(7)一歩踏み出す
「さっきはすみませんでした!」
『J moon』閉店後、高校生アルバイトが頭を下げた。
注文を間違えて伝えるというミスをした彼に文句を言った年配客に、こちらの責任なので間違えた分とこれから作り直す分のカクテルをサービスさせてくれと、蓮華が丁重に謝り取り成すと、客もそれほど気を悪くせずにおさまった。
「最初のうちは間違えることだってあるわ。落ち込まないで頑張ってね!」
蓮華がその分の代金をアルバイト代から引くこともなかった。
「ママって偉大ですね!」
高校生がぽーっとした顔つきで優にそう話すと、優は「そうだね」とにっこり答えた。
「なんとかお客さんも怒らせずに済んだし、この間なんてオレの作ったクッソまずいバージン・メアリーも残さず飲んでくれたんスよ! まるで女神! うちの姉ちゃんもああだったら良いのに!」
からかい半分で作らせたバージン・メアリーも、成人アルバイトたちに作らせてきた失敗作のブラッディ・メアリーも捨てない。
奏汰が代わりに作って以来、彼も自力で作らされたが、トマトジュースを使ったノンアルコールカクテルは案の定うまくいかなかった。
それらを蓮華がすべて飲んできたのを見て来た優も、感心していた。
「最近、優ちゃん、なんか楽しそう」
「蓮ちゃんもでしょ?」
高校生も帰り、優が、蓮華にはわからないカクテルを試作していた。珍しく苦戦しているようで、グラスの酒と睨み合い、頭を捻っている。
その状態が、このところ毎晩続いている。
蓮華はカウンターの優の正面からはずらして座り、奏汰と翔が都内の外れで行ったライブの、そのバーのマスターがUPした動画を見て楽しんでいた。
『ライブ動画観たよ。一曲目から飛ばしてたね!』
メッセージを送信する。
『さっそく観てくれてありがとう! 本番前から翔に言われてたんだ、1stステージは最初からアグレッシブに行くぜ! って』
『カッコ良かったよ!』
蓮華が、『きゃー!』っと喜んでいるスタンプを送ると、奏汰からは、『ありがとう』と、ぺこっとしているスタンプが返ってきた。
「見て見て! 奏汰くん、こんなかわいいスタンプ使うんだね!」
蓮華にスマートフォンを見せられた優が、スタンプと蓮華とを見て笑った。
「奏汰くんたちも、うちのお店でももうちょっと演奏してくれると嬉しいんだけど、都内の方がもっといろんな人が来るし、人脈作れるもんね。ついでに『J moon』の宣伝もしてくれてるみたい!」
閉店間際では年配客の聞き役に徹し、ミスを犯した先ほどまで後片付けをしていた高校生アルバイトを、やさしく元気付けていたママが、今では一人の乙女のようにウキウキとしている。
奏汰とは友人同士の付き合いのようだが、なんだかんだ蓮華が楽しそうであるのは良いと、優は改めて思った。
微笑ましく思いながらも、自分は目の前に立ちふさがる味の整っていない酒をなんとかしなければならない。
何を作っているのかと蓮華が尋ねても、優はただ実験とだけ答えた。
かつても、そんな場面はあった。
「昔みたい。カクテルのコンテストに出すからって、いろいろ考えてたでしょう?」
蓮華がカウンターに頬杖をつき、懐かしそうに優の手元を眺めていた。
「ああ、銀座の『Limelight』にいた時から、見習いも全員出ろって師匠に言われてたからね」
優がカクテルを試作することはよくあるが、今はまだ見習いの頃に時々見せていた表情になっていた。
単なる試作品ではないのだろうと察した蓮華は、先に上がった。
後日、優が休みの日に、いつものパークにゆかりと訪れた。平日の夜であっても人はいるが、休日よりも静かだ。
華やかなショーも終わり、夜空の下でヨーロッパ調の街並みからも人が引き上げていく。
それでも、まだ街の灯は消えていない。
湾を見下ろしながら、優が切り出した。
「この間、ゆかりさんに、僕の時は止まってるって言われたよね。あれ以来ずっと考えていて、今の自分を見つめるカクテルを作ってみたんだ。やっぱり、あんまり美味しく出来なくてね。迷っていて味が定まらなかった」
恥ずかしそうに笑ってから続ける。
「味を改善するためだけに無心になってた。複雑な味だったから、なかなかうまくいかなかったけど、出来たのは、これまで作ったことのないものだった。今後も迷った時に作ってみようと思った。味はその都度違っていていいと思って」
「ベースも違うの?」
「それも有りだよ。まだはっきりとは形になってないんだけどね。第一段階が彷徨う『Wander』っていうカクテルで、それを飲んでから、第二段階は材料を追加して……出来れば、一、二種類とか少ない素材で変化をつけて、一歩踏み出す『Step』に変わる。そうなったら面白いかなぁって」
