6 ねこ
狼の氏族の村。
近頃、この村にちょっとした異変が起きていた。
とはいっても、誰も気にも留めないような、些細なものだ。
干していた肉が無くなった、だの、乾いたばかりの洗濯物が消えた、だの。
偶然と言えば、偶然で片付いてしまう、そんな程度のことだった。
だが、その被害は、とある一家にだけ、集中して起こるようになり、ついには偶然で済ませられない状況までに、事は進みだしていた。
「また、無くなってる」
屋外にある、村の物干し場にて。
そこで、エルージュは、大きなため息をついていた。
時刻は、照りつける陽射しが、少し和らいだ頃だ。
彼女の背に生える白鳥の翼が、傾きだした太陽のせいで、白く輝いていた。
「これで何度目かしらねぇ」
すっかり乾いた洗濯物を取り込みつつ、彼女は愚痴を漏らさざるを得なくなった。
腕の中には、子供たちの衣服と、自分の服があるのだが、ただ一つ足りないものがあったからだ。
力強い太陽の光を、充分に取り込んで、ふわふわになった衣服が、手に握られている。
「仕立てるのも、大変なのに」
急ぎの針仕事がまた増えたなと、彼女は思いつつも、天幕へと重い足を動かした。
空には筋状の雲が流れ、早い秋の到来を、草原に告げていた。
その日の夜。
むすりとした顔で、エルージュは針を進めている。
既に子供たちは眠りについており、彼女は己の仕事を早く終わらせようと、懸命に手を動かしていた。
「エルージュ、どうしたの」
一向に眠りにつかない妻を思って、寝床で横になるツァガンは声をかけた。
「話しかけないで、急いでいるから」
「もう寝ようよ」
「だめよ、あなたの用事なんだから」
夫の言葉にも振り向かず、彼女の目は、手元の生地にやったきりだ。
その白い指には、小さな針があり、細い糸とそれを駆使して、麻の生地は服に仕立てられていく。
「オイラの服は、いいから。寝ないと、明日に響く」
「そうは言いますけどね、替えの服まで無くなったのよ。無いとあなたが困るのよ」
「でも、オイラ、エルージュが心配」
寝床から抜け出して、ツァガンは妻の側へと寄りそった。
「明日は明日で、子供たちの面倒と家事があるし、私の時間は今しかないから」
それでも、彼女はその手を休めようとはしなかった。
近頃続いている、服の紛失事件は、とうとうツァガン一家にまで危害が及んでいた。
それも洗濯して、干してあるものばかりが集中して狙われており、特に上質の毛皮で仕立ててある、ツァガンの服が格好の餌食となっていた。
「急ぐのは、分かる。けど、オイラ」
「もう、邪魔しないで」
妻の手を止めようと、ツァガンの手が、その白い手首を掴んだが。
「あっ」
不意に予想外の力がかかったせいなのか、針はいとも簡単に折れてしまい、その役目を果たさないものと、なってしまった。
「んもう!あなたのせいで、針が折れちゃったじゃない!」
「ご、ごめん」
折れた針を始末し、エルージュは、仕立て途中の生地を片付ける。
その間も、ツァガンはばつが悪いのか、うつむいたままであった。
「エルージュ、その、あの」
「ツァガン」
「な、なに?」
そんな彼に、エルージュは正面に膝をついて、声をかける。
「新しい針、買ってくれる?」
目の前には、怒っているようで、怒っていないようにも見える、愛しい妻の顔がある。
上目遣いに、自分の顔を窺う様子に、ツァガンの顔は、自然とほころんでいた。
「うん、今度、町に行く用事があったら、買ってあげる」
「ありがとう、あなた」
そう言って、彼女の目が静かに閉じられる。
ツァガンはその桃色の唇に、そっと己の口を合わせていた。
翌日、この日は朝から雨だった。
森の中、ユーリは憂鬱そうにため息をつくと、雨よけの羽織を被って、外へと出た。
森の見回りは、彼の日課でもある。
雨に煙る森を、遠くまで見通せるシャマンの眼で隈無く睨み、異常が無いことを確認した。
そのついでに、夏の食材でもある、木苺を採取して回り、彼は再び天幕へと戻った。
「はぁ、大分濡れたな」
水分を吸って、重くなった衣服を干し、燻っているかまどの火を起こそうと、下を向く。
足元には、灰を被せてあるかまどがあった。だが、そこに見慣れないものが、一つあるのに、彼は気がついた。
「うん?」
かまどのそばの、灰色のものが、何やら動いているようだった。
