5 目覚めの季節
森の中。
東方の樹林地帯は、春を迎えたばかりだ。
朝晩の冷え込みは、未だ残るが、陽が差してからの昼間の気温は、日ごとに高くなり、人や獣が、活発に動き出す季節になった。
雪の下からは、緑の萌芽が顔を出し、白一色だった景色に彩りを添える。
頭上の枝葉からは、雪解けの水滴が、ひっきりなしに落ち始め、雲もないのに、雨が降っているかのような錯覚を、引き起こすようであった。
そんな幻想的な森を、一人の男が歩いていた。
男は、特徴的な赤い髪を靡かせて、シャマンの眼で、遥か遠くを睨み付ける。
彼の目線の先には、どこまでも深い森林だけが見える。
だが、その眼は、さらに遠くを見透かしていた。
「動きはない、ようだな」
そう言って、彼は静かに眼を閉じる。
森の中に、したたる水の音と、滑り落ちる雪の音だけが、時折響いていた。
森の中の天幕にて。
その中で、一人の男の子が、小さな寝息を立てていた。
春先は眠気が強いのか、彼は気持ちよさそうな顔で、夢の世界をまどろんでいる。
しかし、突如漂い始めた匂いに、その鼻が動き、次いで瞼が重たげに開きはじめていた。
「起きたか」
男の子の目前では、赤毛の男が、かまどの上の鍋を、突いている最中であった。
「……ユーリ?」
眠い目を擦り、男の子は赤毛の男を、そう呼んだ。
「寝ぼけているのか、ボロー」
ユーリと呼ばれた男は、怪訝な顔でボローの顔を見やる。
ボローの頭頂部には、灰色の耳と、臀部に尻尾がある。
彼は狼ではなく、犬の氏族であった。
怯えたような表情の彼は、ユーリの顔を見て安心したのか、不意に涙を流していた。
「どうしたんだ、なぜ泣く」
「ユーリ、ユーリ!」
己に抱きつくボローに、ユーリは驚く事無く、優しく頭を撫でてやる。
「ボロー、怖い夢でも見たのか?」
「うわああああん、ユーリぃぃ」
「落ち着け、私はここにいる。怖い夢はもうやって来ない」
大泣きのボローを抱き、彼は温かな腕で小さな身体を抱きしめた。
「夢っ、怖い、怖いよっ」
「安心しろ、今が現実だ。お前は目覚めた、夢は消え失せた」
「お、俺、村が無くなる夢、見た。西の奴らが、やって来て、ツァガンも、ねえちゃんも、ユーリも、みんな、みんな、いなくなる、夢、見た」
「そんなのはまやかしだ。現に私はここにいる、ツァガンも、エルージュ様も、お前を置いていなくなる訳がない」
不安な子供の夢を打ち払うように、ユーリは自身の言葉で、彼にまとわりつく見えないもやを取り除いてやる。
すると、彼の言葉に安心したのか、ボローはしゃくり上げていた息を落ち着かせ、眠そうな二重の瞼を擦り、しばしばと目を瞬かせていた。
「さあ、顔を洗って来い。目が覚めたら食事にしよう」
そう言ってユーリは、水桶に入った雪を、魔法で瞬時に水へと変える。
ボローはそれを笑顔で受け取っていた。
「ふわーあ」
食事を終えた後、ボローはまたも大きなあくびをしていた。
「なんだ、まだ眠いのか?」
「うん」
毛皮の貼られた、小さな天幕内には、天井に設けられた窓より、明るい陽射しが内部に入り込んでいた。
「じゃあ、お前はここで寝ていろ。私は少し出かけてくる」
「えっ、ユーリ、どこに行くんだ」
「ツァガンのところだ」
立ち上がろうとしたユーリの服を、ボローの小さな手が、しっかりと掴む。
怖い夢を引きずっているのか、その顔は泣きそうなようにも、見受けられた。
「置いて行かないで」
ひとりぼっちの恐怖から逃れたいのか、彼はそうつぶやく。
「一緒に、行くか」
「うん」
ボローの尻尾が、嬉しそうに左右に振られていた。
狼の氏族の村。
村内でも一番大きな天幕の扉を、ユーリは叩いていた。
「失礼します」
形だけではあるが、彼は挨拶し、天幕内へと入る。
「あっ、じいちゃん」
「ボローか、おはよう」
「おはよう、じいちゃん」
しかし、中にいたのは、族長のツァガンではなく、先代のツァガンの父と孫のヴォルクの姿だけだ。
ボローは嬉しそうに、彼らに駆け寄っていくが、ユーリは少しだけ困った顔で佇んでいた。
「先代様、ツァガンはどこにいますか?」
「息子なら、まだ起きてこない。用件ならば、儂が代わりに聞こう」
先代の言葉に、ユーリは少しだけ思案し、彼へと見回りの報告をする。
何やら小難しい事を話し合う大人に、子供二人は退屈そうだなという顔をしていた。
「にーに、あそぼ」
「うん」
ボローはヴォルクの金色の頭を、少し乱暴に撫でまわすと、そのまま彼の耳をこちょこちょとくすぐった。
「やーだ、くすぐったーい」
