10 グローズヌィ
季節は秋も半ばを過ぎた。
気温は、日に日に下がる。葉の落ちない針葉樹には、朝晩、白いものが目立つようになった。
東方世界の、大樹林地帯を流れる川は、未だ完全結氷までいかないものの、流入する水の量は徐々に減少の一途を辿り、夏場に比べると、水際の線もかなり後退していた。
その川の側に、一つの町がある。早朝は白いもやが一面に漂い、数歩先ですら見渡せないほどの濃霧と化すことが多い。
霧は、川から流れてくる。夜の間に冷えた空気と、流れる川の温度差で霧が発生し、それは水面を滑り、風に吹かれて周囲の森や町までを飲み込む白い蛇になる。
西の者が攻め落とした、熊の氏族の町を、ツァガンら獣人たちは、再び取り戻したのだが、如何せん少数での防衛は困難を伴い、町は幾度も奪い奪われを繰り返した。
そして今現在、町は獣人たちのものとなってはいたが、ここを包む空気に、緊張が走っていた。
夜が明けたあたりから、獣人たちは何者かの気配で、目覚めていた。
カラスの老シャマンは、囲まれたとだけ言い、皆を表に出るよう促し、獣人らもそれに従って外へと移動した。
外は、秋の早朝特有の、濃い霧が立ちこめていた。
「何か、分かるか?」
一寸先も見えない霧が、ツァガンとユーリ、二人の周囲を覆っている。
ツァガンの鼻は、何か嗅ぎつけたらしく、しきりに動いている。
「香ばしい、匂い、するな」
「火薬だな、銃部隊を投入してきたか」
ユーリの声が、苛立ちを隠せない。
「人数がよく分からん、だが、奴らも面子が掛かっている。相当数がいると見ていいだろう」
すぐ側で、虎の男の声がした。
「この霧が、晴れた時、攻撃が始まるぞ」
ユーリは、静かに太鼓を構えた。
天にある太陽は、ゆっくりと上昇を始めていた。
日の光に照らされて、霧が薄まりだした。
すかさずユーリが、周囲の様子に目を行き渡らせた。
「多すぎる!」
彼は、叫んだ。
「銃部隊だけで、三百近い!一介の私兵に過ぎない開拓兵が、なぜ……」
ユーリの頬を、何かがかすめた。鋭く甲高い音のそれは、一直線に霧の向こうから、飛んできていた。
「くそっ!どういうことだ!」
炎が、ユーリの全身から吹き出た。
うねる火は、霧を押しのけ、飛んできたそれがいるであろう場所までを、切り開く。
「あれ、あの時も、見たやつだ!」
ツァガンの双眸が、見開かれた。
町に押し寄せる、開拓兵の中に、見覚えのある旗があった。
赤地に、馬に跨がった騎士の紋様が特徴的なそれは、大山脈の向こうにある国、モスクワ大公国の印だ。
「ユーリっ、あの、旗!」
「モスクワだ。とすると、銃部隊は正規軍だぞ!」
彼らは、知らなかった。
東の世界に侵入した者たちは、皆、とある大地主の所有する開拓兵ばかりであった。
だが、この大地主、ただの地主ではなく、製塩業に、毛皮交易、盗賊業と、多彩な職種に関連しており、その力はモスクワ大公国も一目置くほどの力を持つ。
その地主が、毛皮欲しさに大山脈を越え、東の世界に来たのはいいものの、獣人たちの抵抗に足踏みを強いられ、皇帝に援軍の訴状を送っていたのだ。
これを由々しき事態と見たモスクワは、最新の銃を装備した三百からなる部隊を編成し、開拓兵が切り開いた道を通って、東の世界に派遣したのだった。
獣人は根絶やしにしろ。との皇帝命令を携えて。
「狼の、我らも応戦しよう!」
虎と、オオジカの男たちが、駆け出した。
「ユーリ、オイラ、あいつら、倒す!」
ツァガンも、走り出した。
「無理はするな!危険だったらすぐに逃げろ!」
「分かった!」
獣人たちの姿が、霧の向こうに煙る。
矢の飛ぶ音と、鉛玉の空気を切り裂く音が、立て続けに響いた。
彼我の得物の音には、かなりの差がある。勢いだけで見れば、銃に軍配が上がるのは当然の事だ。
だが、連射は出来ない。
一発撃った後には、必ず無音の時がある。
その隙を狙って、彼らは走ったのだ。
カラスの老シャマンが、太鼓を叩いた。
圧縮された空気の泡が、モスクワ兵の頭部を覆い、その両耳から血が吹き出た。
