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カクテル・バー『J moon』  作者: かがみ透
第十一章『渡米準備』
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(4)旅立ち

 翔と予定していたニューヨークには一人で行くことになった奏汰は、渡米を目前に控え、閉店後の『J moon』で、蓮華と過ごしていた。


「とりあえず一年間は、ニューヨークでやってみるよ」


「翔くんもいなくて心細いだろうし、いろいろな困難があって挫折もするかも知れない。けれど、それは、絶対に無駄じゃないわ。帰ってきてからのあなたの今後に、大きな変化をもたらすはず」


 改めて、蓮華が、奏汰を見上げた。


「行ってらっしゃい、奏汰くん。心から応援してるわ!」


 嬉しそうな表情は、そう言った通り、心の底からだと伝わる。


 しばらく、彼女から視線を反らせなかった奏汰は、やっとの思いで、ずっと考えていたことを打ち明けた。


「俺がアメリカに行ったら、……蓮華は、自由にしてて」


 その言葉に、蓮華は、目で、聞き返した。

 奏汰の決心した表情は、変わらない。


「俺が帰るまで、俺のことを、待っていて欲しい、……なんて、言わないから」


 目を見張る蓮華に、奏汰は続けた。


「そんなこと言えない。言えた義理じゃない。今まで散々甘えてきたし、迷惑かけてきたから、これ以上、わがままは言えない。俺なりに考えた結論なんだ。もちろん、待っていてくれたら、こんな嬉しいことはないけど、……一年のつもりが二年、三年になったりするかも知れない。俺は好き勝手なことをやりに行くわけだから、今まで俺を自由にしていてくれた分、今度は、俺が、蓮華を自由にしてあげなくちゃいけないと思う」


「あたしを、……卒業するということなのね」


 尖ったところのない、柔らかい口調だった。


「あたしのために早く帰らなきゃ悪いとか、かえって気になっちゃうくらいなら、その方がいいわよね」


「別れたいわけじゃないんだ。待っててくれって言うのは、あまりに俺の甘え過ぎだと思うんだ。今まで、俺、蓮華のためになることしてこなかったから、俺なりに、蓮華のことを考えた結論なんだ。だから、俺がニューヨークに行ったら、……優さんと……」


 奏汰は、一度区切ると、思い切ってから言い直した。


「優さんと、……一緒になってくれていい。いや、なってて欲しい」


 絶句した蓮華の瞳が、大きく見開かれていく。


「優さんになら、蓮華を譲れると思う。本当だよ。逆に言うと、……優さん以外の(ひと)だと、嫌だっていうか」


 拗ねたように口を尖らせる奏汰に、静かに、蓮華が微笑んだ。


「……ありがとう。あたしは、結婚相手が欲しいとか、常に恋人がいないとダメだとか、そういうわけじゃないのは奏汰くんもわかってて、それでも、あたしのことを考えてくれたのは、素直に嬉しいわ」


 傷付け、怒られるかと思っていた奏汰は、蓮華の本心を見抜こうと、見つめる。


「こんなこと言い出して、本当は怒ってるんじゃ……?」


「……ちょっと淋しいけど、いつかは、奏汰くんは音楽の世界に羽ばたいていくだろうと思って、覚悟してたから大丈夫よ。そうじゃなきゃ、あなたみたいな可能性のある若い人とは付き合えないし、付き合っちゃいけないと思ってるから。だから、これは、あたしの、乗り越えなきゃいけない試練なの」


「どうして、蓮華はそんなに寛大でいられるんだ? 俺は最後まですごく身勝手なのに!」


「縛ったらいけないから。あなたは、あなたよ。あたしの『もの』なんかじゃないの。店を一番大事に考えるあたしは、ひとりの男の子の才能を、人生を、潰したらいけないの。あたしの父親みたいに。だから、強がりなんかじゃなくて、本当にこれでいいって思ってるのよ。奏汰くんが、私たちの分まで夢を叶えてくれるみたいにも思ってるから」


 蓮華は、父親を反面教師として見ていたのは、奏汰にもわかっていた。

 だから、年の離れた、心をなかなか見せない弟の琳都を心配していたことも、よくわかっていた。


「店を一番に考えるなら、蓮華の相手は、……俺よりも、優さんの方が適任だよな」


 吹っ切れた、冷静な微笑みで、蓮華を見つめる。


「……なんて言っていいか……。今まで、ごめん。好きになったら、いけなかったのかも知れない。そうしたら、もっと早く、蓮華だって、優さんとか、他のもっと蓮華を大事に出来る人と幸せになれたのかも知れないのに、無駄に時間使わせちゃって。俺が蓮華を好きになったために、蓮華のことを、結局は、こんな身勝手な形で……蓮華のために何もしないまま、まるで、踏み台にするみたいに……!」


