1 二人目の子供
その世界は、人間と、人間以外の、獣人と呼ばれる種族が、暮らしていた。
大地の中心には、天まで聳える巨大な山が鎮座し、山の頂には、世界を支える巨大な樹と、神々のおわす座があると信じられてきた。
世界は長大な山脈によって、東西に分断され、西には、気候穏やかな人間の世界があり、東には、獣や得体の知れないものが跋扈する、厳しい自然の世界が広がっていた。
その自然厳しい東方世界だが、そこに住む彼らは、獣を祖霊とし、また獣の庇護を受けて、過酷な日々を凌ぎ、生活していた。
人々は、自然の恵みを受けるために、シャマンと呼ばれる者を介して自然と対話し、恐ろしき精霊や、得体の知れないものと交渉しつつ、供犠を捧げてきた。
東方世界に広がる、広大な樹林地帯の側には草原があり、頭頂部に耳と、臀部に尻尾を持つ、狼を祖霊とする氏族が、小さな村を形成していた。
そんな狼の氏族の村の、族長の息子の天幕から、今日も元気な赤子の泣き声が響いていた。
「よしよし、どうしたの」
そう言って、彼女は赤子を抱き上げ、あやし始めた。
この女は、名前をエルージュといい、獣人たちがテングリと呼ぶ巨大な山の頂より、やって来た、白鳥を祖霊とする女である。
その証拠に、彼女の背中には、大きな翼が生えており、黒髪に白い翼が印象的な、世界でも珍しい、女のシャマンでもあった。
「いい子ね、ヴォルク、どうしたのー」
彼女の腕の中で、赤ん坊が力強く泣いている。
この子は、彼女と、夫である狼の獣人との間に産まれた男の子で、小さいながらも、父と同じ姿形を引き継いでいた。
「お腹がすいたのかしら、待っててね」
白テンの毛皮の服を脱ぎ、彼女はヴォルクに乳を与え始めた。
勢いよく乳を飲む我が子に、彼女は慈母の目でその様子を見守る。
と、そこへ。
「ただいま、エルージュ、ヴォルク!」
彼女の夫が、狩りから帰って来ていた。
「おかえりなさい、ツァガン」
「ヴォルク、いい子にしてたか」
「ええ、今はお乳を飲んでいるけど、とてもいい子にしていたわよ」
帰ってきたこの男は、名をツァガンといい、この狼の氏族をまとめる族長の息子として、毎日、狩りに勤しんでいた。
その姿は、氏族の中でも数少ない金髪金眼で、頭部に狼の耳と、臀部に毛並みのいい尻尾を有していた。
「父さんが、帰ってきたぞ、ヴォルク」
乳を飲む息子の顔を、ツァガンの指が優しく撫でた。
「だめよ、邪魔しちゃ」
「うー、でも、ヴォルク、おいしそうに飲んでるぅ」
「赤ちゃんだもの、当然よ」
「オイラも、飲みたい」
その言葉に、彼女は驚いていた。
「何、言ってるのよ、ツァガンは必要ないでしょう」
「えー、だって、エルージュのおっぱい、オイラのものだよ」
「でも今は、この子のものよ」
授乳を終え、彼女は服をいそいそと着る。
「飲みたい、ね、少しでいいから」
「だめ、ヴォルクの分がなくなっちゃうでしょ」
押し問答が続く中、彼らの天幕の扉が開かれた。
「失礼いたしま……」
「やだやだ、オイラもおっぱい、飲みたい!」
扉の向こうから聞こえた言葉に、その人物は呆れた顔をしていた。
「……昼間から、何を言っているんだ、お前」
「あらやだ、ユーリさん」
ユーリと呼ばれた男は、侮蔑の目で、ツァガンを見た。
この男は、元々西側の人間で、鷲を祖霊とする赤毛のシャマンなのだが、氏族の特徴はとうの昔に無くし、今はただ一介の人間として、半ば強引にエルージュを主と仰ぎ、従っていた。
「オマエには、関係ないだろ」
そう言って、顔をそむけるツァガンに、彼は苛立ちを覚えながら、エルージュの元へと近寄り、何やら籠を差し出した。
「エルージュ様、これをどうぞ」
「あらあら、いつも悪いわね」