ユーリの炎は、飛び交う鉛玉を溶かし、開拓兵を火だるまにしていく。
「奴ら、森から出てこないつもりだな」
針葉樹にその身を隠した兵たちは、なかなか動こうとはしなかった。
障害物の多い森では、ユーリや老シャマン、そして虎の弓矢は酷く扱いが悪い。
立ち並ぶ木々が、人を守る。矢の行く手を阻み、狙いを外させるからだ。
果敢にも、ツァガンはそのただ中へと突っ込んでいった。
黄金の煌めきが、森を駆ける。一筋の輝きが、下生えの少ない木立の合間を通り過ぎると、開拓兵のもの言わぬ身体が、横たわる。
斧を構えた兵が一人、突っ込んできた。
ツァガンはそれに気を取られ、兵の向こうに何が見えているか、確かめようともしなかった。
閃光が、走った。
ユーリがその音に気が付いたのは、町のはずれで戦っている時だった。
乾いたような破裂音が複数と、悲鳴が聞こえ。次いで仕留めたという歓声が、耳に入った。
「やったぞ、獣人を一人、殺したぞ!」
声のした方角を、見る。霧の晴れた木立の合間に、誰か倒れているのが見える。
「しっかりしろ!」
虎の男が走り、倒れた人物を引き起こした。
それを見たユーリの身体が、強張った。
「鷲の!いるか、来てくれ!狼がやられた!」
助けを求める、悲痛な叫びが、森を貫く。
「馬鹿な、有り得ない!」
ユーリは動いた。冷や汗が、頭と背中から吹き出たのを感じていた。
ツァガンには、エルージュの術が、強力にかけられているはずだと、思い返した。
太初のシャマンである彼女の、純粋な願いから紡ぎ出された、心から愛する男を守りたいという祈りの術が。
それがありながら、何が起きているのか。ユーリの頭が混乱した。
虎の男が、それを抱えて、下がっている。
黄金の髪の狼は、虎の男に抱きかかえられたまま、微動だにしない。
「ツァガン!」
尻尾が、だらりと力なく垂れていた。
ツァガンが、衣服をはだけて横たわっている。
顔色は蒼白で、表情は苦痛に歪んだままだ。
口からは、鮮血が泡と共に吹き出でて、その原因であろう腹部からは、夥しい量の血が。肩口からも大量の血が流れていた。
息が荒い。小刻みな呼吸は、彼の命に危機が迫っているのを、如実に表わしていた。
上下する腹の動きに合わせて、真っ赤な血が、止まること無く溢れている。
戦場を離脱し、町からも遠ざかった森の中で、獣人たちは心配気に、ツァガンを見守っていた。
「ツァガン、気をしっかり持て」
ユーリの両腕が、ほのかに光った。
片手が、血で汚れる腹に触れた。その途端、ツァガンの額に汗が噴き出た。歯を食いしばり、顔は必死で痛みに耐えている形相であった。
「う、ううっ、うぅーっ」
「ガマンしろ、お前の腹の中に、鉛玉が入っている。それを取り除かないと治療が出来ないんだ」
ユーリの額にも、粘い汗が光る。
あてがった手は、すぐに真っ赤な色に染まった。破けた腹の傷に、彼の意識が集中していた。
「ユーリさん、僕もお手伝いします」
虎の少年シャマンが、申し出た。
だが、ユーリは黙って首を振った。
「必要ない、こいつは私が治す」
「でも、すごい苦しそうですが……」
「私は、治療の術が不得手なだけだ。痛みが伴うものしか、出来ないのでな」
彼は、そう言って苦笑いをした。
――ヴァシリーなら、この程度の傷、すぐに治せていたな。
急に弟の顔が、思い出された。
シャマンとしても、優れた才能を持っていた彼は、人を癒やす事に長けていた。
火の術に精通している自分とは、正反対の力を持つヴァシリー。
内向きの力は、なんとも頼りないと、ユーリは常々思っていた。
だが、実際はそうではなかった。
人を癒やす力は、人を支える力だった。頼りない細木ではなく、全てを支える巨木のような存在だったのだ。
そう考えれば考えるほどに、ヴァシリーの能力が失われたのは、むごい運命だと感じた。
「う、う、エ、エルー……ジュ……」
ツァガンが、うわごとめいた言葉を放った。
薄れゆく意識の中で、彼は遠く離れた最愛の妻の名を、呼び続ける。
――それにしても、何故、エルージュ様の守りが消えたのだ?