「こんな毛皮、あったか?」
首を傾げながら、ユーリの手がそれに伸びた。
その瞬間だ。
「プッ!」
灰色のそれは、気配を察知したのか、目にも止まらぬ速さで天幕の外へと逃げていた。
「な、なんだ、今のは……」
灰色のものがいた場所は、何かの毛の塊が、ごっそりと落ちていた。
数日後。
降り続いた雨も止み、草原にさわやかな露が残っていた。
ツァガンは、草原の遙か向こうにある、別氏族の町へと使いを出すことにしていた。
使いと言っても、町の様子や情勢を探るのが主な目的で、毛皮の売買や、必要なものの買い付けなどは二の次だ。
使いを見送り、彼は留守を父に任せると、狩り場の森へと足を向けていた。
森の中を、獲物を求めて、ツァガンは息を潜める。
晩夏のこの季節は、生き物も活発に動き回り、早い冬支度をととのえようと、盛んに地上を駆け回る。
はずなのだが、この日は何かが違っていた。
「変だな」
黄金色の頭の耳を動かし、気配を隠してはいるのだが、視界のどこにも、獲物の姿が見えてこない。
それどころか、獲物の気配すらも、この森から消え失せてしまったかのようであった。
「たまには、ユーリの力、借りるかな」
そう言って、ツァガンは森を後にしようと立ち上がる。
「ん?」
だがその時、彼の視界の片隅に、灰色のものが映り込んでいた。
獲物かと思い、慌てて振り向くも既にそれは無く、カサカサと葉の擦れる音だけが、耳に聞こえるのみだ。
「まあ、いいや」
ツァガンが去った後の森で、灰色のそれが、木立の間で揺れていた。
狼の氏族の村。
「ねえちゃーん」
水を運ぶエルージュの元へ、ボローが走り寄って来る。
彼は、頭の耳を忙しなく動かし、おしりの尻尾も危急を告げるように、激しく揺らしている。
「あら、どうしたのボロー」
「ココがおしっこしちゃった」
「もう、今行くから」
こぼさないように水桶を天幕の外に置き、エルージュは娘の様子を見に、中へと入る。
「ココ?」
「かーさまー」
「うええええん」
その途端、聞こえてくるのは、ヴォルクの声と、ココの泣き声だった。
お尻の不快感のせいなのか、ココは大声で泣き喚きつつ、顔を真っ赤にさせて首を振り、ヴォルクは、妹のわめき声に、参ったという顔で座っていた。
「ココ、うるさーい」
「ヴォルク、仕方が無いでしょう、ココは泣くのが仕事なんだから」
両手で頭の耳を押さえるヴォルクを横目に、エルージュはテキパキとおしめを替え、後始末をしていく。
着替えも済み、お尻の不快感もなくなって、すっきりした顔の娘は、途端に泣くのを止めていた。
「ちょっと、下まで汚れているわね、掃除しますか」
娘の寝床に手を入れた、エルージュの顔が、やや渋くなる。
彼女はココを背中に負い、敷布を外へと引っ張り出していた。
「ボロー、ヴォルク、物干し台を広げてちょうだい」
「はーい」
天幕の外にあるのは、折りたたみの物干し台だった。
それを取ろうと、ボローは水瓶の陰を覗き込んだ。
「あれ?」
そこには、先ほど、エルージュが汲んできた水桶に、何かが頭を突っ込んでいるのが見える。
灰色の、ふわふわの毛のそれは、一心不乱に水を飲んでいる様子であった。
「ボロー、物干し台は?」
「あ、今、取る」
そう急かされて、彼はそれを刺激しないように、手を伸ばした。だが。
「ブシャーッ!」
「わあっ!」
灰色のそれは、ボローの腕に鋭く反応したのか、目にも止まらぬ速さで、彼の腕に飛びついた。
「痛い、痛い!ねえちゃーん!」
「ボロー、何かあったの?」
「シャアアッ!」
エルージュの気配を察して、灰色のものは一目散に姿を消し、残されたボローは、痛さと驚きで腰が抜けたまま、目からは涙がこぼれる有様だった。
「わああん、ねえちゃん、痛いよー」
見ると、ボローの腕には、幾筋ものひっかき傷と噛み傷があるではないか。
鋭い刃物で切られたかのような傷口からは、赤い血が、じわりと滲んでいた。
「大変、ボロー、見せてちょうだい」
エルージュは、持っていた敷布を置き、水瓶の水でボローの腕を洗うと、柔らかな癒しの魔法で治療を開始した。
柔らかくも温かい、優しいその感覚に、泣いていた彼も少しは落ち着きを見せていた。
「にーに、ケガしたの?いたいの?」
「そう、痛い痛ーいなのよ、ヴォルク」
