7 侵入
森の上空には、どこまでも青い天が広がっている。
その天の下には、これまた広大なる樹林地帯が地を覆っていた。
まるで、世界の涯てまであるような、緑繁る森の中に、一つの不思議な木が生えていた。
その木は、周囲の杜松の木や、白樺とも違う、独特の空気をまとったもので、人は神聖なるシャマンの樹と呼び、畏れ敬っていた。
樹は、常緑の針葉樹そのものなのだが、幹の中途から無数の枝葉が密集して生えており、長く伸びた枝が、地面に向かって垂れ下がる姿と、そこに結びつけられた、色とりどりの布きれが、より一層異様さを引き立たせていた。
そんな樹の先端にある、梢の付近に、一人の女がその身を浮かばせている。
背中の白鳥の翼を大きく広げて、白い毛皮の衣服を風に靡かせつつも、彼女の目は、黄金色に輝いて遠くを見つめた。
「信じたくないわね」
そう呟きつつ、彼女――エルージュは悲しげな顔をしていた。
昨夜のこと。
子供たちも寝静まった頃、彼女は寝床にて、夫のツァガンから、それを聞かされた。
「熊の氏族が、西の国の奴らに、負けた、らしい」
彼の言う、熊の氏族とは、大山脈東側山麓に住まう者たちで、大樹林地帯を流れる川沿いに、いくつかの王国を持ち、東方世界の交易を担ってもいた、裕福な、そして勇敢でもある獣人の氏族であった。
その彼らが、西の者に敗北をしたのだという。
「それは、本当なの?」
「うん、昼間、使者が、来た。オオジカと、カラスの氏族も、一緒、だった」
暗い天幕内で、ツァガンの声が、力なく響く。
西の国は、毛皮や土地などの、豊富な資源を求めて、この東方世界へと侵入を開始した。
もはや、世界を分ける大山脈は、その役割を果たしてはおらず、山脈の比較的なだらかなところから、人々は進み始めていた。
そしてその流れは、止まるどころか大規模な奔流と化し、東方世界は次第に、開拓という名の侵略を受けるようになっていった。
「オイラ、できるかな」
ツァガンは、寝返りを打って、エルージュの柔らかな胸に顔を埋めた。
「オイラ、戦わないと、いけない。オイラ、族長だから、みんなを守る」
「ツァガン……」
彼は不安なのか、声が少しだけ、震えている様子だった。
「熊の氏族、男は殺されて、女子供は奴隷にされて、ユーリの言った、通りのこと、されたって」
ユーリがかつて言っていた、その言葉を思い出し、エルージュは悲しい気分になる。
西の国は敵だ。
土地や毛皮を奪い、男は殺し、女は慰み者にする、我らの敵なのだ。
彼は、かつて住んでいた国を、そう評し、冷たく言い捨てていた。
「オイラ、エルージュが、他の男のものになるの、見たくない。子供たち、奴隷になんか、させたく、ない」
胸の上に微かに見える、黄金色の髪と耳を眺めつつ、妻が、そっと彼を抱きしめる。
いつの間にか、父と同じく、大きな体格の男となっていたツァガンだが、その内面は、昔と変わらず、エルージュと出会った時のままだった。
心優しき、仲間思いの最愛の夫だ。
その夫の悩み苦しみを、共に分かち合いたい。
彼女はそう考えつつ、柔らかなその胸で、彼を抱き留めていた。
「私も、同じ」
ツァガンの頭の耳元で、彼女は呟いた。
「私も、ツァガンや子供たちが大事。ユーリさんも、この村も、とても大切だから、私も戦うわ」
彼女の言葉に、黄金色の頭が振られていた。
「それ、だめ、だよ」
「どうして」
「エルージュは、女、だもん。戦うの、オイラの役目、エルージュは家、守る役目」
「でも、私だって……」
暗闇の中で、彼女の頬に、大きな手が触れていた。
「エルージュ」
彼は、その手で、愛しい妻の頬を撫でる。
きめ細かく、吸い付くような肌に、暖かく柔らかい感触は、何よりも尊いものだ。
初めて抱いた時と、全く変わらないその身体に、ツァガンの鼓動が激しくなった。
「今度は、あの時と、違う。相手は人間、西の人間なんだ」
「人間……」
「うん、人間、怪物相手じゃない。だから、オイラの言うこと、聞いて、エルージュ」
「……分かったわ」
妻の声に、彼は安心したらしく、再び温かな胸へと、顔を埋めていた。
夜更けの天幕内で、ツァガンはいつしか眠りにつき、少し賑やかな寝息が、聞こえだしていた。
シャマンの樹の根元。
上空より、ふわりと舞い降りたエルージュは、長い黒髪を掻き上げて、それを見た。
「ユーリさん」
それは、ユーリのシャマンの樹だった。
