曇りのち、雨(3)
階段を駆けあがり、渡り廊下に出る。
窓から見える曇り空が、いまにも泣き出しそうだ。
ルチカは渡り廊下の端まできて、足を止めた。
一歩、足を前に踏み込めば、そこは東校舎だ。
右に曲がれば、美術室がある。
それはわかっているが、ルチカにはウラハと交わした約束があるのだ。東校舎に入ることが、ためらわれる。
いま立っている場所から右斜め前には、美術室の窓が見える。しかし、カーテンが閉まっているため、なかのようすはうかがい知れない。
一目でいいから、ウラハさんが無事だと確認したい。
でも、ルールを破れば終わりだ。
ふたりを繋ぐ関係もなくなり、白い涙の理由も知ることができない。
ルチカが無言で葛藤していると、うしろから麻乃花が息を切らせて走ってきた。
「……に、鈍条崎くっ……待って! ど、どうしたの、いったいっ……」
麻乃花がルチカの横に並んだとき、悲鳴のような声があたりに響いた。
「い、いまのなにっ……?!」
麻乃花のからだがびくりと動く。
続けざまに、今度は大きな物音がした。
美術室のほうからだ。
そう気づいたとき、ルチカの足はもう前に出ていた。
全速力で、美術室へ向かう。
このさきの人生で、白い涙を見る可能性はまたあるかもしれない。
ふいに、自分が流す可能性だってある。
でも、ウラハさんになにかあっては、取り返しがつかない。
たとえ彼女の間を繋ぐものがなくなってしまうとしても、彼女が無事でいることのほうがよっぽど大切だ。
ルチカは迷いなく、閉ざされている美術室の扉を勢いよく開けた。
目に飛び込んできた光景を見て、血の気が引く。
美術室の奥、画材の置かれた棚の前で、ウラハがボブヘアの女子生徒の胸ぐらをつかんでいる。
「ウラハさん!」
ルチカは叫ぶように声をあげ、ウラハのもとに駆けよった。
「なにしてるんですか?! なにをっ……」
突然あらわれたルチカに腕をつかまれ、ウラハは絶句した。その拍子に、女子生徒から手が放れる。
ウラハは血走った目をかっと開いたまま、茫然とルチカを見た。
ルチカも動揺のにじむ目で、肩で息をしながらウラハを見る。
ボブヘアの女子生徒はウラハから一歩遠のき、喉を押さえて小さく咳をした。そばに立っていたメガネをかけた女子生徒が、ボブヘアの女子生徒の背中に手をあて、さする。
「え……なに……? どうしたの、これは……っ?!」
しんと静まり返った空気のなか、遅れて美術室へ入ってきた麻乃花の甲高い声が響いた。
転がったイス。
倒れたイーゼル。
カンヴァス。
床には様々なものが散乱している。
「な、なんなの、この状況は……?」
麻乃花は困惑した顏で、美術室中をせわしなく見まわす。
美術室の後方には、ウラハとルチカ、ボブヘアの女子生徒、そしてメガネをかけた女子生徒がいる。そのほかには、窓際の席に男子生徒がひとりと、前方の席に女子生徒が三人、ひとつのテーブルにまとまって座っていた。
しかし誰も、麻乃花の質問には答えない。席に着いている部員たちはみな、硬直しているようだ。
「……ねえ、こいつ、ニジゲンのっ……」
ルチカを見たメガネの女子生徒が、ボブヘアの女子生徒の肩をゆする。
ルチカはふたりの女子生徒のほうへ視線を向けた。
どうして、このひとが僕のあだ名を知っているんだろう。
そう思ったとき、ウラハがうわずった声でつぶやいた。
「あんた、なんで……」
ルチカはウラハのほうへ向き直る。
「すみません。その、僕の靴箱に変な手紙が入ってて……だから、ウラハさんのことが心配になって……」
それを聞いた瞬間、なにかを察したのか、ウラハが表情を変えた。
怒りに満ちた修羅のような目が、ボブヘアの女子生徒を捕らえる。
「……っざけんな」
ウラハはそうつぶやいてルチカの腕を振り払うと、右足を踏み込み、ボブヘアの女子生徒の背中を思い切り蹴りとばした。
あまりにも鮮やかに放たれた蹴りに、ルチカの息が止まる。
止める間もなかった。
蹴られた女子生徒は床に倒れ込み、うずくまって低く呻いている。
ウラハは息を荒げ、一瞬それを見おろすと、今度はメガネの女子生徒につかみかかった。
ルチカはウラハを止めようと、腕を伸ばす。
ふと、視界にボブヘアの女子生徒が入ってきた。立ちあがった彼女は、拳を振りかぶっている。
ルチカは瞬時に体勢を変え、ウラハとボブヘアの女子生徒のあいだに割って入った。
ゴッ。
勢いよく伸びた拳が、音を立ててルチカの肩にあたる。
「……っ!」
ルチカのからだは、うしろによろめいた。
「鈍条崎くん!」
麻乃花が叫んだ。
ボブヘアの女子生徒は、痛そうに顔を歪め、拳を押さえた。困惑したようすで、ルチカとウラハを交互に見る。
ルチカは浅く早い呼吸をしながら、殴られた肩をつかんだ。
痛みよりも、熱を感じ、しびれている。
自分よりも背の低いウラハににあたっていたとすれば、顔の位置だったかもしれない。
息を荒げ、いっそう肩を強く握りしめる。
大きく息を吸って、吐き、呼吸を整えてから、ゆっくりとウラハのほうへ顔を向けた。
視線が交差し、ルチカは息が詰まる。
ウラハは腕を高くふりかぶったところで動きを止め、悲しみを帯びた瞳でこっちを見ていた。
ふいに、ふたりを除いた部員たちと麻乃花の注目が、美術室の出入り口に集まる。
遠くのほうから、足音が近づいてきたのだ。
しばらくして、美術部の顧問である「坂上」という男性の美術教師が美術室に入ってきた。室内のようすを見て、「おまえたち、これはなんなんだ」と一喝するが、誰も口を開かない。
麻乃花を見つけた坂上は、事情の説明を求めたが、動揺した麻乃花は「美術室に来てみたら、女子生徒たちがケンカらしきことをしていた」としか説明できずにおどおどしている。
坂上はひとつため息を吐くと、部長らしきショートヘアの女子生徒のもとへと向かった。
部長と短い会話をしたあと、坂上は部員全員を注目させ、本日の部活動の中止を告げた。さらに、ウラハとボブヘアの女子生徒とメガネの女子生徒、そして部長以外は下校するように、と話した。
ルチカはウラハに「大丈夫ですか」と声をかけたが、ウラハは力なく腕をだらりとさげてうつむき、ぼんやりと床を見つめているだけだった。
部員たちは画材を手早く片付け、次々に美術室を出ていく。
ルチカも麻乃花から「とりあえず、外で待ちましょう」と諭され、仕方なく美術室をあとにする。
廊下に出ると、窓の外では空が色のない涙を流していた。