エルージュの背後では、ヴォルクが、おっかなびっくりで覗き込んでいる。
母の持つ魔法の力で、ボローの傷が治るのを、不思議そうに眺めつつ、彼は目をぱちくりとさせていた。
「ボロー、一体何にやられたの?」
「わ、分かんない。灰色の、ふわふわ?もこもこ?」
いまいち要領を得ない、子供特有の説明に、エルージュは首を傾げる。
彼の言う、灰色でふわふわしたものなど、この森周辺では、見たことが無い。
もしや地の底の異形の者どもかとも思ったが、それらは森の中でしか姿を現わさないはずだった。
さては、新たな世界の異変なのかと、彼女は考えていた。
「何なのかしらね、凶暴な獣でなければいいのだけど」
そうこうしているうちに、ボローの傷は跡形もなく治り、彼女はほっと一安心とばかりに、胸を撫で下ろしていた。
ボローは痛くないと、尻尾を振って大喜びし、ヴォルクもよかったとニコニコと笑い、エルージュは、放り出した掃除の続きに取りかかる。
そうして、いつもと変わらぬ日々が続いていた。
さらに数日後。
昼を過ぎた頃、草原向こうの町へと出かけていた使いの者がようやっと帰郷して、村は少しだけ活気を見せていた。
必要な物は、族長であるツァガンの見守る中で、各自に与えられ、彼も頼んでおいたそれを、大事に懐へと仕舞い込む。
その後、ツァガンは、父やユーリらと共に周辺情勢の報告を受け、今後についての対策などを、日が落ちるまで男衆と一緒に話し合っていた。
ツァガンの天幕にて。
かまどの上の鍋からは、おいしそうな臭いが立ち上っている。
エルージュは、その鍋をかき回して味見をしつつ、夫の帰りを子供たちと待っていた。
「ねえちゃん、お腹空いたよー」
「とーさま、まだー?」
ぐうぐうと鳴るお腹を撫でつつ、二人は口々に訴える。
「もう少し待っていなさいね、ツァガンが帰ってくるから」
太陽は、地平線の向こうへと沈み、外からは夜を告げる虫の音が、ひっきりなしに聞こえてくる。
日が落ちると共に、草原の冷え込みは厳しくなり、早くも外には、秋の気配が感じられるようになっていた。
「エルージュ、ただいま」
そこに天幕の扉が開かれ、ツァガンが中へと入って来た。
「おかえりなさい、ツァガン」
「今日は、ユーリも、連れてきた」
そう言って、ツァガンは、笑顔で振り向いた。
彼の背後には、赤い髪のユーリが、姿を見せていた。
「失礼致します」
「ユーリさん、いらっしゃい」
「こんばんは、エルージュ様」
笑顔でユーリを歓迎するエルージュに、彼は深く頭を下げて礼をする。
そんな彼の元へと、子供たちが大喜びで走り寄っていた。
「わーい、ユーリだー」
「ユーリ、ユーリ」
腹の空いているのもどこへやら、ボローとヴォルクは、彼が困るのもお構いなしに、まとわり付く。
「こらお前たち、天幕の中は、おとなしくする、言っただろ」
ツァガンが注意をするも、子供たちは上の空だ。
「ねー、ユーリ、ご飯食べていくの?」
「ユーリ、あそぼ、あそぼー」
満面の笑顔で、ユーリ、ユーリ、と、子供たちの興味は、彼へと向く。
そんな子供たちに、彼も少々戸惑うも、なんとか静めようと苦心していた。
「まてまて、落ち着け、二人とも」
「ボロー、ヴォルク、ユーリさんが困っているでしょう、座りなさい」
エルージュが強めに咎めると、二人は渋々、元の場所へと戻った。
「ごめんなさいね、この子たちったら、言うことを聞かなくて」
「いえ、子供はこれぐらいでいいのです。元気がありますから」
そう言い、ユーリは子供たちと、エルージュを眩しそうに見つめた。
目線の先には憧れの女の、幸せそうな笑顔がある。それだけで、彼の心は温かさで満ちあふれるようであった。
「ユーリ、今日はウチで、メシ食って、ついでに泊まっていけ」
腰を落ち着けるなり、ツァガンがそう提案すると、子供たちの目が、一斉に輝きを見せる。
「えっ、ユーリ、泊まるのか?」
ボローの、嬉しそうな声がした。
だが、当のユーリは困り顔で、ボローやエルージュをチラチラと見やる。
「しかし、エルージュ様に、許可を……」
「ね、エルージュ、いいよね?」
そんな夫の頼み事に、彼女は娘のココの様子を窺いながら、返答した。
「うーん、夜泣きが、あるかもしれないけれど、それでも良ければ」
それを聞いたツァガンが、笑顔を見せる。
「ユーリ、遠慮、するな」
