9 獣人の抵抗
川沿いの草原を、二人の男が、歩いていた。
一人は、赤い長い髪の男。
もう一人は、黄金色の髪から、狼の耳が生える男だ。
二人は、言葉を交わす事なく、黙々と目的地に向けて、ひたすらに進んでいた。
季節は夏であり、いつまでも明るい昼の時間が、続いていた。
その場所には、既に先客がいた。
背中に、小さな黒い翼のある男らと、縞模様の尻尾と黒い耳のある男らが、彼らを出迎えていた。
「ようやく来たな、狼の」
黒い翼――小柄なカラスの獣人が、そう言って笑っていた。
「トナカイの奴らは、少し到着が遅れている。オオジカのと合流してから来るそうだ」
縞模様の尻尾――虎の男は、心配ないと、大柄な身体を動かして伝えていた。
広大な、東方世界の大樹林地帯を分断するように、滔々と流れる大河がある。
この河は、無数の支流からなっていた。それぞれの支流は、また細かい支流を有し、それが際限なく、網の目のように、樹林地帯を流れている。
そして流れ付く寄辺の果てに、西の者たちの築いた町が存在していた。
町は、ほんの少し前まで、熊の氏族たちが住んでいた。
西の世界の国には、遠く及ばない規模だが、彼らは立派な自治権を有し、小さいながらも王国として成り立っていた。
その彼らを、西から来た者たちは、無惨に潰していった。
戦いで、懐柔で、男を殺し、女子供を奴隷にし、西の者が恐れる騎馬民族の手口をそっくり模倣して、町を乗っ取ったのだ。
辛うじて生き延びた熊の氏族は、仲間内で協力することで、散発的に抵抗を続けてはいたものの、数少ない根城も虱潰しに合い、それも最早、終焉が近くなっていた。
「それで、西のやつら、どこまで、来てる」
黄金の狼のツァガンは、川の向こう岸を眺望しながら、言った。
「この気配だと、割と近いな」
赤い髪のユーリは、シャマンの眼で、周囲を警戒している。
彼らが佇んでいるのは、かつて渡し場であった川のほとりだ。熊の氏族が利用していた、古い交易の道でもあった。
「この川を、下ったところまでは、確認済みだよ」
カラスの獣人の一人が、しわがれた声で、答えた。
男は、老人かと思うほどに、腰が異様に折れ曲がり、背中の翼も、所々抜け毛が目立つ。手には、シャマン特有の円形の片面太鼓と、薄汚れた羽毛の上衣が、他の男どもとは違う空気を醸し出していた。
「この様子だと、熊の氏族は諦めた方がいいかもしれん」
虎の男は、ため息をついた。
ツァガンよりも遥かに大柄な男は、東の山地からやって来た。
山岳地帯で弓を取り、獣を狩って暮らしていた虎の氏族は、十人ほどの手勢を連れていた。
「我らも、この人数では、どこまで出来るか……」
カラスの氏族は、五人程度だった。
「オイラ、一人でも、十人以上、働けるぞ」
ツァガンが、胸を張っていた。
「はっはっは、よく言うな狼の。ならば、お前のシャマンはどうした?」
カラスの中年男が、笑いながら指摘した。
「そこにいるのは、鷲のシャマンではないか。狼の氏族は、新たなシャマンを手に入れたと聞いたが、なぜ連れて来ないのだ」
ツァガンは、返答に窮した。
そのシャマンを指すのが、己の妻――エルージュであるのは、理解している。
彼女は、狼の氏族のために、白鳥の氏族でありながら狼のシャマンとなった。
そして此度の件に、各氏族は自身のシャマンを連れて来るのを条件にした。不可思議な術を使う、シャマンの力がどうしても必要だからだ。
だが、ツァガンは、連れて行くのを拒んだ。
ユーリも、行かせるべきではない、と反対した。
何故なら彼女は、妊娠していたからだ。
「ユ、ユーリは、鷲だ。でも、狼の氏族に、協力してくれる、いい奴だ」
そう言って、ツァガンはユーリに目線を移した。
彼は、別段、気に留めるでもなく、川の向こうを見つめている。
「ふん、シャマンを出さない、人手も出さない。何様のつもりだ、狼の連中は」