ユーリの頭に、疑問が湧いた。
彼女は村を発つ際に、災いを避けるお守りだと言って、ツァガンと口づけを交わした。
そして、大きな腹を撫でながらこうも言っていた。
――この子が産まれるまでには、戻って来られるといいわね。
その時の、彼女の翳りのある笑顔が、ユーリの心に焼き付いていた。
――まてよ。
災い避けの術をかけながら、早く戻って来いと、急かすような言い方。
それは、お産を控えた女特有の、不安な心のせいだと思われた。
――そういえば、少し前に、羽根飾りが反応していたな。
ツァガンとユーリの胸にある、エルージュの白い羽根は、彼女と密接に連動することを、二人とも知っている。
彼女が何かを伝えたい時や、危険が迫っている時など、そしてお産の時にも。羽根はまるで訴えているかのように、チリチリと細かく動いていた。
その反応は、確かに起きた。
だが、あれから、羽根は反応していない。
半日近く、羽根は動き、その後は沈黙を続けている。
――これは、それのせいなのか?
ツァガンの呻きが、激しくなった。
痛みに苛まれたのだろうか、無意識に腕が腹に伸びている。
虎の少年シャマンは、慌ててツァガンの腕を押さえた。
「た、たす、け……、エ、ルー……」
腹の中で、何かがぐるぐると動いている。腹痛の時にある、はらわたがうねる感触とは違う、腹の中で蛇がのたうち、かき回される、嫌なものだ。
激痛と気色悪さに、ツァガンの双眸が、白目を剥いた。脂汗が全身を覆う。
破けた傷口から、硬いものが顔を覗かせた瞬間、彼の身体は大きく仰け反り、そのまま動きを止めた。
狼の村。
族長ツァガンの天幕で、エルージュは子供たちと共に、その留守を預かっていた。
「ねえちゃん、水汲んできたよ」
一仕事を終え、少し背の伸びたボローが、天幕内に入ってきた。
「ありがとう、ボロー」
エルージュは、腕に産まれたばかりの赤子を抱いて、笑顔で彼を労う。
背中に、大きな白鳥の翼を持つ彼女は、赤子が寒くないようにと、その翼で腕ごと子供を包んでいた。
「母さん、おしめ干してきた」
「ヴォルクもありがとう、すっかりお兄ちゃんらしくなったわね」
「だって、母さんは赤ちゃんの世話があるもの。父さんがいないぶん、僕たちもお手伝いしなきゃ」
父ツァガンと同じ容姿の息子は、黄金の尻尾を揺らして笑っていた。
「にーたん」
「ココ、おいで」
ヴォルクに抱きかかえられるココの姿も、また父と同じものであった。
黄金の髪に、狼の耳と尻尾は、母エルージュの抱く子供も、同様だった。
「ねえちゃん、名前、決めた?」
ボローが、赤子の顔を覗き込んで言った。
「ええ、ノールという名前にしようと、思うの」
「ノールかあ、いい響きの名前だね」
「本当はね、ツァガンに決めて欲しかったのだけど、まだ帰って来ないから」
「……そうだね」
何かあったのだろうかと、二人の顔が少し暗くなった。
――たすけて。
「でも、もうすぐ帰ってくるよ。ツァガンは強いもん」
頭によぎった不安を打ち消すように、ボローはそう言った。
「赤ちゃん、女の子だって聞いたら、どんな顔するんだろう」
「ヴォルクやココの時と一緒よ、鼻水出して大泣きするわ」
「だよね」
獣人は、感情が高ぶった時、その表現を素直に表へと出す。
嬉しいことや悲しいこと、涙と鼻水は、誰憚る事なく、豪快に流すのを良しとする。
上二人の子が産まれた時の、ツァガンの表現は、それはそれは見ものでもあった。