「いえ、肉と穀物だけでは、栄養が偏ってしまいますので」
籠の中には、森で採れた果実が山のように入っていた。
「子供には、果実の栄養も必要です。エルージュ様には、もっと栄養を取っていただかないと」
「ありがとう、ユーリさん」
笑顔で籠を受け取る妻の姿に、ツァガンは不満気な顔をしていた。
「エルージュの面倒は、オイラがやる。オマエ、邪魔するな」
「邪魔ではない、お前が気づかないことをしているだけだ」
「それが、邪魔なんだ。エルージュは、オイラのもの、だぞ」
「違うと言っているだろうが」
睨み合う二人の間に、エルージュが割って入った。
「ケンカはだめよ、子供の前なんだから」
お互いに、鼻息荒く顔を背ける二人の様子に、彼女は苦笑いをしていた。
それから数か月後。
夏の陽射しが弱くなってきた頃、村には、腹の大きな女の姿が目立つようになっていた。
ヴォルクを背中に負い、エルージュは、ツァガンと共に水を運ぶ道中、それとなしに、話を振っていた。
「妊娠している人も増えたわね」
「うん、エルージュが、ヴォルクを産んだからだよ」
「そうかしら?」
「そうだよ、ヴォルク、産まれて、オイラたち、呪いが解けたんだ」
それは、昔に森が焼け落ち、死んだ時から始まる、謎の呪いだった。
狼の氏族は、それより繁殖することがなくなり、一方的に数を減らしていった。
だが、エルージュがシャマンとして、森を蘇らせた後、彼女はツァガンに愛されて、息子のヴォルクを産み落とした。
産まれたヴォルクは、氏族の希望の子として、また、呪いを打ち破る子として村中で愛され、その成長を見守られていた。
そしてその子に続くかのように、村では次々と新たな子が、女の胎に宿り始めていた。
「ねえ、ツァガン」
「なに?」
「ツァガンは、あと何人、子供が欲しい?」
「えっ、そ、そうだな、いっぱい欲しい……かな」
「具体的には、どれぐらい?」
「う、うーん、五人、十人でもいい。オイラ、頑張って育てる」
照れ臭そうに、彼が笑った。
「じゃあ、頑張ってね、あなた」
水桶を置き、彼女は背伸びをして、夫に口づけをした。
「あ、え、エルージュ」
「私も、次の子が欲しくなっちゃった」
「そ、それって」
「もう、分かってるでしょ」
恥ずかしそうに、彼女は頬を紅く染め、ツァガンの胸へ抱き着いた。
彼も、その仕草にまんざらでもないようで、そっと妻の身体を抱こうとした。
「あれ?」
ふと見ると、彼女の背中のヴォルクが、真っ赤な顔をしている。
「エルージュ、ヴォルクが、うんちしてる」
「えっ、嘘」
しばらくすると、かぐわしい香りが、息子から漂ってくる。
二人は慌てて、天幕へと戻って行った。
森にキノコが顔を出し始める、秋。
二人の天幕からは、楽しそうな声が聞こえてきていた。
「こっちよ、ヴォルク」
「ほらほら、頑張れ」
ヴォルクの耳が、忙しなく動き、尻尾もぱたぱたと元気に揺れる。
ツァガンとエルージュは、手を叩き、息子の興味を引こうとアピールする。
「ヴォルク、お母さんのところに、おいで」
優しそうな母の声に、ヴォルクは笑い、懸命に手足を使って、移動した。
そうして、ゆっくりとだが、二人の元まで辿り着くと、そのまま彼は母の胸に抱かれていた。
「えらいわね、よくできましたー」
「ヴォルク、すごいぞ、さすがオイラの子だ」
息子の成長に、二人は一喜一憂だった。
子供の育つのは早く、巡る季節と共に、ヴォルクは大きくなる。
だが、そんなある日、思いもよらないことが起きた。
それから数日後、ユーリが一人の子供を連れて、二人の天幕を訪れていた。
「どうしたんだ、その子」
ツァガンが、子供を見て、そう言う。
「まさか、オマエの子か?」
