8 黄金の狼
夜更けの狼の村。
皆が寝静まった深夜に、エルージュはふと目覚めていた。
傍らには、豪快なイビキをかいて寝ている夫の姿がある。
天幕の頂点から降り注ぐ、月の光の下で、彼の髪は黄金色に輝いていた。
反対側を向くと、子供たちの寝床では、同じく小さな黄金の髪が、呼吸に合わせて動いている。
それを見て、彼女は何か気になることを覚えたのだが、再び襲い来る睡魔には抗えず、その瞼は閉じられつつあった。
狼の村に、黄金の狼の家族がいる。
白鳥の女に愛されて、彼らは幸福のうちに眠っていた。
翌日。
「やっぱり、うちだけなのよね」
狩りから戻り、獣を解体し終えたツァガンの横で、妻はそう言った。
「なに?エルージュ」
「あなたと、子供たちだけなのよ」
村内を行き来する、村人を眺めつつ、彼女の長い黒髪が、風に靡いていた。
狼の村に住まう狼の者は、皆、髪が茶色か灰色だった。
ツァガンのような、黄金色の髪に黄金の目は、他の誰にも存在しなかった。
「お父様も、薄い灰色だし。どうしてなのかしら」
「もしかして、オイラの髪の色?」
「ええ、そうよ」
鍋に解体したての肉を入れ、エルージュは天幕内へと入る。
獲物の肉は、その半分が当面の食料となり、もう半分が保存用の干し肉になる。
肉は屋外で干すのではなく、天幕内に吊すような形で干される。
湿気の少ないこの地では、このような方法でも乾燥は進み、肉は傷まないのであった。
「不思議ね、ツァガンだけが急に色変わりするなんて」
鍋に水を張り、肉の入ったそれが、かまどへと乗せられた。
天幕内には、ツァガンとエルージュの姿がある。
そして干した肉が、なんともいえない匂いを発していた。
「でも、オイラの父さん、昔はもっと、違う色、だったような」
「そうなの?」
「うん、今みたいな、灰色じゃなかった」
かまどには、新たな薪がくべられ、弱まっていた炎が、再び力を取り戻す。
火は彼らに、なくてはならないものだ。
火は暖を彼らに与える。穢れたものを浄める力がある。
それは、時に恐ろしいものとなるが、決して恐ろしいだけではない。
上手に付き合えば、たくさんの恵みを与えてくれる。
それゆえに、火のあるかまどは、神聖なものとして、彼らに扱われてきた。
「後で、父さんに、聞いてみよう、か?」
「そうね、ツァガン」
笑顔でそう返す妻に、彼も微笑み返していた。
「儂の髪か?」
息子夫婦と食事を共にし、その後の一休みの最中に、父は疑問をぶつけられていた。
「そう、父さん、前は違う、色、だったよね」
「ああ、もうだいぶ昔の話だがな」
目の前で遊ぶヴォルクとボローを眺め、父は懐かしそうにする。
歩きはじめたばかりのココと、そして成長盛りのヴォルクの髪は、黄金の色だ。
それは、彼らだけが持つ、豊穣と永遠を表す色であった。
「儂も若い頃は、黄金の髪だったものよ」
「そうなの、ですか?」
その言葉に、エルージュは驚いていた。
「こう見えても、な」
あごひげを撫で、しみじみと思いに耽るその姿からは、想像も出来ないものだった。
薄い灰色の髪を持つ義父は、かつてはツァガンと同じく、黄金の髪を有していたのだという。
「ね、エルージュ、本当、でしょ?」
「ええ、でも信じられないわね」
頬に手を当てて、エルージュは何度も夫と義父を見比べた。
「おじいちゃんの髪、父さんと同じだったの?」
そんな母の驚きように、ヴォルクも不思議そうに首を傾げる。
「ああ本当だぞ。信じられないか、ヴォルク」
「うん」
くりくりの大きな目を瞬かせて、小さな狼は、大きくうなずいた。
「ははは、そうか、そう思うか、儂も歳を取ったものだ」
「おじいちゃんは、歳を取ったから、白くなったの?」
「そうだぞ、年寄りは皆白くなる。長生きすればするほど、しわも増えてくるんだ」
「でも、なんで僕たちだけ、金色の頭なの?」
子供心に湧いた、少しの疑問を、彼は正直に祖父へと投げかけた。
「私も、それが気になります。どうしてなのですか?」
ツァガンと、ヴォルク、そしてココにしか発現していない、狼の村でも希少なそれは、何か理由でもあるのだろうかと、エルージュは考える。
「これは、昔の話なのだがな」
そう、前置きをしてから、父は語り出していた。