「ね、ノール」
母の腕で眠る赤子は、楽しい夢でも見ているのか、その寝顔も安らかなものだった。
――たすけて。
――だれか、だれか、くるしい。
不意に、エルージュは天幕のてっぺんにある、排煙用の窓を見つめていた。
「ねえちゃん、どうしたの?」
それに気づいたボローが、声をかける。
「何でもないわ」
――たすけて。
エルージュは、笑顔でそう答えるも、耳朶に声は残ったままであった。
ここではないどこかの、地の涯て遠くから、助けを求める祈りが、聞こえてくる。
それは、太陽の沈む、西の向こうから。
カラスの老シャマンが、森の中で天を見上げていた。
針のように細く、密集する枝葉の間に、白鳥の飛ぶ姿が見える。
白鳥は、南へと飛んでいく。厳冬の寒さから逃れようと、白い鳥は暖かい南の地域へと渡りを開始する、のだが。
「西に飛んだ白鳥が、いる」
老シャマンは、無意識に膝をついた。
「冬支度が始まった。白鳥は南へ渡る。空高く、天目指して、白鳥は飛ぶ。だが、一羽だけ、西に向かった。黄金の雛を置いたまま――」
口から、祈りの言葉とも取れるものが、こぼれていた。
老シャマンの双眸は、天を見据えたきり、動かない。
大山脈の西側にある、モスクワ大公国。
その首都の、モスクワの宮殿で、一つの人影が床を這っていた。
よく磨き上げられ、内装さえも映り込む石床に、しわだらけの老人の顔が見えていた。
老人の、落ち窪んだ双眸に、涙が滲む。痩せこけた頬や顎には、白い山羊のようなヒゲが生えている。
老人は、一抱えもある、豪奢な飾りのある木箱を抱いていた。
定まらない目線が、宙空を彷徨っている。だらしなく空いた口の端から、よだれが垂れ落ちた。
「ひ、あっ、あ、あぁーっ!」
老人が叫んだ。何を見たのだろうか、顔色が蒼白だ。
抱いていた木箱を、慌てて開ける。中には、色とりどりの磨き上げられた宝石が、大量に詰まっていた。
老人の震える手が、宝石をわしづかみにし、そのまま自身の頬に、それを押しつけた。
「息子よ、息子……、許して、くれ」
指の隙間から、宝石が次々に落ちた。
だが、老人は再び宝石を掴むと、またも頬に押しつける。
それを、幾度も幾度も、老人は繰り返した。
この行為は、老人にとって意味があるものだった。
高価な宝石を皮膚に触れさせると、病に反応して変色する。その変化した色彩で病がどのようなものであるか、知ることが出来ると、彼は思い込んでいた。
だが、宝石は色味を変化などさせない。冷たく、氷のように輝くだけだ。
そうして、何度目だろうか。ふと老人は、宝石を掴もうとした己の手を見た。
手の平には、真っ赤な血が、べっとりと付着していた。
「ぎゃああーっ!」
絶叫が、響いた。老人の身体が、背骨が折れんばかりに、仰け反っている。
箱の中の宝石が、一斉に老人を睨んだ。
部屋の明かりに照らされて、反射した光が老人目がけて突き刺さる。
「ああああ!たす、助けてくれ!息子よ、誰か!」
明らかに異常な叫びだが、駆けつける者は、一人としていない。
老人の手には、血など付いてはいない。宝石たちも、目などあるわけがない。
宮殿にいる者らは、皆知っていた。
この老人が、狂っている事を。
「助けてくれーっ、誰か!誰かぁーっ!」
老人の身体が、絨毯の上を転げ回った。毛皮の衣服が汚れようとも、お構いなしに転げている。
絨毯には、染みがいくつもあった。異臭を放つそれは、失禁した跡だった。
