツブセリ。アガモトナルモノハコジニテワカチサダメノオンカタガケシタルニテワワアヲケサン。ワカチサダメノオンカタニツラヌルカタヘマズハミシリノコウジョウヲツゲントアサマシキナガラモホッシタルハユルサレタシ。コレニテナレトワハゴニテマミエルコトナキレドワワナレヲオモルトチル。』
携帯が袋の中へ押し戻されると気配は廊下へと出て障子が閉まる。
足音は軽く同じ音、大きさの3拍子へと代わり来たときと同じ進行方向へ去って行く。
そして静寂が戻る。
『わふぅ~~~!!』
ちょっと気の抜けてた感じの声が廊下を駆け抜けて来て、部屋の前に。障子が開く音がして、
『大変、お疲れ様でしたぁ。まもなく宗主様もお戻りになりますが、その前にお客様に此度は当方の不備により多大なる恐怖と不快なる思いを多々おかけしたことここに伏してお詫び申し上げます。先ほど摂津様の浄化術式などは適用させていただきましたが、一度そのこわばりをほぐす意味を含めまして、風呂を用意させていただきましたのでご案内させていただきますぅ。」
袋と、タオルが取り払われると、井澄の前に桜色の和服を着た頭頂部に犬の耳が生え、尻には柴犬の尻尾がくるりと巻いた小柄な女性が伏礼していた。横には先ほどの女医さん。
「怖かったやろ。(井澄の名誉のため伏せる)し。せやから、管理人さんが気を利かせて、お風呂用意してくれたんや。彼女にとって、奉仕が職分。甘えとき。」
その言葉を受けて、井澄は女性の申し出を受ける。女性に導かれ脱衣、入浴している間も井澄はまだぼーっとしていた。
入浴を終え、先ほどの部屋の隣室に入るといつもの部屋との間のふすまが取り払われ、続き間になっていた。隣室部分は茶の間といえる形となっており、隣と比べるとかなり生活感があった。
そんな部屋の中央にあるローテーブルを囲って宗主と、女医さん、一也、水琴、―君が座っていた。
井澄は流れるように―君をぬいぐるみを抱くように抱きしめて、そのまま泣き出した。
やっと泣いたことで、意識がはっきりした。
泣き止んでも井澄は―君をぬいぐるみを抱くように抱きしめたままだった。
話したらさっきのぞわぞわがぶり返しそうで怖かった。
「この度は大変怖い思いをさせてしまい申し訳ありませんでした。」
宗主の謝罪への返答は先ほどの録音データだった。
[何を言っているか理解できません。宗主様に翻訳をお願いできませんか。]
録音データを再生すると宗主と女医さんは、何回も繰り返して、
「まずなんと言っているか、ちゃんと認識できる文章に直すと
『別ち定めの御方に連なる方へ、我の気において悍ましき思いをわびる。
この屋に入りたる、汝を狙うあれは、我が先ほど潰せり。
あれの元となるものは今時にて別ち定めの御方が消したるにてわれはあれを消したり。
別ち定めの御方に連なる方へ先ずは見知りの挨拶としたいと、浅ましくも思ってしまったことをゆるされたし。
これにて、汝と我はいご見えることなけれど我は汝を守ると誓う。』
やんね。現代一般文章にさらに直すと
『別ち定めの御方に連なる方へ私の気配によって大変恐ろしい思いをさせてしまいましたることをお詫び申し上げます。
この度、この屋内に入り込みました、あなたを狙うあれは私が先ほど潰しました。あれの元となるものも、たった今別ち定めの御方が消し去りましたことを受けて、あれを私は潰し消した形です。
あなたに大変恐ろしい思いをさせてしまう気配を放ってしまっていることは重々承知しておりますが、別ち定めの御方に連なる方に顔つなぎのご挨拶をどうしてもしたくなってしまい、お声がけをしてしまいましたことお許しください。
今後、この気配を鑑みて、私はあなたに会わないようにしますがあなたを護ると誓います。』って事やけどどんな気配何やろぅ?」
「多分何やけど、この集落の後ろにある山って、この家に連なる神域やろ。そこに住む化け物かなんかなんやとおもう。自分たちの住む神域の主の親族が一人になったタイミングで挨拶だけしたいなあと思ってたらなんかやべえのが狙ってはる。これはまずい、ちょっと怖い思いさせてまうけど後でお詫びしよってやってくれはったんとちがうかなぁ。お礼するときに何がいいかはわからへんけど、でもお礼はしたいなぁ。わたしからも。」
気配や姿で悩んでいると、あの犬耳の女性が、
「遊郭や娼館において、自然死したものを検査の上で、捧げるというのいかがでしょう。神域に住む妖しのものであるならそれは亜神に近い存在です故に、私が見た姿、感じた気配からして山に棲み、人間の女性に。もっと言えば女「性」につく妖しのものであると感じました。あの類いは確か生者を好みますが、魂が抜けて3日以内のものであれば生者と同じと見なしていたと記憶しています。」
「それって、いわゆる山怪ってやつですね。本当は別の分類明がありますが言葉にすると寄ってきてしまうということで、亜神となっているここの存在なら我々のことは本家様の係累とみて見逃してくれるでしょうけど、ほかの山のものはわかりませんから。」
一也が補足する。
[そんな簡単に用意できるものなんですかねぇ。]
「あの手の店は形ばかりの通夜が終わったらさっさと燃して無縁仏ではいさいならってのが多いからねぇ。とりあえず、女「性」と言うことをベースに調べて該当したものを一体確保したけど、問題はどこにおくかだね。」
「わふ。失礼いたします。おそらく私が見た存在と同個体が表の道の上の突き当たりにおりまして、確認したところ、『礼をいただくほどのことはしておりませんが、厚意にてご用意いただけましたものを辞退申し上げるのこれまた失礼に当たります。
深夜に今私が立っている場所に置いていただけましたら後は私めでありがたくちょうだい申し上げます。』とのことでしたぁ。」
礼の物の用意と受け渡し場所が決まった。
[一也君、その山怪ってどういうものなの。]
「詳しく話すとついてしまうので、ぼかしますが夜中に若い女性が山に入ると、憑く化け物です。2音1字を3つ唱えながら一本足で山の中を飛び回ります。山道などが通っているとそこを歩いていることもあります。とりつかれるとケタケタと笑うだけとなりますので注意を。」
一也の説明を受けて、若い女性なら自分は対象から外れるなぁと考えていた井澄だが、
「師匠、自分は対象外って考えてませんか?師匠は外見年齢20代半ばで固定されているので十分対象なんですよ。」
と―君から突っ込まれていた。
―君の家にて。
「すいません。師匠の寝具、浄化のため差し押さえっていわれて持ち出せませんでした。なので、こちらのベッド使ってください。
[君はどうするのさ。」
「座布団と毛布があれば事足りる季節なので。」
本気でこれでOKと考えているからたちの悪い―君でした。
―君の家で寝起きするようになってから、なんか無駄にすっきりしゃっきりとした目覚めと、あっさりとした寝入りをするようになり、井澄は―君になんかこうでも炊いてるのかと問うと、「香なんて焚いたら自分が寝られなくなる。宗主様の部下にいただいた御札が、その机の天板裏に貼ってあるのでその効果だろう。」とのこと。
見れば確かに御札。まあ、快眠ならよしとするかと深く考えずに、今日も井澄は―君の自主的アッシーで通勤していた。