「では、お言葉に甘えて、一晩泊まらせていただきます」
一段と賑やかな声が、天幕を埋め尽くしていた。
夜も更け、村の中も静まりかえる時刻。
寝床には、子供たちの姿と、かまどには、火の番をするエルージュがいた。
ツァガンは、ユーリに毛皮を貸そうと、寝床をまさぐっていたが。
「あれ?なんだこれ」
そこには、いつも使っている毛皮と違い、見慣れない灰色の毛皮が寝床に乗っていた。
その毛皮に触れようかという瞬間、毛皮がもぞり、と動いた。
「シャーッ!」
「おっと」
飛びかかるそれを、あっさりと捕まえ、彼はそれをまじまじと眺める。
「ツァガン、そいつ、何日か前に、私が見たやつだ」
と、ユーリが驚けば。
「あーっ、こいつ!俺、こいつにやられた!」
と、ボローもそれを指さし、エルージュに訴える。
「ツァガン、それは何なの?」
子供たちを、背中の翼で覆い隠し、エルージュもあからさまな警戒心を見せていた。
めいめいが驚き、指を差し、それを睨む中、ツァガンは別段、驚くでもなく口を開く。
「これ、猫だ」
「サイベリアン?」
皆が目を丸くさせる中、猫と呼ばれたそれは、ゆっくりと尻尾を振った。
灰色の長い毛に、犬のような大きめの体格と、まん丸の丸い目が特徴的だった。
猫は小さく、にゃあとだけ、鳴いていた。
「こいつ、オイラたちと違って、氏族を持たない獣」
寝床の毛皮を引っ張り出し、ツァガンは毛皮の上に猫を優しく座らせた。
「猫は、自分が一番、思ってるから、人間になんか、力は貸さない」
彼が言うには、東方世界に獣を祖霊とする氏族は、数多くあれど、猫を祖霊とする氏族は、ただ一人もいないとのこと。
猫は気ままに暮らし、森の奥深くに住んでいるため、人と触れ合う機会など、滅多にないらしい。
そして、余りの気位の高さ故に、人を助けるということは、絶対にないという事だった。
「エルージュ、余ってる肉、ちょうだい」
器に肉を盛り、それを静かに猫の側へと置いてやる。
「猫は、構われるのが、キライ。そっとしておこう」
細かく震える猫を眺め、ツァガンは人差し指を、口の前で立てて見せた。
「猫か、しかし随分と毛の長いのも、いるもんだ」
赤い髪を掻き上げて、ユーリも猫を珍しそうに見つめる。
「こっちの世界、寒いからな」
そう言いつつ、ツァガンの手が、懐をまさぐっていた。
「エルージュ、ちょっと、来て」
妻を手招きし、彼は嬉しそうに、それを彼女の手に握らせた。
「この前の、約束。オイラから、エルージュに」
「これって……」
手には小さな毛織物の入れ物が乗っている。その中をちらりと見て、彼女の顔から満面の笑みがこぼれた。
「ありがとう、ツァガン!」
「えへへ」
ユーリのいる手前、エルージュは抱きつくことはせずに、控えめに喜びを表す。
そんな彼女の笑顔に、ツァガンは照れくさそうに頭を掻き、それを見ていたユーリも、嬉しそうに微笑む。
縫い針は、とても貴重な品だ。
極寒のこの世界で、それは道具として発明され、人は針を手にして、様々な衣服や天幕の外套などを繕ってきた。
男は外で狩りに励み、女は針で服を仕立てる。
それが、古代から続く、世界の日常であった。
喜ぶ妻に微笑みかけて、ツァガンは天幕のかまどに灰を被せる。
皆が寝静まった村内で、彼らもまた、眠りにつこうとしていた。
翌朝。
草原の朝は、冬へと向かう時期特有の、白い靄に包まれていた。
そんな彼らの天幕の前には、毛皮の服が、山と積まれていた。
「にゃーん」
服の向こうには、昨夜の灰色猫がいる。
彼は、ツァガンらに一鳴きすると、足取りも軽く、森へと走って行った。
「ツァガン、これ、あなたの服よ」
上質の毛皮の服の表面には、灰色の毛が大量に付着している。
「返すって」
「どういう事だ?」
ユーリが、猫の消えた方角を見る。
靄にかすむ森の奥からは、人を寄せ付けない、冷たく険しい空気が渦を巻いていた。
ツァガンの耳が、遠くで鳴いている、猫の声を聞き分けている。
「急に寒くなったから、借りていた、だけだって」
「そうだったの」
服についた毛をつまみ上げて、エルージュも寂しそうに森を見つめる。
「また、来るのかしら」
「もう、来ないよ」
己の服を拾い上げて、ツァガンはバサバサと毛を落とす。
「だって、猫だもん」
遠くで、微かな鳴き声が、していた。