昔々のこと。
世界がまだ、明るくなかった頃のこと。
この東の地では、金というものが、至る所で採れていた。
それは、山の中の鉱脈や、川の中の砂粒に、森の木の根と、ありとあらゆる場所で、光り輝いていた。
金は古来より人を魅了し、それが元で争いも多く起きた。
特にここより南の、草原地帯で覇を唱えていた者たちは、金を非常に好み、また自らの身体を、金の衣服で着飾りもしていた。
その時、ここに住んでいた獣人たちは、彼らに使役されるだけの力しか持たない、とても非力な者たちで、一日の大半を金採取に費やし、南方の者たちに税として金を納めていた。
だが、そんなある日、狼の獣人の一人が、採取した金を一粒、地面に落としてしまった。
その一粒の黄金を、偶然にも、通りかかった一匹の狼が口にした。
すると、狼の体毛は瞬時に黄金色となり、瞳も輝く黄金色へと変化したのだ。
黄金の狼は、金採取に従事する獣人を訪ね、金を落とした者を探し続けた。
そうして、何十人、何百人と渡り歩き、ようやく彼は目的の人物へと辿り着く。
落とした者は、細身の、年端もいかない、灰色の髪の少年であった。
少年と再会した狼は、狼の口から人の言葉で語りかける。
『俺が、お前を護ってやろう』
どういう意味かと、少年が訊ねたのと同時に、狼の全身が眩しく光り、それは目も開けていられないほどにまで輝きを増す。
やがて光は収まり、少年は恐る恐る目を開けるも、すでに狼の姿は消え失せていた。
消えた狼を探そうと、動き出そうとした彼を、周囲の皆が一斉に見つめ、そして声を上げる。
灰色だった少年の髪は、美しく輝く黄金と同じ色になっていた。
語り終えた父は、嫁に差し出された一杯の水を飲み干し、一息ついていた。
「それが、儂ら一族の祖霊だと言われている」
その昔話には、続きがあり、黄金の狼の庇護を得た彼らは、黄金の少年を旗頭にして、南の者の支配から脱却し、草原と森の交わるこの地に移り住んだという。
「ツァガン、ここはなんと呼ばれる地か、知っているか」
父の言葉に、彼は首を振る。
「黄金の地だ。そして、儂の名はアルタイ。代々一族の男につけられる、黄金という意味の名だ」
「え、でも、オイラは……」
「よく考えろ、お前の名は、なんだ」
胸に手を当てて、彼は息子に考えるよう促す。
「オイラは、ツァガン……。いや、違う、ツァガルトーイ……」
呟き、思い出したかのように、その名を彼は口にしていた。
「そう、ツァガルトーイ。アルタイの名が入っている、黄金の狼の子だ」
「ツァガーンは白、アルタイは黄金、古い言葉ですね」
エルージュの指摘に、父はうなずいていた。
「今やその言葉も、廃れて久しい。だが伝承だけは、今も残っている」
そう、彼らは黄金を採らなくなった。
黄金など採取しなくとも、森の獣を捕れば、生活は成り立っていくからだ。
新鮮な肉や、温かな毛皮を手に入れることができる。
冷たい川の水に浸かり、凍えるような冷たさの中で、気の遠くなるような時間をかけて、金を採らなくともいいのだ。
彼らは、黄金の狼の庇護の下、自由というものを手に入れた。
「お前は、白き黄金の狼。それを忘れるなよ」
「はい、父さん」
父は、輝く黄金の瞳で、息子を見ていた。
森を流れる、一筋の川。
その川に沿って、森は開け、夏の眩しい陽光が川面へと降り注ぐ。
流れる水に、陽の光は乱反射し、無数の煌めきが川を覆う。
だが、よくよく見れば、その輝きは上辺だけのものではなく、水面下の、川の底からも光を放っているのが分かる。
狼たちが採らなくなった黄金は、いつしか長い時を経て、再び水底にその身を沈めていた。
そんな川縁の、少し離れたところから、複数の男女の話し声が聞こえてくる。
ツァガンとエルージュ、そしてユーリの三人は、森の中で木苺を採取しながら、黄金の狼についての話をしていた。
「ううむ、そんな謂われがあったとは……」
東の世界の黄金の伝承は、西の世界にいたユーリにとって、とても珍しいものに聞こえたらしく、言葉の一節一節に彼はうなずきつつ、それを理解していた。
木をくり抜いて作った、やや大きめの器を小脇に抱えて、彼は顎に手を当てて静かに目を閉じる。