「違う、よく見ろ」
ユーリの影に隠れている子供の頭には、小さな灰色の耳が生えていた。
彼によると、昨日のこと、森の上空で何やら騒がしい音がしたかと思ったら、この子供が、木に引っかかっていたのだという。
「この耳、犬の耳だ」
ツァガンに比べて、小ぶりな耳は、怯えるかのように、伏せたまま動かなかった。
お尻の尻尾も、細く小さく、後ろから股の間を通って前へとやったまま、細かく震えていた。
「怖いのか?おいで」
彼がそう言うも、子供はユーリの服を掴んだまま、イヤイヤと首を振るばかりだ。
「ずっと、こうなのだ。人見知りが激しいらしい」
ユーリは、ため息をついた。
「言葉は、話せるのかしら」
エルージュが、疑問を投げかけた。
「はい、少しは話せるようです」
ユーリは子供を前へ出そうとするが、怯えた子供はそれを拒否する。
「こら、エルージュ様にご挨拶しろ」
「やーあ!」
「だめよ、ユーリさん、無理強いは」
「し、しかし」
「やだやだやだーっ!うわあああん!」
子供は泣きだしていた。
「あーあ、泣かしたな、オマエ」
「子供の扱いは、慣れていないんだ。仕方がないだろう」
困り果てるユーリの姿に、エルージュは、息子を夫へと預け、静かにその子へと近寄った。
「おいで、何もしないから」
差し出した手に、子供は怯えていたが、次第に何もしないというのが分かったらしく
おずおずと小さな手を伸ばしていた。
「いい子ね」
エルージュの手に、子供の手が触れる。
優しい笑顔と、温かな手のぬくもりに、子供の涙は次第に止もうとしていた。
「もう、怖くない、いい子ね、いい子」
縮こまっていた、子供の尻尾が、ゆっくりと振られ始めた。
温かい彼女の胸に抱かれ、不安気だった子供も、多少は落ち着きを見せていた。
「はあ、やっと解放された」
そう言って、ユーリは腰を下ろした。
「それにしても、なんで犬の氏族の奴が、ここに来たんだ?」
ツァガンは、息子を抱きながら首をひねった。
「分からん、周りに親らしき者は、いなかった」
「犬の氏族、もっと西の、山の麓、住んでいる、はず。こっちまで、来ることない」
「そもそも、なぜ木に引っかかっていたのやら……」
ユーリの言葉に、ツァガンは何か心当たりがあるようだった。
「空が騒がしかった、って言ってたな、オマエ」
「ああ」
「その時、鷲か、鷹がいなかったか?」
「うーん、鷹ならいたような……」
「じゃあ、そいつの仕業だ」
「うん?」
「大きい鷲や鷹は、子供を攫っていく。きっとそれだ」
「えっ、何だそれは」
ツァガンが言うには、小さな子供や赤子が動物に攫われるのは割りとあるらしい。
特に森の中では、目を離すと、あっという間に攫われるとのこと。
だから親たちは、子供を抱いたり、背負ったりして自衛するのだという。
「では、あの子も……」
「それだな、親が目を離したか、何かで、攫われてきたんだろうな」
二人は、そう結論づけていた。
「ところで、あの子の名前、親とか、分かるか?」
「それが、覚えていないらしい。聞いても分からないと言われた」
「困ったな」
頭を抱える二人の元へ、エルージュが声をかけた。
「ツァガン、この子、眠ったわ」
彼女の腕の中で、その子はいつの間にか眠っていた。
それを見たツァガンは、黙ってうなずく。
「頼んだ、エルージュ」
「ええ」
静かに、彼女はシャマンの詩をうたった。
腕の子供を起こさないように、細心の注意を払いつつ、子守歌のようなうたを唱えた。
それに、今回は記憶を探るだけなのだから、太鼓を使うといった、大掛かりな儀式は必要なかった。
子供を抱きしめて、彼女はその心の中へと、飛び込んでいった。
長い時間が過ぎた。