「あぁ、うあ、たす、けて、たす……」
虚ろな目が、開いたままの窓に注視した。
外は、漆黒の闇が広がっている。日が落ち、長い夜の時間が、この国を支配している。
月明かりはない。厚い雲に覆われた天からは、腹に響く雷鳴が轟いていた。
「だ、だれ、だ……」
老人の目が、何かを捕らえた。
開け放たれた窓の向こうに、人影が見えている。
人影が、音も無く、するりと中へ侵入した。
「おぉ、守護天使……」
老人が、這って人影へと近づいた。
人影の背に、大きな翼がある。それを指して、彼は天使だと口にしていた。
室内の明かりで、人影の姿が、より鮮明に見える。
長い、腰まである黒髪に、大きな翼を持ち、白い衣服は獣皮からなるもので、手には、丸い片面張りの太鼓が、握られている。
「天使よ、余を、助けに来て、くれたのか」
老人は、天使――エルージュの足に縋り付いた。涙が、よだれが、溢れている。
「助けてくれ、苦しいのだ。誰も余を、救ってはくれない」
声は震えつつ、悔恨の思いを述べていた。
老人は、その権力を振るって、罪なき者を大量に殺していた。
始めは、ここ首都モスクワで。影響は、次第に周辺の町や村に及び、親衛隊が組織されてからは、暴虐の嵐が国内を駆け巡った。ノヴゴロドに至っては、住民の半数が消えたと言われている。辺境の異民族など、いくら殺したか覚えがないほどだ。
被害者は、農民から正教会の司教まで。身分など関係なく、人々は死んでいった。
止めようとした貴族や、公もいた。
しかし諫言は反逆と捉えられ、彼らは民衆に対する見せしめも兼ねて、念入りに残虐な手口で殺された。
そして、狂いつつあった、老人の手は、次に息子を捕らえた。
老人には、有望なる後継者がいた。
恐怖によって、国を支配する術を叩き込まれた、若き男だった。
後継者のすぐ下には、もう一人の後継者が存在していた。
そちらは、白痴であったため、長男である後継者――息子は、それは大事に育てられた。
だが、その息子が、老人に牙を剥いた。
老人が些細なことで、息子の嫁を打ち据えたからだった。
息子は当然のように、嫁を庇い、父である老人を止めようとした。
だが、それに老人は逆上した。
常軌を逸した乱闘の果てに、老人は息子を打ち殺した。手に持つ黄金の杖には、血と息子の肉片が、こびりついていたほどだった。
それから間もなく、老人は狂った。
「あれが、余を睨んでおる。血まみれの姿で、余の顔を、覗き込んでくるのだ」
老人は、泣きながら部屋の隅を指さした。
「余は、悪くない。お前が、余に逆らうからだ、息子……」
エルージュの顔が、明かりに照らされている。その表情は、憐憫を帯びたものだった。
泣き崩れる老人の姿は、とてもこの国を治めている者とは、思えなかった。
身体だけは大きいが、その実、自らが殺した者の幻影に怯える、矮小な男だ。
この老人は、北方諸民族を殺しすぎていた。
シャマンを信じる彼らを、異教徒と罵り、存在自体を許しはしなかった。
そして、息子殺しの罪に苛まれる現在。老人は救いの手を差し伸べない正教会に見切りをつけ、北方諸民族のシャマンに救いを求めた。
しかし、それに応じる者たちは、全て消え去った後だった。
部屋の隅には、何も見えない。
老人の恐怖する幻影は、今や老人の背後に、佇んでいた。
「天使よ、何か申してくれ。血まみれのあれを、消してくれ」
エルージュの手が、老人の頭に伸びた。