「ヴォルクいいなあ、俺より耳が大きいもんなあ」
嫌と口では言いながらも、ヴォルクの尻尾は、ぱたぱたと嬉しそうに揺れる。
その尻尾も、頭と同じく、金色の艶のいい毛並みで覆われており、それはツァガンの息子であるのを、誇示するかのように、元気に動いていた。
「なあ、ヴォルク」
「なあに?」
「ツァガン、何してる?」
ボローの問いに、ヴォルクは両手を合わせて、己の頬へと当てる仕草をする。
「とーさま、ねんねしてる」
「寝てる?」
「うん、あかちゃんと、いっしょ」
彼の言う赤ちゃんとは、一月ほど前に産まれたばかりの、彼の妹の事である。
ただ、夜泣きがヴォルクよりも酷いらしく、ツァガンは常々寝不足に陥っており、絶好の狩り日和だという、今日の陽気ですら、出て来られない有様になっていた。
「起こしに行こうか、ヴォルク」
「とーさま、おこすの?」
「うん、ねぼすけのツァガン、俺らで起こせば、ねえちゃん喜ぶぞ」
「おこすー」
ボローは、ヴォルクの手を取り、小走りに表へと向かう。
「どこへ行く、二人とも」
脇を通り過ぎるその様子に、ユーリは目ざとく声をかけた。
「外で、遊んでくる」
「あまり遠くへ行くんじゃないぞ。大人のいるところで遊んでいろ」
「はーい」
楽しそうな、子供たちの声は、そのまま外へと続いて行った。
「子供は、無邪気だな」
「いやはや、そうですね」
「あの子たちのためにも、今の状態を維持出来ればよいな」
先代の言葉に、ユーリは黙ってうなずいていた。
村内にある、ツァガンの天幕では、妻のエルージュが授乳をしている最中であった。
「おいしい?ココ」
ココと呼びかけた腕の中の赤ん坊は、今日も元気よく母乳を飲んでいた。
「この子も、きれいな金色の髪」
そう言って、エルージュは赤ん坊のふわふわの髪を眺める。
赤ん坊の頭には黄金の耳と、臀部にも、黄金の尻尾が生えている。
二人目の子供も、父と同じ狼の特徴を、その身に色濃く受け継いでいた。
「ツァガン、そっくりね」
彼女の目が、我が子から、目の前に座る男に向けられる。
二人は見つめ合い、お互いに微笑み合っていた。
「でも、オイラにそっくりって、ココは女の子なのに、かわいそう」
「あら、どうして?」
「オイラより、エルージュに似た方が、かわいいと思うんだけど」
満腹のココの背中を軽く叩き、エルージュは夫の言葉に不思議な顔をして見せた。
「女の子は、男親に似ちゃだめだ。オイラにそっくりじゃ、美人になれない」
丸々としている娘の姿に、ツァガンは少しだけ不服そうな目を向ける。
目線の先では、父の言葉もどこへやらと、ココの尻尾が、ゆっくりと揺れていた。
「あなたに似ていても、私はいいと思うけれど」
「だめだよ、オイラはエルージュに似て欲しいんだ。エルージュは世界で一番キレイなんだから」
妻ににじり寄りつつ、彼はエルージュの白い手を取る。
「オイラ、女の子欲しいって思ってたけど、本当は黒髪の女の子が欲しかったんだ。君と同じ、黒髪の白い翼の女の子」
ツァガンの金色の眼が、妻の瞳の向こうへと語りかける。
彼の望みは、エルージュと同じ姿の子を作ることだった。
彼女は、世界で一番美しい女だと、彼は思うからこそ、その美貌を受け継いで欲しいとも願っていた。
そして、いずれはシャマンとして、村を支える者として、成長して欲しいと望んでいた。
しかし、現実はそう甘くは無かった。
産まれた子供は、二人ともツァガンの色濃い、狼の氏族の形質だった。
魔法など、全く使えない、シャマンの素質もない、いたって普通の子供であったのだ。
「ねえ、エルージュ。今度こそ黒髪の子供、作ろう」
ツァガンの唇が、彼女の唇に覆い被さる。
「オイラ、がんばるから」
すっかり眠ってしまった娘を、傍らに寝かせ、ツァガンは妻を押し倒す。
「だ、だめよ、私、お産したばかりで」
彼女の制止も耳に入らないのか、彼はエルージュの服を剥き、露わになった胸へと貪りついていた。
「だめってば、ツァガンっ」
「んん、甘い」
息を荒らげて、彼は妻の乳房に口を付けていた。
「いやっ、そんなに、吸わないでっ」
あまりの激しさに、エルージュは、喘ぎつつも悶える。
だが、その身体に火が付こうとした時、思いがけない声が聞こえる。
「ツァガン、ねえちゃんに何しているんだ?」
「えっ」
目の前には、不思議な顔で二人を見つめる、ボローとヴォルクの姿があった。
族長の大きな天幕の扉が勢いよく開け放たれて、ユーリたちは驚いた。
「はあ、はあ、と、父さん」
