9.間宮陽日とダメ教師
やっとでてきた文芸部顧問。書いていてすごくイライラした。
我らが文芸部のトップは部長であるが、一応顧問がちゃんといる。中村崇先生。齢二九。化学教師。ただこの先生、私が知る大人の中で最も頼りにならない。先生を検索ワードにかけるならきっと、『コミュ障 ネガティブ 授業下手』だろう。なぜ採用試験に受かったのか、私的には部長の七不思議より気になるところだ。なぜ私が今、中村先生の話をするのかというと、木曜の三時限目が化学だからである。そしてうちのクラスの担当が非常に残念なことに、中村先生だからだ。ほんっとうに迷惑。
――先生、いい加減準備室から出てきてください。
「間宮さーん。早く先生連れてきて」
ですよね。委員長ですもんね、私。
仕方がないと、座り心地のよろしくないボッロい木の椅子から立ち上がる。
「せんせ……」
ドアをノックしようとして、軽く拳を振り上げたところで固まってしまう。
「何してるんですか、中村先生」
先生は、三㎝ほど開いたドアの隙間から教室を覗いていた。
……ほんとこの人、なんで教師できているんだろう。
「もう授業始まって二〇分ですよ。授業始めてください」
「……みんな俺の話聞いてくれる?」
あんた何歳だよ。イライラするなぁ、もう。
「聞きますよ。早く授業始めてください?」
怒りを抑えて、なるべく優しく促せば、先生はおずおずと準備室から出てきた。
まぁ、出てきたところでイライラは収まらないんだが。
「えーと。前の時間どこやったっけ……。あー、とりあえずボイル・シャルルの法則と気体の状態方程式を……」
先生、それ先週やりました。ちなみに今まで、先生はずっと黒板と向き合っている。つまり、私たちには背を向けた状態。
……そんな授業があるか!
「先生。とりあえず復習がてら問題集を解くのはどうでしょうか」
佐伯君の一声に、クラス中が安堵の息を吐く。このままではきっと、イライラのあまり少なくともボイコットくらいはしていただろうから。
「そ、そうだな。じゃあ問題集六三ページの電子式のところから……」
ボイル・シャルルどこ行ったーー!
佐伯君の正確かつ適切なパスをスルーしたぞ、この人。
授業自体は全く進んでいないのに、ものすごく疲れたのはなぜだ。化学室を出ていくみんなは心なしかやつれている。
だが、授業が終わったからと言って安心などできない。中村先生の迷惑たる所以はここからなのだから。
「あぁ、間宮」
っち。逃げ遅れたか。
「俺の奥さんがさぁ……」
先生は授業中オロオロしているくせに、奥さんの話と恋バナをする時だけ饒舌になる。ていうかこの人よく結婚できたよな。しかも美人と。確かに顔の造作は整っているが、その頼りなさと一部に特化したウザさによってプラマイマイナスだ。美形が好きなうちのクラスの女子たちさえ先生を敬遠するのだから。……うちの部の顧問だから、という理由だけではではないと思う。いや、絶対そうだ。
「お疲れ、間宮」
教室に戻ると、休み時間は残りわずか。薄情にも私を置いて化学室を出ていった佐伯君に軽い殺意が湧く。
「佐伯君や。君は私の友達ではなかったか」
「間宮。いくら友と言えど、俺は自分が一番かわいい」
潔いな! なんかカッコいい気がするけど、言っていることはただのクズだから!
「はあぁ。もういいよ。次、なんだっけ。現国?」
「いや、古典に変更になったらしい」
はいぃぃ? なにそれ聞いてない!!
「もう私、今日は帰ろうかな……」
中村先生の奥さん自慢の後の古典……無理だろ、それは。
「いや、普通にダメだろ。てか無理だろ間宮にサボりとか」
く……っ。私は良くも悪くも小心者のヘタレだ。
「いやだ。授業ついていけてないし。現代訳さえも怪しいのに」
「なら尚更サボれないだろ。ま、間宮のことだから宿題はやってきてるんだろうが」
「いやいやいや。やってくるのと理解できているのとはイコールじゃないからね?!」
プリントを埋めることは教科書眺めればできるし。私は頭を使うのが苦手なんです。成績のいい馬鹿なんです。
「ほら。先生来たぞ。席もどれー」
薄情者……!