 慌てて、蓮華が奏汰の腕を両手で包んだ。


「そんなことないわ! あたしは楽しかったわ。奏汰くんがいてくれて、仕事一色じゃなくて、張りが出来たし。無駄な時間だなんて思ってないわ。有意義だったわよ」


 改めて見上げる、奏汰への視線は、諦めた女のものではなかった。


「行ってらっしゃい、奏汰くん。見つけてくるのよ、自分の音楽を。それまでは、日本に帰って来ちゃダメ」


「蓮華!」


 堪え切れずに、奏汰は蓮華を抱きしめた。

 瞳が潤む。

 胸が抉られるように、痛い。


 蓮華は微笑みながら、少しだけ涙ぐみながら、エールを送るように、奏汰の背を軽くたたいた。




 もうひとり、話さなくちゃいけない人がいる。

 翌日の『J moon』閉店後、近くのバーで、奏汰は、優と会っていた。


「『J moon』を辞めてバーテンダーとして独立はしないで欲しい、と思ってます。そんなのは優さんの人生だってわかってますが、……俺は、そういう気持ちでいます」


 強い酒の力を借りたい気持ちもあったが、あえて、日常的に気軽に飲めるジントニックを傍らに、奏汰は切り出した。


「蓮華とは別れて、アメリカに行きます。もう、そう話し合いました。だから、俺には気を遣わなくていいです。今までも、蓮華を支えていたでしょうけど、それ以上に、彼女のことを護って欲しいんです。そうじゃないと、安心してアメリカに行かれません」


 一通り奏汰が話し終えるまで、ジンの入ったロックグラスを置いたまま、黙っていた優が、口を開いた。


「NYで打ちのめされて帰りたくなるかも知れない。だけど、そう簡単には帰れない状況――蓮ちゃんのもとへ帰るわけにいかない状況を作ることで、覚悟を決めたってことだね。奏汰くんの気持ちは、受け取ったよ。だけど、僕が、蓮ちゃんと一緒に『J moon』をやって行こうって決めたということは、男と女にはならないって決めたも同然なんだよ」


 その言葉、もっと早く訊いておけば良かった!

 訊く勇気がなかったために、苦労したというのだろうか?

 悩んだ当時に訊けば安心したかも知れないその言葉が、今では不安にかられるとは、皮肉なものだった。


「それでも、蓮華のこと、ホント頼みます。他の男がフラフラ寄って来ないように、優さんが蓮華と付き合ってて……いや、一緒になっちゃって下さい!」


 優が笑いながら遮る。


「いや、それは、蓮ちゃんの意志もあるから、一概には……」


「大丈夫ですから!」


 打ち消す奏汰の剣幕に、優は押され気味になった。


「だいたい、優さんが、そんな態度だから、俺が苦労したんじゃないですか!」


「え?」


 我ながら、ジントニックのアルコール程度で勢い付くとは。

 奏汰は、少し冷静になった。

 それを待ってから、優が応えた。


「だけど、蓮ちゃんは、僕を選ばないと思うよ」


「そんなことはないと思います。俺が言うのもなんですが、蓮華は、優さんには、友情以上のものがあると思います。優さんだって、わかってるんじゃないですか?」


「さあ、どうだろうね。お互いフリーの時だってあったけど、付き合おうとか、そういう話になったことは、一度もなかったよ」


 あっさりとした表情の優を、慎重に見つめてから、奏汰が口を開いた。


「それは、優さんの方が、……はぐらかしてたんじゃないんですか? 友情を続けるとか、お店を一緒にやっていくためとかで。本当は、蓮華のこと、どう思って……」


 目と目が合う。

 大人の男は、その表情からは、考えていることがまったく読み取れない。


「いや、やっぱ、いいです。そんなこと訊く権利、俺には、もうありませんから」


 ロンググラスを傾け、溜め息を吐いた。


「好きだったよ」


 落ち着いた優の声に、ドキッとして顔を上げる。


「きみたち二人一緒にいるところが」


「……またそんなことを」


「本当だよ。蓮ちゃんは付き合い長いから、今さら客観的に見られないっていうか……。でも、奏汰くんのことは、見ているうちに、自分の若い時を肯定出来るようになっていった。だから、僕は、きみたち二人というより、きみの方を応援していたんだよ」


 氷が溶け、ちょうど良い頃合いの、口に含んだジンが喉を通るのを待ってから、優は続けた。


「蓮ちゃんも僕も、始めは音楽を仕事に出来たらと思っていた。琳都くんも音楽が好きだったけれど、男なんだからちゃんとした職に就けって、お父さんの圧力は、蓮ちゃんに対してのものよりも強かった。琳都くんはセンスがあって、本当はアーティストになれる才能もあったかも知れないけれど、心を閉ざした演奏になってしまったのを、蓮ちゃんは、お父さんが力で潰したせいだと思ってる」