元々彼の樹は、大山脈東側山麓にあり、神聖なる樹として地元氏族に崇められていた。
それを、この地に移さざるを得なかったのは、西の国のせいであった。
彼らは、知らぬとはいえ、明らかに特別扱いされていた、この樹を、伐り倒したのだ。
自然崇拝の愚か者と、言って。
「シャマンの樹を伐るような人たちは、ダメよね」
そっと樹皮に触れる。
堅い表面の向こうで、樹の息吹が脈動している。
この樹は、ユーリの命そのものとして、ここにあり、根付いていた。
「ねえ、ユーリさん?」
樹に触れながら、彼女はそう微笑む。
「気づいておられたのですか」
彼女と、樹を挟んで反対側から、ユーリの声がした。
少し照れくさそうに、微かな笑みを浮かべて、彼は深々とエルージュに頭を下げる。
茶色の毛皮の羽織に、色とりどりの無数の紐を下げ、己の分身ともいえる太鼓を片手に、彼は佇んでいた。
「おかえりなさい、疲れたでしょう」
「はい、さすがに気配を消しつつの移動は、骨が折れますね」
赤く長い髪の向こうで、彼の顔は少しだけ疲れを見せていた。
「ですが、休んでもいられません。ツァガンたちに報告がありますので」
「無理は、しないでいいのよ」
「これしきのこと、平気です」
ユーリを気遣う彼女の言葉に、彼は温かさを覚えながら、狼の村へと歩み出す。
その彼を追って、エルージュも歩き始めた。
狼の氏族の村。
村内でも、最も大きい天幕の中に、族長であるツァガンと、帰還したばかりのユーリ、そしてエルージュの三人がいた。
ツァガンは、毛皮の服をしっかりと着込み、失礼のない格好でユーリを出迎え、そのまま彼に座るよう促すと、エルージュを自身の傍らに呼び寄せ、自らも腰を落ち着けた。
「ユーリ、偵察、ありがとう。それで、何か、分かったか?」
「ああ、いくつか情報を手に入れた。それによるとだな」
彼は語り出していた。
熊の氏族や、近隣氏族の話によると、熊の連中は、全員が西の者に負けたわけではないらしい。
彼らは、一言に熊と言っても、いくつかの枝分かれした兄弟氏族の集合体であり、今回敗れたのは、そのうちの二、三の氏族であるとのこと。
残された者たちは、町を手放し、森に姿を隠して、抵抗を続けている。
彼らは勇猛で、森においては腕力で比類無き強さを誇るのだが、西の者は知恵を働かせて、その彼らを出し抜きつつある。
そして西の者は、大樹林地帯を流れる、無数の河川を利用し、川沿いにある小さな集落を乗っ取っては、砦を築いているらしい。
川を使うということにかけて、西の者は優れた技術を持っているために、瞬く間に川の上流である、人跡未踏の奥地まで侵入されているとのこと。
熊の周辺に住まう各氏族は、熊の者に協力を申し出たのだが、彼らは頑なにそれを拒み、熊の者だけで戦いを続けているのだという。
「町の建設は、止められないのかしら」
エルージュが、そうため息をつく。
彼ら西の者の建設速度は早く、一晩経てば家々が。十日もすれば小規模な砦が、周囲に豊富にある木材を利用して、作られていった。
そうして森は切り開かれ、獣は狩られ、東の氏族は次々に併合され、奴隷として連れ去られていた。
「建設を止めることは、不可能です。併合された者の中には、西の生活を気に入っている者もいます。一度それに慣れてしまっては、こちらに戻ることは難しいでしょう」
淡々と、見てきたありのままを、ユーリは証言する。
彼は、西の生活を知っている、それがどんなに便利で素晴らしいものかを知っている。
だからこそ、東の者がそれを知ることは、危険であることも、承知していた。
「オイラも、それ、分かる」
ツァガンが腕を組んで、大きくうなずく。
「西は、住みやすかった。ここより寒くない、見たこと無い、食べ物ある」
かつて、仲間と旅をして回った西の国を、町を思い出す。
森や川、湖に、行き交う船があり。町には物が溢れ、人々は着飾り、温かな家で暖を取る。
酒場には食べ物や酒が豊富に並び、皆、笑いながら腹を膨らませていた。
「でも、西はオイラが、いていい場所、じゃない。西は、人間の場所」
「そうだ、西は人間のもの、東は獣人のもの。それは決まっていたはずだ」
定まっていたはずの、世界の規律は、もはや無いも同然であった。
西の人間は欲にまみれ、東へと進む。好奇心と強欲の突き動かすままに。
そして、全てを手に入れることになる。西の国の支配という名の下で。