虎の男の一人が、悪態をついた。
――それは、お互い様ではないか。
ユーリは、腹の底で呟いた。
虎のシャマンは、この場にいることはいる。ただ、大人というには、まだ早い、少年のようなシャマンであった。
彼らも、経験のある年老いたシャマンを出したがらず、いくらでも替えのきく若いシャマンを、この場に連れてきた。
カラスのシャマンに至っては、足腰の弱った老人である。
ただ、経験だけは豊富そうなのが、救いであった。
一日遅れで、トナカイとオオジカの氏族が到着した。
トナカイは、総勢三人だった。オオジカも、同じ人数を、引き連れていた。
「いやに少ないな」
カラスの男が、怪訝な顔をした。
それもそのはず、彼ら二つの氏族は、シャマンを連れてはいなかった。
「生憎と、流行病が出たのでな。これ以上の人手は無理だ」
大樹林地帯の、北の果てから来たトナカイの男は、苛立ちを隠しながら、カラスを睨み付けた。
「さて、これからどうする。このまま川を下って、町を襲うか」
「いや、真正面から当たっても、こちらが不利なだけだ。やるなら奇襲しかない」
虎の男の提案に、ユーリは反論した。
「例えば?」
「夜だ。あいつらは酒を非常に好む、一度寝入ったら、なかなか起きない。そこを狙う」
「上手くいくのか?」
「そうさせるのが、シャマンの役目だ」
ユーリの双眸が、黄金色に輝いていた。
川を越えて、一行は西の者が住む町へと近づいた。
「おい、夜の襲撃では、なかったのか」
木々の間に身を隠しながら、オオジカの男が喚いた。
「しーっ、静かにしろ。お前らはここで待機だ」
獣人の男たちをその場に残し、ユーリは単独で、町の様子を探るべく進んだ。
その町は、森の中を穿つ川のほとりに開けていた。
周囲は、手つかずの森林が残るが、開拓された町と、そしてそこに至る街道があり、川に敷設された桟橋には、西の者の姿が見受けられ、肌を灼くような警戒感が充満している。
町を囲む壁は、伐採したばかりの、水分も抜けきっていない針葉樹の幹からなり、炎で燃やそうにも、上手く行きそうに無いのが、予想された。
――エルージュ様であれば、上空から覗けるのだがな。
狼の村で、無事の帰りを待つと言い、二人を見送った彼女を思う。
彼女は、白鳥の翼を持つ。それがあれば、こんな町の様子など、すぐに把握出来る。
空に身を浮かべ、遥か高みから地上を見渡せる、美しき白鳥の女だからだ。
一方、己は鷲の氏族でありながら、翼を無くした。
西の人間に限りなく近く、地べたを這いずり回るしか能の無い男だ。
彼女の白い翼に魅了され、自分も鷲の翼を欲しいと願った事さえある。
あるからこそ、この鈍重な人間の身が、非常にもどかしかった。
「鷲の」
しわがれた声がした。
ユーリの横には、いつの間にか、カラスの老シャマンが立っていた。
「あの町を、見たいのか?」
「そうしたいが、私には翼が無い」
「自分ならば、高みに登る事が出来る」
ゆっくりと、ユーリは老シャマンに振り向く。
「姿を偽る術は、心得ておるか」
「ああ」
「ならば、今すぐかけろ。上に行くぞ」
ユーリが、術の詠唱を開始した。
老シャマンは、彼の襟首を引っつかんで、背中の翼を動かした。
気がついた時には、二人の姿は、高い高い針葉樹の梢にあった。
「はあ、はあ、さすがに大人二人は、重いわい」
老シャマンの、息が荒い。
「ご老人、かたじけない。後は私が引き受ける」
「頼んだぞ、鷲の」
木の股に身体を預けて、老シャマンは深呼吸をした。
片やユーリは、輝くシャマンの眼で、町を見下ろす。
黄金色の、彼の双眸が、獲物を狙う鷲の如く、鋭い眼光を放つ。
向こうからは、こちらの姿など、認識出来るはずもない。
姿を偽った、彼らの姿は、梢に止まる二羽の鳥と化していた。
――町というよりは、砦に近いな。