「どうした、ツァガン」
そこにいたのはツァガンで、何故か顔を真っ赤にさせている。
彼の両腕にはボローとヴォルクを抱えており、その息は大いに乱れていた。
「子供たち、ちゃんと見てて、外に出さないで」
父に二人を押しつけると、ツァガンはユーリに目もくれずに、再び表へと向かう。
「それと、しばらく、オイラの天幕、近寄らないで、欲しい」
一方的に、そう言い残し、彼は妻の待つ天幕へと、大急ぎで戻って行った。
その様子に、ユーリは呆気にとられ、先代はただ苦笑いをするのみ。
「何だったんだ、一体」
ユーリの疑問に、子供たちが口を開いていた。
「ツァガン、赤ちゃんと同じことしてた」
「はあ?」
「とーさま、かーさまのおっぱい、ちゅっちゅするの」
きょとんとした顔のボローとヴォルクに、先代は吹き出していた。
「はっはっは、いや、すまないな、ユーリくん」
「え、あの、先代様、これはつまり」
「悪い、そういうことなのだ。儂としても、止める理由がないからな」
そう言い、笑い続ける様子に、ユーリは困り顔で頭を掻いていた。
日が西に傾き始めた時刻。
村内を歩きながら、ユーリは人々の動きを眺めていた。
視線の先には、西の者が、獣人と呼び、蔑む対象の者たちがいる。
だが、彼らの生活は、西の人間と変わらない。違うとすれば、耳や尻尾といった、獣由来の見かけだけだ。
ここは、自然厳しい大地である。
獣の庇護無くしては、容易に死ぬ危険が常につきまとう、過酷な土地なのだ。
彼らの姿は、生きるために必要なものといえ、西の者は、その姿ゆえに迫害をし続けていた。
人間ではない、獣に近い異教徒だから、と。
ユーリも、最初はその考えであった。
彼はシャマンであるが、その前に、西の人間でもあった。
獣人は穢れた者であり、この世界で最も卑しき、人にあらざる者として、言い聞かされていた。
だがその考えは、彼らと共に暮らすことで、簡単に覆された。
彼らは、生きるためにこの姿でいるのだと。
自然を敬い、怖れ、生き抜くには、必要不可欠なのだと、彼に流れる鷲の血が、本能に呼びかけていた。
「この村は、居心地がいい」
思わず、言葉が出る。
「キタイ・ゴロドでは、味わえなかった、世界だ」
師匠、そして弟弟子と共に暮らした町を思い出し、ユーリは感慨にふける。
木造の家々に、道は板で舗装され、広場の向こうには、大きな聖堂が雪景色に霞む。
酒場では、旅の芸人が、楽器を奏でて、口承叙事詩を語り上げる。
楽しき日々だが、それは、恐怖の日常の裏返しでもあった。
皇帝の恐怖政治は度を超し、権力を威に着た親衛隊が方々で暴れ回り、民衆はお上の機嫌を損ねないよう、息を潜めて生活せざるを得なかった。
拷問や処刑が行われているという、宮殿の一角では、毎日のように、悲鳴が響き渡り、それが、皇帝のねじくれた精神を、喜ばせる見世物として行われているのだと、噂されていた。
そんな町での生活は、おおよそ生きているとは言えないものであった。
人々は、皇帝の気まぐれで生きているに過ぎなかった。
「私には、この世界が合っているのかもな」
自嘲気味に、ユーリは呟いた。
「ユーリ」
背後からの声に、彼は振り向く。
「さっきは悪い。その、オイラ」
「気にするな、お前には、お前の役目がある」
そう行って、彼は羨ましげに、ツァガンを見つめる。
「仲が良いのは、喜ばしいことだ。その調子でヴォルクに弟妹を作ってやれ」
「あ、えっ、ユ、ユーリ?」
「子孫繁栄は、全てのシャマンの願いだ。死にゆく命より、産まれる命の方が、私としても嬉しいからな」
戸惑う顔のツァガンに、彼は笑いかけていた。
「産まれる、命」
「そうだ、命を奪うのは容易いが、命を産むのは大変なことなのだ」
二人の背後では、どこかの天幕から、赤ん坊の泣き声が聞こえている。
それは、この大地に産み落とされた、小さな命が、懸命に生きようとする、本能の声でもあった。
「族長の勤めと、父親の勤めは大変だろう。西の件は私に任せてくれ、誰であろうと、村への接近は許さない」
力強い言葉と共に、ユーリは一つ太鼓を叩く。
彼が何かを言い、太鼓を叩くのは、心からの言葉の表れだった。
約束を違えないという、戒めの意味合いを含んでもいた。
その彼に、ツァガンは大きくうなずき、黙って右手を差し出す。
「ありがとう、ユーリ」
「ああ」
ユーリは力強く、その手に返答していた。
草原から吹いて来る風は暖かく、日中の陽気も相まって、雪解けはさらに進む。
東の世界に、何度目かの春が、訪れていた。