「カクテルが変わるのね? 面白そう! それで、どんな味になったの?」
ゆかりの瞳は興味に輝き始めた。優も普段の友人の顔に戻り、慌てたように笑った。
「ホントに美味しくないから」
「何のお酒を使うの?」
「ラムは使った。ダイキリと同じだね。後は秘密」
「えーっ、それだけじゃ、どんな味か見当がつかないじゃないの!」
「まだ秘密。もっと上手く作れるようになったら、一番にゆかりさんに飲んでもらうから」
「ホントに?」
「うん。ありがとう。ゆかりさんのおかげで、新しいカクテルを思い付いたし、他にも派生していくつか浮かんだんだ。これからも考えていけそうだよ。とりあえず、そういう方向で時間は動き出したのかな。おかげで、『Wander』を作るために、あえて失敗するのが楽しくなってきたよ」
霧が晴れたような、初めて見せる少年のような無邪気な笑顔から一瞬目を離せなかったゆかりも、心から嬉しそうに笑った。
「お役に立てて良かったわ! これから、新しいカクテルを作ったら、試し飲みは私が第一号ね」
「もちろん、そのつもりだよ」
一旦、話が途切れた。
間もなく、花火の打ち上げられる時間だ。閉園が近付いていることは二人ともわかっている。
改めて何かを告げようとする優の言葉を、ゆかりは待っていた。
「また長過ぎる友情を繰り返すのは、良くないと思うんだ」
途端に、少しだけ淋しさが瞳に差し込み、辺りの暗い景色が一際ゆかりの顔を曇らせた。
「……そう。……私はいいのよ、あなたと友達付き合いが出来て楽しかった。それだけで……」
俯いた彼女の顔を、怪訝そうに優が覗きこんだ。
「僕も楽しかったよ」
「だったら、お互い良い想い出が出来て良かったわ。またひとりに戻っても、私は平気……」
「僕は平気じゃないよ」
顔を背けるゆかりを追うように、頬に口づけた。
親愛に似た、やさしくあたたかい愛おしさが頬を伝わる。
ゆかりの身体が僅かにふるえ、よろめいて優の腕に掴まった。直前に、優のもう片方の手がゆかりの背に回り、支えていた。
「ごめん、思い違いをさせたかと思ったら、つい焦って……。大丈夫? 嫌じゃなかった?」
心配そうな優の顔を見上げることも出来ずに、ゆかりが弱々しい声で言った。
「……音楽から始まる恋は、もうしないんじゃなかったの?」
それにはしっかりと覚えのある優は、困ったように笑った。
「ああ、強がってそんなことも言ってたね。音楽からきみを知ったけれど、それとは別だよ。ちゃんと一人の人として向き合って、素のゆかりさんとも合いそうだって思ったよ」
「蓮華さんとは、もう叶わないから?」
少しだけ鋭い目が、彼を観察する。
「……もしかして、妬いてくれてたの?」
「……だって、『恋人以上の友達』なのよ? 十五年近くも築き上げてきたものでしょう? 私が敵うわけないじゃない」
「僕も蓮ちゃんも、ゆかりさんを知ったのはその頃だよ。十五年近くも活躍を見て来た。TVやCDでしか知らない人だったけど、そんな雲の上のような人がお店にも来てくれて、セッションしてくれて、カクテルを気に入ってくれた。そこまではファンで、憧れの人だっていう意識でいたけど……」
優の視線が一層柔らかく彼女に注がれた。
「僕もバーテンダーとして気に入られることはあっても、それは素の自分を好かれてるわけじゃない。だから、ヴィオリストでもバーテンダーでもなく会いたいって言ってくれた時、お互いに似た思いをしてきたんだってわかった」
「それは、……蓮華さんにそう教えてもらったからよ」
「蓮ちゃんが?」
「あなたと、素で会えばいいって」
目を見開いてから、優が、ふっと笑った。
「……蓮ちゃんのことは、時々心の底から感心する時がある。『さすが、ママだよな』……って」
優は、少し照れたように、ゆかりを見直した。
「素のゆかりさんとは、友達付き合いも新鮮で、面白くて楽しかった。蓮ちゃん以来、初めて異性を心からの友人と思えた。僕にとって、ゆかりさんは友人であり、……パートナーでもある大切な女だよ」
こみ上げてきたものは、ゆかりの瞳を潤ませ、煌めかせていった。
「私も同じことを考えてた。あなたとは素で話せて、気兼ねなく付き合える友人でもあり、……パートナーでもありたい、とも……」
その瞳に吸い込まれるように、優は彼女を支えていた腕を、そのまま引き寄せた。
近付いた瞳に向かい、ゆかりが問いかける。
「私でいいの? 本当に?」
「それは、こっちのセリフだよ。ゆかりさんこそ、本当に僕でいいの?」
「恋人以上の友達でパートナーにもなり得る……そんなの、私には優くんしかありえない。そばにいて、ずっと」
「いつも隣にいるよ。一緒にいたら楽しそうだね」
「そうね。きっと楽しいわ!」
ぎゅっと優が抱きしめ、背伸びをしたゆかりの腕は、優の首に回された。