丸太材を器用に組み合わせた、西の生活様式の家々だが、その造りは、一般の民家よりも、遥かに重厚だ。
その家を取り囲むのは、町の外に無限に広がる針葉樹から作られた、壁である。
壁は幾重にも、家々や町全体を守るように覆っており、壁と壁の隙間を、子供たちが元気に走り回っている。楽しそうなその光景は、否が応でもユーリの古い記憶を呼び起こした。
――キタイ・ゴロド……。
忘れたはずだった。
だが、師匠、そして弟弟子と暮らした町並みが、目の前にあった。
建並ぶ家と、家を囲む泥棒避けの壁が見え。細い路地には、積もった雪がいつまでも残り、冷たい空気は町を覆う。
キタイ・ゴロドと白い町の間には、白壁の城壁が。白い町と木造の町の間にも、同じく城壁と、壁はいくつもモスクワの町を取り囲む。
この町の造りは、それと同じだった。
建物の密度など、細かい部分は違っているが、基本的な部分は同一だった。
異民族の町を奪い取り、砦として作り替えたものだ。
町の出入り口には、見張りの者が複数見え、壁には一定間隔で櫓が建ち、人の姿がある。
難しいと、彼は感じた。
町の規模に対して、人の数が多すぎるのだ。だが。
――もしや、次に?
そう、思い至った時、彼は何かに気づいたらしく、微かに笑みが漏れた。
数日後の夜。
ツァガンは、ユーリと共に、町へと侵入していた。
足元には、門番の死体が転がり、その首には、矢が深々と突き刺さっている。
「俺たちは見張りを倒す、そっちも頑張れよ」
そう、言い残し、虎の氏族は弓矢を構えつつ、姿を消した。
ほんの少し前まで、町は賑やかであった。
次なる異民族の集落を奪い取るべく、出陣した開拓兵を見送った住民は、案の定、酒盛りを始めていたからだ。
あれだけいた見張りの数も、今や半数ほどに減り、その残った見張りすらも酒の誘惑に勝てず、持ち場を離れている始末だった。
「私が、建物に火を放つ。お前は、外に出てきたのを倒せ」
「分かった」
ツァガンが、大きく頷いて、走り出した。
続いて、トナカイとオオジカの氏族も、散らばるように走る。
ユーリの双眸が、黄金色に輝く。口が動き、不思議な言葉が漏れ出でた。
周囲の建物を睨み付けた。その途端、炎が天高く噴き出し、人々の眠る家を、一瞬で飲み込んだ。
直に、燃える家から、人が飛び出してきた。共に素裸の男女だった。酒の影響なのか、それ以外の要因なのか、肌が異様に赤かった。
ツァガンが、男の首をへし折った。男は悲鳴を上げること無く、死んだ。
それを見た女の口が、声を出そうにも出せずに、ただ開閉している。
人は、本当の恐怖に遭遇すると、声など出ない。目は見開かれ、顔色は血の気を失い蒼白である。
女は震えながら、四つん這いになり、ツァガンに尻を向けた。
白い女の指が、そこを押し広げている。先ほどまで、何をしていたか明瞭に跡が残っている。
尻が、彼を誘うように艶めかしく蠢いた。助かりたいという本能が、女を突き動かしていた。
ツァガンは、嫌悪感を催した。女の腕を掴み、真っ赤に燃える炎の向こうへと、その身体を放り投げた。悲鳴が聞こえたが、それもすぐに止んだ。
また別の家からは、子供のか細い泣き声が、炎の轟音に紛れて耳に入った。
ツァガンの顔が、悲しみと憤りで歪んだ。どうしていいのか、彼には分からなかった。
町にいるのは、東の世界を侵略しに来た者たちだ。
だが、それには、女子供も入っている。特に子供、自身が子を持つようになってから、その愛おしさと憎らしさは、骨身に染みているのが、よく分かっている。
ユーリは、子供であろうと、情けはかけるな。と、説いていた。
敵の子供は、恨みを抱えたまま、大きくなる。そうして、いつか寝首を掻こうと、その爪牙を鋭く研ぐ。従順な奴隷になる子の中に、一人でもそれが混じっていたなら、それは大変な事態を招くからだ。