あぁ。なんだろう。午前中で私のHPがガリガリ削られた。この後部活かぁ。部長と対峙する力はもう、残っていない。
「間宮ー。昼飯どうする……って何睨んでるんだよ」
覚えがないとは言わせない!
「なに? 薄情者の佐伯君」
「根に持つなぁ。昼飯生徒会室で食うか聞きたいだけだ。二週に一度間宮を連れていけば、会長の仕事の回転が速くなると三崎先輩たちに言われて」
明先輩に会えるのはうれしいけど、道具みたいでなんかやだ。
「あと間宮。古典苦手なら教えてやってもいいけど」
「え! いいの? ありがとう! ついでに数学も教えてくれると嬉しいです」
「意外と図々しいな、間宮」
佐伯君は苦笑しながらも、時間の空いたときに勉強を教えてくれると約束してくれた。
「んじゃ生徒会室行くか」
あ。そういえば三崎先輩と日下先輩もいるんだ。またあの佐伯君の言うところの混沌が繰り広げられるんだろうか。
「ねぇ陽日ちゃん。秋君との馴れ初めを教えて?」
日下先輩は語尾にハートマークをつけて小首を傾げる。可愛い、非常に可愛らしいのだが、盛大に誤解している。佐伯君もあの後誤解を解かなかったのか。
じと、と佐伯君を睨むと
「そう簡単にこの人たちの誤解を解けると思うなよ」
佐伯君は私に耳打ちした。
……確かにそうかもな。
「そ、そういえば有川先輩はどうしてここで昼食を摂らないんですか?」
何とか話題をそらそうと有川先輩の名前を挙げれば、明先輩が今にも舌打ちをしそうな顔になる。
「泉は女子と食堂だ」
三崎先輩の少ない言葉ですべて納得できてしまった。
「私は軽い男は嫌いなんだ」
非常に胃に悪い笑みを浮かべる明先輩。
……馬鹿じゃないですか、有川先輩。
「だから泉は誠君に勝てないのよ」
私もそう思います、日下先輩。
「誠よりいい男はこの世にいないからな」
キラキラした笑顔の明先輩が眩しい。
「いいわねぇ恋する乙女は」
「ですよねぇ。私も恋人の一人や二人作らないと部長にバカにされっぱなしなので」
経験値を上げて小説に反映させたい……!
「ま、無理して作るもんじゃないと思うぞ? 相手を見極めないと危ないからな」
「そうだ。いいやつばかりとは限らんからな。泉のような男も大勢いる」
佐伯君の言葉に頷いた三崎先輩は、案外毒を吐くらしい。
「私も陽日は信用できる人間にしか渡すつもりはない」
明先輩、あなたの立ち位置は父親ですか?
でも、私のこと考えてくれてるんだよな。私には兄しかいないが、明先輩は私の理想の姉像だ。なんだか午前中の出来事ですり減った心が癒された気がする。
「でもまぁ、私が恋愛なんてまだ早いですけどねー」
最近ぼっちを免れたばかりなのだから、恋愛なんてあと5年はないな。
「陽日にその気がなくてもそそのかす奴なんていくらでもいるんだ。気を付けるに越したことはないんだよ?」
明先輩は大真面目な顔で言うけれど、お忘れか。私が平凡顔の平凡スペックだということを。
「現に一人いるんだし……」
忌々しげに言う明先輩。
「え! それ誰ですか! すごい気になります」
「いや。気にしたら終わりだ。聞いたら絶対に吐く。血をな」
ええぇ!? そんなやばい人なんですか!?
「……聞きません」
「陽日は一生知らなくていいんだよ」
癒された心が一瞬で擦り切れました。
明先輩が言っている人物はもちろん夏目部長です。新歓の時の話を在原に聞いて、危機を感じています。