 奏汰は、静かに頷いた。


「他にも、音楽を仕事にしたくてもしなかった人は、たくさんいる。それぞれの理由で出来なかった人も、他の道が出来た人もいる。大事なのは実力や才能があるっていうことよりも、踏み出す勇気だと思う。そこから道は開けるはず。それと、続けていく強い想いだと。僕は、若かった頃の僕が叶えられなかった想いを、勝手にきみに托した気になっていた。だから、これでも、心からきみを応援しているんだよ」


「優さん……!」


 なんとも言えない想いがこみ上げてきた奏汰は、優に向き直った。


「うちの兄貴なんかより、優さんの方が、よっぽど兄貴みたいです!」


「ははは、潤くんね」


「はあ、俺、優さんとも離れて、やって行けんのかなぁ。いつも、優さんには助けられてたのに」


「奏汰くんなら、ちゃんとやっていけるから大丈夫だよ。時々でも連絡ちょうだい」


「あ、はい! 兄貴なんかには、一切連絡したくないけど」


 優が苦笑する。


「ついでに、もう一つ、頼んでもいいですか?」


「なに?」


「蓮華だけじゃなくて、その……兄貴のことも、……ああ、暇な時とか、うっかり思い出しちゃった時とか、ちょっとだけでいいから、気にかけてやっていただけませんか? もうとっくに気にかけてくれてて、既に、兄貴が迷惑かけてるとは思いますが」


「潤くん、話してると、なかなか楽しいよ」


「そんなわけないと思いますが、すみません、こんなこと頼みたくなかったんですが、兄貴が、勘違いで蓮華に変なことしないようにとかも」


 優が笑った。


「それは、蓮ちゃんが、嫌だったら、自分で防御するから大丈夫なんじゃないかなぁ」


「間違っても、俺の兄貴が蓮華と結婚するなんてことはないように、見張って、彼女を守ってくださいよ」


 奏汰は、それだけは心底嫌だというように訴えた。


「兄貴が他の女性(ひと)に目移りしてくれたらいいんですが……、それはそれで、また心配か。兄貴のことはともかく、くれぐれも、蓮華のことは頼みましたからね。俺が偉そうに言うまでもないとは思いますが」


「心配しなくても大丈夫だから、安心してニューヨークに行ってきなよ」


 奏汰は、優の目を見つめ、頷いた。


「……そうします」




 翌日、『J moon』従業員たちに、奏汰が瞳を輝かせながら言った。


「俺、NYに行く!」


「ええっ!?」


 従業員一同、驚き、奏汰に注目した。


「だ、大丈夫なのかよ?」


「うん! ビザ通ったから!」


「いや、ビザの問題じゃねーよ!」


 その日は、『J moon』で、従業員たちを中心に、お別れ会が開かれた。

 ただ飲み食いするだけであったが、そこに雅人と琳都も入っていた。

 蓮華の友人新香と京香も、若い従業員たちと混じっている。


「頑張って来なよ、奏汰くん!」


 エスニックな衣装で、新香が、奏汰の背中を、バン! と叩いた。


「いや~、きみが、まさかここまで、すごくなるとは思わなかったよ!」


 上機嫌の新香に、奏汰が照れ笑いになった。


「単にアメリカに行くってだけで、まだ何者にもなってませんけどね」


「身体に気を付けてね。向こうでは、食事が全然違うだろうから」


 経理担当の京香が、主婦らしい、やさしい気遣いを見せる。


 奏汰が「はい」と返事をすると、タケルが缶ビールの追加を運んできた。


 わいわい賑やかに飲んでいる奏汰たちを、カウンターのスツールで隣り合い、眺めている蓮華とゆかりは、二人で乾杯していた。


「本当に、ゆかりさんのおかげだわ。奏汰くんが羽ばたいて行けたのも。ありがとうございました」


 にこやかに笑う蓮華を見つめるゆかりの瞳は、少しだけ憂いを映している。


「でも、結果、あなたから引き離すことになってしまったわ……」


「いずれは、巣立っていくだろうって、そう覚悟してましたから。奏汰くんの前の子たちの時だって、そうでしたし。いつも覚悟はしてますから」


 明るく微笑む蓮華には、同情するのも失礼かと思い直したように、ゆかりも微笑んだ。


 カウンターの中からやってきた、自分の分のジントニックを手にした優が、ゆかりの隣に立った。


「随分、あっさり送り出したんだね、奏汰くんのこと」


 蓮華を、からかうような表情で見下ろしている。


「そうよ。思ったより早かったけど、嬉しいことだわ。本当にそう思えるのよ。それも、()()()()()()()、かな」


 蓮華は笑った。

 優も、笑った。


「蓮ちゃんて、思ったより偉いんだね」


「どういう意味よ? ひどいわね!」


「いい女になったんじゃない?」


「ありがと。惚れちゃダメよ~」


 優が吹き出し、蓮華は笑っていた。

 そんな二人の様子を、ゆかりは微笑みながら、見守っていた。


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