禍根は断ち切らないと、いけない。
かつて故郷を滅ぼされたユーリは、悲しい目でツァガンに言い聞かせていた。
家が、焼け落ちる。柱が、梁が、豪快な音を立てて、崩れていく。
屋内で焼け死んだ者たちは、瓦礫の下に潰された。人だったものと、木材だったものが混ざり合い、一つの炭となった。
炎は、大量の煙を吐きながら、その勢いを弱めようとは、しなかった。
ツァガンたちは、一度、引き揚げていた。
疲れ切った彼らを出迎えたのは、留守を任されていた、カラスの氏族と虎のシャマンだった。
「虎の氏族にケガ人が出た、急いで手当を頼む」
「は、はい」
トナカイの男が、虎の少年シャマンに声をかけ、彼は青白い顔で、治療に取りかかる。
拙い手つきだが少年は懸命に祈り、仲間の傷を癒やすも、如何せん経験が浅いせいか、その速度は非常にゆっくりとしたものだった。
一方、ツァガンとユーリに、ケガは無かった。
ユーリは、己の身ぐらい守れると言い、ツァガンには、妻エルージュのかけた守りの術が、強力に効いていたからだ。
「ユーリ」
「何だ、ツァガン」
ツァガンは、腰を落ち着けて、ユーリに話しかけた。
「みんなに、オイラの魔法みたいなの、かけられないのか?」
「災い避けの術か」
「そうだ」
ユーリの頭が、左右に揺れた。
「無理だな、術の方法はエルージュ様に教えて貰ったが、かけ方に少し問題がある」
「なんでだ」
「心から愛している者にしか、これはかけられないと聞いた。お前だけに術がかかるのは、そのせいだ」
「え、えっ?」
驚くツァガンの様子に、ユーリは苦笑いをした。
「お前、私に口づけされたいのか?」
「そ、それは、嫌だ」
「そういう事だ、諦めろ」
ユーリは太鼓を持ち、虎のシャマンの元へと向かう。
少年は少し驚いていたが、ユーリの親身な助言に耳を傾け、懸命に仲間を癒やし祈り続けていた。
彼のシャマンの術は、まだまだぎこちないが、その才能には、光るものがある。
そう感じたユーリは、若き次代を育てるためにも、少年の成長を後押ししていた。
氏族の異なる獣人たちは、西の者という共通の敵が来たことで、互いに力を合わせつつあった。
森の中を、一行は進んでいた。
カラスの老シャマンが残した、微かな気配を辿りつつ、皆は川上へと足を向ける。
途中、幾つもの支流を渡り、西の者が休憩したであろう、野営地を確認し、もうすぐ追いつこうという時に、老シャマンが姿を現わした。
「遅かったな、奴らは砦を築き始めているぞ」
少し棘のある物言いに、皆は内心苛立ちを覚えたが、それを無理矢理腹の底へと押し込めた。
老シャマンの両足は、傷にまみれていたからだ。
西の者は、川の道を利用して、大樹林地帯の奥深くまで移動している。
その速さは、徒歩の比較ではない。風を巧みに使い、恐ろしいまでの長距離を、短時間で踏破してしまう事が出来る。
それを、この老人は、たった一人で追跡し、時には空を飛び、時にぬかるむ地面を駆け、孤独に奴らを追い続けた。
足が傷つき、血が滲むのも厭わずに。
「砦はどこだ、ここから近いのか」
オオジカの男が、焦りの様子を見せる。
「この先に、川の合流地点がある。その近くに熊の集落があっただろう、そこだ」
それを聞いて、皆の背筋に悪寒が走った。
件の熊の集落は、族長の一人が、最後まで抵抗を続けていた場所だった。
しかし、族長は奮戦空しく戦死し、集落は一時、西の者に占拠された。
とは言え、熊の氏族は執拗に反乱を起こし、集落は幾度も奪い奪われ、今また熊のものとなっていた。
それがまたも奪われた。しかも根城を失い、補給の続かない開拓兵がだ。
これは、別方面からの侵入、及び支援があるものと見て、間違いは無かった。
「此度は、長丁場を覚悟した方が、いいかもしれんぞ」
誰かが、そう言った。
それは、事実であった。