白き極彩色(3)
女子生徒たちの視線は、少し上を向いている。
ルチカも同じように視線をあげると、あるものが目に入った。
階段の壁に、シングルベッドのシーツほどの大きさの布が、広げて貼りつけてある。
それは一枚だけではなく、壁沿いに何枚も、途切れることなく上まで続いているようだった。
「なにこれ、昨日の帰りまでなかったよね……」
「うん。なんでこんなの、貼ってあるんだろ。布のした、なんかあるのかな?」
「ちょっと、触るのやめときなよ。まじでなんかあったら怖くない?」
女子生徒たちは壁を見ながら、口々に話している。
ルチカは彼女たちを遠巻きにぼんやりと一瞥したが、さほど気には留めず、階段をあがっていった。
踊り場を過ぎたところで、今度は男子生徒数人を追い越す。
「この布、上の階にもあったよな。なんか、改装でもすんの?」
「にしては、貼りかた雑じゃね?」
「じゃあ、なんかの儀式とか? 不気味だよなー、真っ白な布って」
真っ白な布……?
男子生徒の言葉に、ルチカの顔は跳ねあがった。
彼らに並ぶように、壁に貼られた布に駆けよる。
改めてまじまじと見て、ルチカはからだをふるわせた。
「真っ白、ですか? この布」
すぐそばにいる男子生徒に尋ねる。
「は、はあ? なんだよ、おまえ」
「真っ白ですか?」
ルチカの迫力に押され、男子生徒は苦い顔で「どう見ても白いだろ」と答えた。
間違いない。
ルチカは確信した。
階段の壁伝いに貼られた布を、たどっていく。
二階にあがっても布はまだ続き、ついには三階に辿り着いた。
階段の壁を伝っていた布が、今度は廊下の壁に続き、渡り廊下へと導いていく。
ルチカが渡り廊下に出ると、その中央あたりに、ウラハがいた。
「……遅かったわね」
「ウ……ウラハさん……!」
三階の渡り廊下には、屋根がない。強い風が、直接流れ込んでくる。
腕を組み、仁王立ちするウラハの髪が、派手になびく。
ルチカはおぼつかない足で、一歩一歩、ゆっくりウラハに近づいた。
やがてふたりの距離がなくなったとき、ウラハが思い切りあごをあげる。
「誰にそんな口聞いてんだ、この凡人が!」
しゃべってもいないのに突然そう怒鳴られ、ルチカはきょとんとする。
「なにすっとぼけた顔してる! あんた、よくもあたしにウサギの裏にこい、なんて指図してくれたわね。あらためて考えても腹が立つわ!」
堂々とした姿、張りのある声。
なつかしいウラハの姿に、ルチカの鼓動が高鳴る。
ルチカはウラハに目を奪われたまま、自分のうしろを指さした。
「あ、あの、あの布……」
それ以上、言葉が詰まって続けられない。
壁に貼られていたのは、白い布ではなかった。
布には、青や緑、紫などの様々な色で、いびつな横線が途切れることなく描かれていた。線のまわりには、なんだかよくわからない模様のようなものも点々とあった。その有彩色のすべてが、きらめきを持っていた。
ルチカの目には、そう見えた。
しかし、ほかの生徒たちには、真っ白にしか見えない――
――つまり、白い布を彩っている美しい色たちは、まぎれもなく、涙のあとであるということだ。
布を間近で見たルチカはそれに気がつき、ウラハを求め、そして導かれた。
ウラハさんは、僕をここに呼んだんだ。
ルチカは昂ぶり、ただ瞬きだけを繰り返した。
ウラハはルチカの目をじっと見つめ、誘うように視線を下へと投げる。
誘われるがまま、ルチカも見おろした。
眼下には、中庭が広がっている。
中庭には四方を取り囲むように花壇があり、中央部には芝生が敷き詰められているのだが、その芝生の一角に、異様な違和感があった。
ルチカは身を乗り出し、違和感の正体に見入る。
違和感の正体は、布のようだ。芝生の上に、ベッドシーツサイズの布が――今度は、ダブルサイズほどの大きさの布が敷かれている。
