(1)懐かしい客
「今晩は」
眼鏡をかけた、シャツとジーンズ姿の男がカウンターに腰掛ける。
「潤くん、久しぶりね。珍しく普段着なのね」
蓮華が見つけ、微笑みかけた。
「先週から出張で、さっき戻ったんですよ」
「そうだったの。お疲れさま」
「ついでに実家に顔出して。ああ、ついでって言っても、神戸からわざわざ山梨に寄ったんですけど、母親がうるさくて」
潤はウィスキーをロックで頼んだ。
「奏汰が渡米してから、いちいちうるさいんですよ。ちゃんとやってんのか、毎日メールが来ないけどどうなってるんだ、英語はわかるのかとかね。僕に言われても知らないっつうの。お前もちゃんと食べてんのかって、ついでに聞かれるし。あ、土産にって桃もらったんですけど、僕一人暮らしだから、そんなに食べられないし、傷むし、良かったら、蓮華さんとお店の皆で食べてください」
「あら、ありがとう! いただくわね」
紙袋を受け取った蓮華は、カウンターの奥に行った。
グラスには丸く大きく削った氷がひとつだけ、そこに琥珀色のウィスキーがそそがれる。
優がグラスを差し出した。
「蓮華さんの様子はどうです? 落ち込んでません?」
小声で、潤が尋ねた。
「まあ、普通だよ」
優の言葉に少し安堵したような潤は、氷を溶かすようにグラスを回す。
「……しかし、奏汰のヤツ、何を考えてんだか。まったく僕には理解不能です。まさか本当に、好きな人より音楽を取るなんて。あ〜あ!」
一口すすると、潤はまた溜め息を吐いた。
しばらく黙って飲んでから、潤が打ち明けた。
「実は、最近派遣で来た女の子がね、なんかすごい積極的なんですよ」
「へー? お仕事に?」
「違いますよー。ああ、もちろん、早く仕事に慣れたいとは言ってますが、僕が同僚と昼食べに行く時も付いてくるし、よく仕事のことで質問してくるんです」
「いいことじゃない。周りとコミュニケーション取って、仕事にも一生懸命なんじゃないの?」
「もう、優さん、鈍いなぁ。その子、僕にばかり聞いてくるんですよ」
「えーっと、それは、潤くんの仕事とは関係ないのに、ってこと?」
「いえ、関係あります」
「ああ、そうなの……」
潤は落ち着かない様子で、カウンターの中を気にしていたと思うと、急に焦り出した。
「ヤバい! 蓮華さんが来た! 優さん、話そらして!」
蓮華は二、三言潤と話すと、別の年配客の方に呼ばれた。
「ふう、うまくごまかせた」
潤が汗を拭う仕草をすると、優が笑った。
「大丈夫だよ。聞かれても問題ないから」
「何を言ってるんですか。僕は、蓮華さんにとってキープで構わないって宣言してるんですから、他の女性の話をしているのを彼女が聞いてしまったら、面白く思わないでしょう?」
「そうかな?」
「そうですよ、優さん、女心がわかってませんねー」
優は吹き出しそうになりながら、「うん、そうなんだ。女心って難しくてね」と言った。
「そんなんじゃダメですよ。ま、僕も全然わかってませんが」
わかっていない自覚はあったのかと、優は、少しだけ見直した目で潤を見る。
「話が途中だったわね、潤くん、なんだったかしら?」
「ほら、僕の話を気にしてる」と優にこそこそと告げてから、潤は取り繕ってみせた。
「なんでもありませんよ、蓮華さん。ただ、最近入った女の子が、僕についてきて……はっ!」
うっかり話した潤が、慌てて口を閉じた。
「あら、良かったじゃないの。若い子に懐かれて」
蓮華は他意のない笑顔になると、年配客の方へ行った。
「ほら、ママ怒って向こうに行っちゃったじゃないですか」
「別に怒ってはいなかったと思うけど」
「絶対、怒ってますよ! 優さん、後でちゃんと言っておいてくださいよ、僕と派遣の子は何でもないって」
「わかった、わかった、ちゃんと伝えておくよ」
閉店後、一応、優が伝えるが、蓮華は何の話だったか覚えていなかった。
「その新しく来た女の子って、仕事教わる意味で、潤くんに付いてきたんじゃないの? それのどこが、あたしに伝えなきゃいけない話なの?」
「う、うん、蓮ちゃんに気を遣ってるみたいで……」
自信なさそうに、優の声は小さくなっていく。
ますます蓮華が、意味不明だという顔になった。
「よくわからないけど、……まあ、いいわ」
結局、気にも留めていない様子だ。
数日後には、百合子がやってきた。奏汰よりも一足早く、ウィーンに留学していて、一時帰国中だった。ピアノのコンクールにも出続けているという報告をする。
須藤と美砂も、たまに来ていた。
二人は、蓮華と優から見ると、まだまだ初々しい。