頭上より太陽の光が差し、彼の髪は燃えるような赤い色をしていた。
「そうだ、オイラたちは、黄金の狼一族。驚いたか」
「黄金の地の、黄金の狼とはな」
「どうだ、まいったか」
「もう、ツァガンったら、自慢しないの」
持参した籠に、たくさんの木苺を詰めて、エルージュは諫める言葉で夫に注意をした。
「オイラの、髪の色、ちゃんと意味、あった。オイラ、嬉しい」
彼は、その心の弾みようを妻に伝えるべく、彼女の手を取り、満面の笑みでその顔を覗き込む。
「はしゃぎすぎよ、ツァガン」
黒髪の、黒い瞳の妻は、そう言って微笑み返していた。
「うーん」
だが、幸せそうな二人の傍らで、ユーリは一人渋い顔のまま、何かを考える。
少し考えては、目を開き、ツァガンを見ては、また唸る。
何度も繰り返される、その動きに、エルージュは何事かと、彼に問うた。
「どうしたの、ユーリさん?」
不意に、そう声をかけられて、彼は眉間にしわを寄せたまま、顔を上げていた。
「あ、いや、心配なのです」
「心配?」
「はい、黄金の地の伝承は、西の世界にも伝わっているのかと思いまして」
黄金の地の物語は、南の者たちに、知られた存在ではあったが、この話自体は、どこまで伝播しているのか、彼は不安に駆られていた。
これが、西の者にまで知られているのならば、ここは侵略目標になりかねないからだ。
彼らは、毛皮が欲しい、奴隷が欲しい、そして黄金が欲しい。
黄金は、富と権力の象徴でもある。
人々は、それがあると聞けば、目の色を変えてやって来るであろう。
その土地に住む者たちを、殺し、奪い取る。
そうして、己のものとして、血塗られた両の腕で、掴み取っていく。
ユーリは、不安げな顔で、エルージュに、そう言っていた。
「もしかしたら、この話は、西の者も知っているかもしれません。弟が、ヴァシリーが来たのも、それ絡みだったのでしょう」
「まさか、ヴァシリーに限って、そんな」
彼女の、否定するその言葉に、ユーリは頭を振る。
「いいえ、あいつは物を知っていました。東の世界のことも、そこに生きる獣人たちのことも」
エルージュは、かつて共に旅をした男の姿を思い出す。
腰まである長い黒髪を有し、ツァガンよりも長身であった、シャマンの男を。
顔に付けられた仮面は、不気味な空気を醸し出してはいたが、その仮面の下から覗く、優しい目が、彼の性格を表してもいた。
「でも、ヴァシリー、悪いやつ、じゃない」
エルージュの肩に、ツァガンの手がそっと被せられた。
「ヴァシリーは、オイラに、いろんなこと、教えてくれた」
「ツァガン」
「オイラ、ヴァシリーは、黄金の地、知らなかった、思ってる」
彼の言うとおりであった。
もし本当に、黄金の地を知っているならば、あの後、大規模な攻勢をかけてくるはずだった。
第一陣を追い払い、油断しているところに、攻めかける。
なぜなら、幾百もの犠牲を払ってでも、手に入れる価値があるからだ。
だが、彼らはそれをしなかった。
あの件以来、西の者は接触してこず、村は平穏のうちに時を刻む。
西の者は、狼の獣人と、二人の強大なシャマンに恐れをなし、撤退せざるを得なかった。
魔法の力を持たない開拓兵が、唯一対抗できる武器である、銃火器を持ってしても、シャマンには通用しないからだ。
炎の力を持つ、鷲の男。
雷の力を持つ、白鳥の女。
二人がいる限り、狼の村は落とせない。
西の者は、そう判断し、大山脈の麓まで、引き上げていた。
進めないのなら、違う道を進めば良い。
焦らずとも、東の世界は広大である。
そこには、まだ見ぬ資源が、毛皮が、豊富にあるのだから。
沈黙の続く森の中で、三人の周囲を、ひやりとした空気が通り過ぎる。
それが彼らの身体に触れた時、どこか懐かしいような、切ない気持ちが、三人の胸にこみ上げていた。
『旧友に、会いに来たんですよ』
聞き覚えのある声が、した。
それは、あの旅の中、幾度も聞いた、彼の――。
「ヴァシリー」
エルージュの唇から、その名が発せられる。
言葉が、森の中に染み渡ると同時に、冷えた空気は霧散し、木の葉の息吹の中に、溶け込んでいく。
夏の森は青臭く、成長する樹や草が、盛んに呼吸を繰り返す。
三人の目が、森の奥を見つめていた。