一瞬、紙だろうか、とも思ったが、風で端がひらりと翻り、布だとわかった。
渡り廊下を通りかかった女子生徒たちが、ルチカにつられて中庭をのぞき込んだ。
「……うわっ、あの白い布、中庭にもあるよ」
「こわ! なんなんだろうね、まじで不気味」
女子生徒たちは足早に校舎へと入っていった。
ルチカの目の奥が、熱くなる。
中庭の布も、白くなんてない。
青、緑、赤、オレンジ、紫……きらめきを含んださまざまな色、さまざまな色の涙で、彩られているのだ。
「あ、あれ……」
「……あれが、あたしの遺作」
ウラハはそれ以上説明しなかったが、この遺作には、特別なメッセージが込められていた。
学校という空間に、ウラハは堂々と作品を置いた。
その作品は、みんなが目にしているのに、ウラハとルチカにしか本当の意味はわからない。
ルチカがいなければ、成り立たない。
あなたがいなければ、あたしは……。
それがウラハのメッセージだった。
「……どうにかあんたの鼻を明かしてやろうと思ったのよ。あんたを叩きのめす方法なんて、すぐに浮かんだわ。枕を見たら、すぐね。三日間、あんたにずっと腹を立てながら、あたしはこれを作ったの。恐れ入ったか!」
「……はい!」
ルチカは泣き顔のような笑顔を浮かべた。
三日間、ずっと腹を立てながら、とウラハさんは言ったけれど、それはちょっと嘘だ。
白いシーツを彩る涙の色が、僕に伝えている。
赤はもちろん、いろんな色が使われてはいるけれど、多いのは青色だ。
さみしくて、さみしくて、流した涙。
三日間、どれだけ泣いたのだろう。
泣いて、泣いて。
全部吐き出せたのだろうか。
泣いた涙を溜めて描いたのか、泣きながら描いたのか、どういう手順でウラハさんがこの絵を描いたのかはわからないけれど、どっちにしても、見えないものを形にするのは容易ではなかったと思う。
ルチカは込みあげてくる熱いものを、ぐっとこらえた。
「……可愛い絵ですね」
「あんたには、どう見える?」
「パンジーの咲いた中庭で、ふたり仲良く、ランチを食べてるみたいです」
描かれているのは、花に囲まれて、メロンパンらしきものを食べている、二匹のウサギの絵。
幼稚園児が描いたような、大胆な線だ。
描かれたもの自体は、拙く、月並みなものかもしれない。
それでも、僕にとっては世界で一番の名画だとルチカは思った。
「……平凡な感想ね」
ウラハは中庭を見おろし、薄く笑った。
憑き物が落ちたように、優しい微笑みだ。
「遺作、完成おめでとうございます。みんな、驚いてましたね! さっきここを通ったひとも、うわっ、って言ってたし……さすがウラハさんですね!」
ウラハは言葉は使わず、口角をあげて返事をする。
「僕、涙の色が見える人間に生まれてきてよかったです。この絵が見れたから」
「……あっそう」
満足げな顔で、ウラハは腰に手をあてた。
そんな彼女を真っ直ぐに見つめ、ルチカは思う。
もしかしたら、白い涙というのはそんなに珍しいものではないのかもしれない。
たまたま、これまで自分が流したこともなく、他人が流している姿も見たことがなかっただけで、世界のどこかには、いまも、流しているひとがいるのかもしれない。
はじめて自分が出会った白い涙を流すひとが、偶然ウラハさんだったというだけかもしれない。
でも、その偶然が僕たちを変えた。
偶然、だとしても、あまりにも眩い。
そこから、すべてが始まったのだから。
「やっぱり僕、ウラハさんといると、楽しいです」
ルチカは破顔した。
僕が伝えたいのは、もうそれだけだ。
確かめる言葉なんていらない。
ウラハさんがくれた、全身全霊のメッセージ。
それだけで、十分伝わった。
僕が、必要なのだと。
ウラハは静かに息を吐くと、天に向かって一度両腕を伸ばし、もどして、空を仰いだ。