彼女の輝く黄金色の目が、男の恐怖に硬直した顔を、見届けていた。
モスクワの兵が、撤退したと聞いたのは、もう降雪が始まった時期だった。
争奪戦を繰り返している町の近くの、針葉樹の森の中で、獣人たちは車座になって話し合っていた。
「それは、罠ではないのか?」
ユーリは、思わず問い返したが、トナカイの男は、この目で確かめたと、言っていた。
「モスクワの兵は、どこにも見当たらない。町を隅々まで探したが、武器も旗も、西の者全ての痕跡が残っていない」
獣人たちは、互いに腑に落ちない顔をしていた。
西の者が、戦線を維持することなく、離脱せざるを得ない状況があったのだろうか、町に残るのは、奴隷として労働力として置かれた、熊の氏族だけだという。
「では、これからどうするのだ」
ユーリの言葉に、皆の顔が、暗く沈んだ。
「俺は、もう帰りたい」
虎の男の目が、地面を見つめたまま動かない。
「熊の奴ら、俺たちに協力しようともしない。それどころか、町を取り戻す俺らを、敵だと言ってくる」
「俺も同感だ。奴らは、西の生活の方が、便利だと抜かしやがった。毛皮を渡して、鉄を得たいともな」
虎に続いて、オオジカまでもが、呆れた顔で同調した。
「鉄というか、刃物だな。船を作る際に、必要なものだ……」
熊の氏族は、西の生活を知り、それの魅力に取り憑かれた。
不便極まりない東の生活様式を捨て、明るい開けた文明世界へと、彼らは舵を切った。
もう、こちらに戻ることは無いであろう。寂寥の念が、皆の胸を埋め尽くした。
「帰ろう。これからは、各自で村を守るしかない。奴らは人間だ、この冬を越えられるとは、到底思えない」
トナカイの男が、立ち上がった。
一人が行動を起こせば、二人目が続き、獣人たちは、皆次々に立ち上がっていた。
雪の積もる、狼の村。
白一色の雪景色に、小さな足跡が、いくつも見える。
「ボロー、ヴォルク、ココ、風邪をひくから、いい加減にしなさーい」
子供たちの母であるエルージュが、白い息を吐き出しつつ、天幕周辺の雪を寄せていた。
「待って、もうすぐ、できるからー」
ヴォルクは、頬を真っ赤にして、ボローや他の子と共に雪を転がしている。
雪原を、転がりながら大きくなるそれは、子供たちの背丈の半分はあろうかという、大きさだった。
「よっと、これぐらいかな。ココ、石はあるか?」
「あい、ボローにーたん」
ココは、尻尾を揺らしながら、両手に持った石を渡した。
小さな子供の、手の平ほどの石は、やや丸みを帯びた黒い色をしていた。
「ありがとう。じゃあ、これが目で、これが口っと」
手を真っ赤にしながら、ボローは石を雪の塊に押し込んだ。
黒い石を二つと、少し白い石を一つ。落ちないように、しっかりと雪に固定する。
「耳も、つけようよ」
ヴォルクが、自身の顔ほどもある、大きな黄色い落ち葉を、頭に差した。
「よーし、できあがりー」
「やったー」
「わーい」
完成したそれを見て、子供たちは手を叩き、歓声を上げている。
周囲で雪かきをしている大人たちは、その光景を微笑ましく見守っていた。
「母さん、見て見てー」
ヴォルクが、手招きをして、母を呼んだ。
エルージュは、背中に赤子を背負いながら、子供たちの所へと向かった。
「どうしたの、ヴォルク」
「ねえ、これ、何に見える?」
息子の指は、先ほど完成したばかりの、雪の像を示している。