そして、この日は、優にとって懐かしい人物が来店した。
璃子と大輔。音楽大学時代の友人だった。
「後二時間で閉店時間だし、せっかくなんだから、もう上がっていいわよ」
蓮華の強い勧めで、優は仕事を切り上げることにした。璃子と大輔は一杯だけ飲み、着替えた優と三人で他のバーに出かけた。
「悪いわね、いつもママには気を遣ってもらっちゃって」
璃子が言った。
「お互い様ってことにしてるから。それより、さやかちゃんは?」
「実家に泊らせてるから、時間は気にしなくて大丈夫よ」
「じゃあ、今日は夫婦水入らずでデートだった? いいの? 僕お邪魔じゃない?」
大輔が笑った。
「今さら何言ってんだよ、邪魔なわけないだろーが!」
小学校で音楽の専科の教師である璃子と、中学校の音楽教師を勤める大輔は、優とは音大時代からの付き合いだった。大輔が近くの中学校に転勤になり、『J moon』にもたまに寄るようになっていた。
「二人はちゃんと昔からの夢を叶えてるし、続けてて偉いよ」
「確かに、学生ん時は、まさか優がこうなるとは想像出来なかったよなぁ」
「本当! ピアニストになるもんだとばかり思ってたわ」
「いやー、根性ないからさ」
「なに言ってんのよ!」
「バーテンダーになるのだって根性いるだろ? 凝り性だから、お前には合ってたんだろうけどな。柔軟だけど頑固なとこあるし」
「ああ、それわかるわ! だって、あの時もさ、学内コンクールに出ろって先生に言われてたのに出ないって突っぱねてて、結局ガーシュウィンの『ラプソディー・イン・ブルー』でなら出てもいいだなんて。しかも、アドリブ弾いちゃうとかね、唖然としたわよ!」
「もうその話はいいからさ〜」
優は、まったく二人には敵わないという顔で笑った。
思い出話に花が咲き、しばらくすると大輔に電話がかかり、席を外した。
璃子はショートグラスに口を付け、テーブルにグラスを置いてから、改めて優を見た。
「ねえ、大学の時、私、優くんのこと好きだったの、知ってた?」
動じることなく、優が答えた。
「うすうすね……」
「私のこと、少しくらいはいいと思ってくれたこと……あった?」
「あったよ。いいなとは思ったけど、大輔が璃子ちゃんのこと好きなの知ってたから」
「もう、相変わらず上手ね! 私のことなんか、女として見てなかったくせに。っていうか、同級生は対象外だったのかしら?」
璃子が苦笑した。
「仮に、優くんが私のことをいいと思ってくれたとしても、大輔に譲ったんだとしたら、それってやさしさだって言えると思う?」
「大輔はいいヤツだから。結果的にも、その方が良かったでしょう?」
「それは否定しないわ。今、私、幸せだもの。優くんはどうなのよ? 譲ったら幸せじゃないんじゃないの? ……って、例えが私じゃダメか。そうね、じゃあ、あの子ならどう?」
優は、少し考えてから璃子を見た。
「あの子って、どの子?」
璃子は憎らしいという顔で舌打ちした。
「ちょっと、どんだけ遊んでんのよ? ママやってる子のことよ」
「蓮ちゃんのこと?」
「付き合い長い蓮華ちゃんが、他の男に取られちゃったら?」
「取られるも何も、もともと僕のものじゃないし。彼女は年下が好きだし」
「ああ、優くんは、どっちかっていうと年上相手のことが多かったもんね……」
璃子は溜め息混じりに、頭が痛いというように額を押さえた。
「要するにね、私が言いたかったのは、優くんは、恋愛面では、周りのことを考え過ぎて、自分のことは後回しにしちゃって、結局大事なものを逃しちゃってないかってこと。それが心配なの」
「大丈夫だよ。そこまでお人好しじゃないし」
優は笑い飛ばし、氷の少し溶けたウィスキーを口に含んだ。
「あなたはいいかも知れないわよ。だけど、あなたのこと好きでも、振り向いてもらえなくて断念しちゃう人もいるのよ。絶対、知らない間に良い女逃しちゃってると思う!」
「それは、もったいないな」
「もう! 人事みたいに言って! だからね、自分の気持ちも大事にしないと。私も大輔も、優くんのこと心配してるの。あのお店をやる時は、蓮華ちゃんとは男と女にならないって決めたって以前言ってたけど、本当のところはどうなの? 優くん、意外と頑固だから。もしも、女として好きだと思ったら、頑に信念なんか守ってないで、少しは自分の思うように行動してみてもいいんじゃない? 大人同士なんだから。もちろん、あの子に限ったことじゃないけど」
少し睨むような目から、心配そうな目に変わる璃子に、優は穏やかに笑った。
「心配してくれてありがとう。その時が来たら、参考にさせてもらうよ」