ツァガンは、息子をあやしながら、彼女が目覚めるのを待っていた。
「ふ、ふえ……」
だが、突如、ヴォルクがぐずりはじめた。
「泣き止ませろ、エルージュ様の集中力が乱れる」
「よーし、よしよし、どうしたー、ヴォルク」
だが、息子は泣き止まず、それどころか、さらに大声でわめきだす始末だ。
「悪い、外に行ってくる」
そう言って、立ち上がろうとした時、エルージュがゆっくりと、その身を起こした。
「エルージュ」
「もういいわ、分かったから」
ツァガンより、ヴォルクを預かった彼女は、すぐに息子をあやし始める。
彼は、やはり母の胸が安心できるのか、たちまちに泣き止んでいた。
「エルージュ、この子のこと、分かった?」
「ええ、この子の名前はボロー。犬の氏族の子ね」
やはり、という顔で、ツァガンは子供を見ていた。
「両親は、もういないみたい。森を一人で歩いている時に、鷹に攫われたようね」
「じゃあ、氏族の村に帰してやらないと」
「それがね、村も、もう無いようなの」
その言葉に、ツァガンは驚いていた。
「争いがあったのかしら。村は焼けてしまって、その時に親とも死に別れたのね」
眠りこける子供の頭をそっと撫で、エルージュは悲し気な目をしていた。
「そんな、この子、一人ぼっち、だったのか」
「記憶を失くしたのも、無理はないな……」
普段、獣人のことを見下しているユーリだが、幼い子供の負った過去には、さすがに同情の念を禁じえなかったらしい。
憐憫の目で、彼は子供の寝顔を見つめていた。
「それで、どうするんだ」
ユーリが語る。
「え、何が」
「この子だ、帰るところがないんだろう」
「うーん、そうだなあ……」
ツァガンは悩んでいた。
と、その時、子供が起きたらしく、彼らの言葉に、耳をしきりに動かして、様子を窺っていた。
「父さんも忙しいし、村の人たちも、余裕がないし……」
子供の手が、エルージュの服を、ぎゅっと握る。
不安そうな顔をしている子を、彼女は優しく頭を撫でてやった。
「うん。オイラが、育てる」
彼の言葉に、ユーリは大層驚いていた。
「本気か?他人の子なんだぞ」
「一人も、二人も同じ。オイラ、頑張る、それに……」
ツァガンの目が、ユーリを見据える。
「兄弟は、いた方が楽しいって、ヴァシリーも言ってた」
「えっ」
「オイラ、兄弟いない。でも、ヴァシリーは、オマエがいた、だから」
「あいつ、そんなこと、思っていたのか」
西の世界に残してきた、弟弟子のヴァシリーを思い出し、ユーリは切ない気にさせられた。
彼も元々は一人っ子なのだが、兄弟子ユーリのことを、実の兄の様に慕っていたのだった。
「ね、エルージュ、いいよね?」
ツァガンは、そう妻に問いかけた。
「私は、あなたに従うわ」
彼女は、大きくうなずいた。
「でも、一つだけ条件があるの」
「条件?」
「この子と、私たちの子供を、分け隔てなく愛してあげて。それが条件よ」
「うん、オイラ守る。ヴォルクも、この子も、大事にする」
ツァガンは、約束とばかりに、妻の目を見つめた。
「お前も、それでいいか?ボロー」
突如、自身の名前を呼ばれ、ボローはとても驚いた顔をした。
目をぱちくりと動かし、次いで、エルージュの顔をまじまじと見つめる。
「ボローちゃん、私たちの子供になる?」
にこりと、エルージュは微笑んだ。
ボローは、恐る恐る、うなずいていた
「よーし、これでボローは、オイラの子だ」
「よろしくね、ボローちゃん」
エルージュに抱きしめられ、ボローの尻尾が、ぱたぱたと揺れた。
狼の氏族に、新た仲間が加わった。
だが、西の山麓で起きたことが、やがてこちらの草原にまで影響するなど、この時、まだ、誰も気がついていなかった。