それは、多少いびつではあるが、力強い石の双眸と、紅葉で黄色に変色した落ち葉の耳が、彼の特徴を、よく表してもいた。
「うふふ、これはツァガンね」
「あたりー」
ヴォルクは少し恥ずかし気に、笑っていた。
「皆で作ったのかしら、よく出来ているわね。お父さんそっくりじゃないの」
「うん、皆で頑張ったんだ」
彼の尻尾は、ちぎれんばかりの勢いで、左右に振られている。
雪の像が完成した達成感と、母に褒められた満足感が、その尻尾を揺らしていた。
「あっ、ねえちゃん、あれ!」
突如、ボローが村の外へと駆け出した。
今まで、子供たちを見ていた、周囲の大人たちも、一斉にそちらを向き、そして皆が喜びの声を上げた。
地平の彼方まで白い雪が積もる草原を、二人の男が歩いている。
一人は、赤い髪の男。もう一人は、黄金の髪の男だ。
「父さん、帰ってきた!」
「とーたまぁ」
ヴォルクが、ココが、ボローに続いて、雪の上を走る。
お尻の尻尾は、嬉しさと喜びを表わすように、激しく振られていた。
「ようやく戻って来たな」
ツァガンの父が、エルージュの傍らで、腕組みをしている。
「ええ、ようやくですね」
エルージュは背中の子供を、白鳥の翼で外気の寒さから守っていた。
ツァガンが、子供たちを抱き上げている。
ユーリも、ボローの頭を撫でている。
ココは、嬉しさからか、泣いてしまっている様子だった。
「エルージュ!」
ツァガンの声が、聞こえた。
子供たちと共に歩き、彼は大きく手を振って、こちらへとやって来る。
「ただいま、エルージュ」
「おかえりなさい、ツァガン」
狼の男と、白鳥の女は、再会と無事であった事を喜び、抱きしめ合った。
離れていた期間は、半年にも満たないが、まるで長年に渡り、別離を強いられていたかの如く、お互いの身体を目で、鼻で、唇で、確認していた。
「あ、赤ちゃん」
「ええ、冬前に産まれたのよ」
エルージュの背中で、すやすやと眠る赤子に、ツァガンの顔が緩んでいた。
「どっちだった?」
「女の子よ、名前はノールと付けたわ」
「ノール、ノールか。オイラ、そっくりだね」
ツァガンの目が潤んだ。鼻をすする仕草をしている。
「三人目も、お前に似ているとは。大したものだな、ツァガン」
「父さんも、オイラがいない間、ありがとう」
「なあに、孫のお守りぐらい、簡単だ」
父は、そう言って笑っていた。
「エルージュ様、ただいま戻りました」
ユーリは膝をつき、深々と彼女に頭を下げた。
「おかえりなさい、ユーリさん」
「新たなお子の誕生、まことにおめでとうございます」
「ありがとう。それで、西の者らは、どうでしたか?」
「はい、西の者は、ある日突然、その姿を消しました。モスクワ正規軍だったのですが、本国で何かがあったと思われます。おそらく撤退したかと」
彼の言葉に、エルージュは、含みを孕んだ笑顔を見せた。
「お疲れ様でした。これからは、ゆっくりできますからね」
「え?あっ、はい」
「さあ、お腹も空いているでしょうし、一緒に食事でもどうかしら、ユーリさん」
エルージュは、子供たちを連れて、帰還したばかりの二人をもてなすべく、天幕へと戻る。
「ユーリ、メシ、喰おう」
「ああ」
冬の、ほんの一時の晴れ間の中で、狼の村は、久しぶりに賑やかな子供らの声に、埋め尽くされていた。
集落の広場では、子供たちの作った雪像が、太陽の光を受けて、まばゆく輝いている。
東方世界の樹林地帯には、例年と同じく、寒い冬が訪れていた。