「西の人間は、本当にわがままなのね、全てを自分のものにしないと、気が済まないのかしら」
エルージュは頬に手を当て、そう言って、ユーリを見る。
「富と栄誉、皆、目先のものが欲しいのです。手に入らないからこそ、尊いものもあるというのに」
彼は目を細めて、その尊きものに微笑みかけた。
絶対に手に入れられない、かけがえのないもの、だから彼はそれを大切に思い続けている。
たとえそれが、報われないとしても。
「あいつら、止めないと」
苦い顔で、ツァガンが言う。
「足止め、でもいい。でも、できれば、山の向こう、押し返す」
「それには、各氏族と連携して、熊の氏族と……」
「だめだ、熊のやつは、協力、しない」
頭を振って、彼は悩んでいた。
「熊の氏族、面子、重んじる。助けられた、とか、すごく嫌がる」
「どうするんだ、個々の戦力では、勝ち目はないぞ」
「だから、困ってる。どうしよう」
熊の氏族は、獣人の中でも自尊心が高く、西の世界と交流を持っていたせいか、面子というのを重要視していた。
そのため、他の獣人と共闘するとなると、絶対に拒否するのだという。
「シャマンの力で、陰から手助けするのは、どうかしら?」
「どう、やって」
「私の力は、テングリの力よ。森に息吹きを与えて、熊の氏族を強くできるわ」
だが、ツァガンは妻の提案にも、首を振っていた。
「ダメだ、それ、気づかれる。あいつら、鼻もきくから」
「困ったわね」
「熊の氏族、押し返すの、祈る、しかない」
たとえ、手助けが成功しても、それが明らかになれば、獣人たちの間に埋められない溝が発生する。
それは、年月と共に大きくなり、いずれは決定的なものになりかねない。
これを防ぐためにも、今は堪える時期だと、ツァガンは考えていた。
「これが、良い結果に繋がれば、いいのだが」
だがそれは、絵空事に過ぎなかった。
数日後。
晴れ渡る青空の下で、ツァガンは息子ヴォルクを連れて、父と草原を歩いていた。
「父さんと、おじいちゃんと、おさんぽ、たのしい!」
「ヴォルク、転ぶなよ」
「うん!」
黄金の狼の息子は、父ツァガンと同じ黄金色の髪を持ち、黄金の耳と黄金の尻尾を忙しなく動かしながら、丈の短い草の中を、走り回る。
短い手足を覆うその衣服は、母エルージュのお手製で、温かな毛皮と毛織物に、様々な刺繍が、色鮮やかな糸で施された、真心の込められたものであった。
そんな元気一杯な姿に、二人は目を細めて微笑んでいた。
「父さん」
遊ぶ息子を見つめながら、ツァガンが口を開く。
「オイラ、西のやつらと、戦う、かもしれない」
彼の言葉に、父は何も答えなかった。
「そうなったら、ヴォルクを、おねがい」
重い、言葉だった。
彼は、村を、家族を守るために、戦火に身を投じようとしていた。
「あの子は、オイラの子。誇り高き、狼の子、だから」
「ツァガン」
息子のその先を遮るように、父は彼の名を呼んだ。
「な、なに」
「死ぬつもりなら、最初から行くんじゃない」
「う……」
図星を指されて、ツァガンはうろたえた。
父は、息子の意志を、容易く見抜いていたのだ。
「生きて帰るつもりで行け、辛気くさい話はお断りだぞ」
「でも、オイラ、自信ない」
「バカ者が、だったら戦いに行かずに、おとなしく死を受け入れろ」
「そ、れは……」
ツァガンの首が、勢いよく左右に振られる。
「できない!オイラ、黙って死ぬなんて、いやだ!」
草原の果てまで届く声が、辺りに響いた。
「オイラ、戦う。西のやつら追い払って、絶対に帰ってくる!」
息子の、その言葉に、父の口角がつり上がる。
「よく言った、それでこそ儂の息子だ」
草原を、柔らかな風が撫で、草が波のように揺らいでいた。
その草をかき分けるように、黄金色の頭が、こちらへと向かって来る。
「父さん、大声だして、どうしたの?」
お尻の尻尾を揺らして、ヴォルクがあどけない顔で、ツァガンを見つめた。
「なんでもない。お前は何も心配しないで、いいからな」
「そうなの?おじいちゃん」
金色の瞳を、くりくりと動かし、幼いヴォルクは頭の耳を動かしていた。
その仕草と、その風貌は、ツァガンの幼少時を思い出させるようで、父は胸を締め付けられる思いがした。
「ああ、そうだ」
祖父の大きな手が、ヴォルクの頭をそっと撫でる。
父の手とも違う、その優しいぬくもりに、小さな狼は照れくさそうに笑っていた。
緑の草原に、狼の親子が三人いる。
彼らの領域は、脅かされつつあった。