こんなはずでは(1)
日曜日、ルチカはウラハの家の最寄駅で、彼女を待っていた。
わりと大きめの駅の構内は、休日のためか、多くのひとが行き交っている。それに加え、ルチカと同じく待ち合わせをしていると思われるひとの姿も多数あり、賑やかだ。
午後一時、待ち合わせ時間ぴったりに、ウラハは駅にあらわれた。遠くのほうからこちらに歩いてくる姿を確認し、ルチカはぎょっとする。
頬が、緑色に染まっているのだ。
大慌てでウラハに駆けより、顔をのぞき込む。
「じゃあ、いくわよ」
ウラハは無表情だ。ルチカは金魚のように口をぱくぱくさせた。
「あ、あのっ……だだ大丈夫ですか?! なにがあったんですか?!」
「……なに? 無駄話は禁止よ」
「いえ、その、だって……ケガでもしたんですか? どこが、痛いんですか? 無駄話ってうか、ウラハさんになにかあったんじゃ、遺作もなにも作れないというか」
上から下までウラハのからだを見まわしながら、ルチカはおたおたするばかりだ。
「……騙されたわね」
ウラハが、にやりと笑う。
「えっ……? ど、どういう意味ですか?」
「あたしはなにもケガなんかしてないわ。家を出る前、わざと自分で足の小指をドアにぶつけてやったのよ。それで、涙を出しただけ。それなのにそんなにうろたえちゃって……ざまあみろだわ!」
つんとあごをあげ、勝ち誇ったようすのウラハを見て、ルチカは眉をハの字にした。ウラハの顔と足もとを、交互に見る。
「わ、わざと……? わざと、自分を痛めつけたってことですか? な、なんでそんなことを……」
「あんたを懲らしめるために決まってるでしょ! こないだあたしが顔に絵の具を塗ったときの、あんたのあのしれっとした態度! 思い出しても腹が立つわ。だから、今日は本当に泣いてきてやったの。あー、せいせいした」
ルチカは小さく息を吐いた。
「そ……そうなんですか。よくわからないですけど、事故とか病気じゃなくて良かったです。心配しましたよ。なにも、緑色を選ばなくても……」
「なに言ってるの。嘘泣きじゃ、どうせまたあんたは『なんで嘘泣きなんてしたんですかあ~?』とか、バカみたいに聞いてくるだけでしょ。泣こうと意識して泣いたんじゃ、どんな感情を引き出して泣いてもオレンジの涙になるってあんたのノートにも書いてあったし、バレバレじゃない。だから、緑にしたの。あんたを、慌てさせるためにね。異常に痛いときって勝手に涙が出るし、手っ取り早いでしょ。あたしは、バカじゃないから」
ウラハは上機嫌で歩き出した。ルチカはウラハが自分の渡したノート読み、全面的に自分の話を信じて行動したと知り、胸がじんとする。
しかしすぐに気を取り直し、ウラハの腕をつかむと、彼女の足もとにしゃがみ込んだ。
「……ちょっと、勝手に触んないでよ。しかも、なにひとの足じっと見てるわけ? 気持ち悪い」
ウラハはルチカの手を払い、後ずさる。
「小指、大丈夫ですか? 見せてください」
「はあ? 嫌よ、ばかじゃないの」
ルチカは立ちあがり、ウラハに歩み寄る。
「あの、僕の話を信じて涙の色を選んでくれたっていうのは、すごく嬉しいです。ですけど、自分を痛めつけるなんて、しちゃだめですよ。もし間違って、大けがでもしたらどうするんですか。もう、絶対しないでくださいね」
ルチカの顔は、いつになく真剣だ。
ウラハは一瞬、いたずらをして怒られた子供のように、気まずい顔をした。緑色に染まった頬の奥に、赤みがさす。
「だっ……だれにそんな口聞いてるのよ、助手の分際でえらそうに!」
やっぱりむかつく、と息を荒げながら、ウラハはルチカに背を向けた。そのまま、駅の出入り口へと進んでいく。ルチカもそのあとに続いた。
ふと、ウラハの後ろ姿に新鮮さを感じる。
頬の緑色に気をとられて気がつくのが遅れたが、彼女はいつもおろしている長い髪を、今日は二つにわけ、左右の耳の下で緩めに結っていた。後頭部を二分する分け目に、いつもより幼く活発な印象を受ける。ルチカは率直に、愛くるしいと思った。
そう思っているのはルチカだけではないらしく、ウラハはすれ違う若い男性の目も引いている。さらに今日は、制服ではなく私服だ。淡い水色のワンピースが、色白の肌と調和してよく似合っていた。
ウラハさんは水色が好きなんだな。
先日、河原で目撃した、見てはいけない水色の残像が浮かび、ルチカは密かに頭を熱くした。
駅を出て、商店街を抜けると、閑静な住宅街に入った。通り過ぎるどの家も、門構えが立派な豪邸ばかりだ。ごく一般的な建売住宅に住んでいるルチカにとっては、見慣れない景色である。
駅から徒歩5分、辿り着いたウラハの自宅も、まわりの家に負けず劣らずの大きな邸宅だった。庭に植えられた背の高い針葉樹越しに、白く大きな母屋らしき建物が見える。
ウラハは家の正面までいかずに、裏側にある金属製の黒い門の前で立ち止まった。
「表から入ると犬がじゃれてくるから、裏門から入って」
ルチカの目は輝いた。
「僕、犬すきです」
鈍条崎家では、これまで毛の生えた動物を飼ったことがなかった。ルチカの母親が、アレルギーを持っているためである。犬や猫を飼えないルチカにとって、直接触れ合えるまたとないチャンスだ。頭に、柴犬と戯れる自分の姿が浮かぶ。
「じゃあ、ひとりで表から入れば。ドーベルマン5頭と、人懐っこい土佐犬が、飛びついて迎えてくれるから」
「……う、裏からお邪魔します」
さすがに、土佐犬はハードルが高い。犬とのじゃれあいはあきらめ、ルチカは庭を進むウラハについていく。広い庭のところどころに手入れのいき届いた樹が茂り、まるで整備された有料の公園にいるみたいだ。ルチカは空に向かって枝を伸ばす木々を、きょろきょろと見あげながら歩いた。
「ここがあたしの家」
ウラハに連れてこられたのは、庭の隅だった。紹介された、小ぢんまりとしたログハウス風の建物に、ルチカはきょとんとする。
「ここ、ですか? あっち、じゃないんですか?」
ルチカは数メートルさきにそびえる母屋を指さした。
西欧風の少し変わった形をした、白く美しい建物だ。家の建っている面積だけでも、ルチカの自宅が四、五軒は建てられそうなほど大きい。
「あたしの家はここなの。なんか、文句ある?」
ウラハが、斜め下からぎろりとにらみつけてくる。
大きな家があるのに、なんで、ここに住んでいるんだろう。
そう思うと同時に、ルチカは昔、「他人の家庭の事情を詮索するのはよくない」と母親から言われたことを思い出した。
数年前、家の近所に住んでいた若い夫婦のうち、奥さんのほうだけが突然いなくなったときだ。なんでいないのか知りたかったが、母親からそう諭された。つい最近、実はあのとき、あの夫婦は離婚していたのだと知ったばかりだ。
よくわからないけれど、ウラハさんにもなにか事情というものがあるのだろうか。
聞きたいのはやまやまだが、質問したところで、おそらく助手ルールにより跳ね除けられる。ここは母親の教えを守ることにした。
「……いえ、ないです」
「じゃあ、入れば」
ウラハは「KEEP OUT!」と黒いペンキで書き殴られた金属製のドアを開いた。