(3)幸運
奏汰が『J moon』でアルバイトをしてから、一年以上が経っていた。翔は、奏汰と共に音楽活動を続けることに迷いはなかったが、雅人は大学を卒業後、市役所の職員になっていた。バンド経験がある等の音楽経験者たちと、さっそくバンドを組み、休みの日には集まって練習し、発表の場もあるようだった。
シェアハウスには相変わらず四人で住んでいる。活動休止中の、雅人と琳都とのバンド『ワイルド・キャッツ』での練習や自由なセッションが、四人の息抜きにもなっていた。琳都も、不規則な映像関連の仕事の気分転換になるのか、微笑することも増え、音楽以外の話もするようになっていた。
ジャズ・ヴィオリスト香月ゆかりの正式メンバーに奏汰が決まり、後からギター青年の翔もメンバーに加わった。それをきっかけに、翔はエレキギターではなく、主にアコースティックギターに自ら方向転換した。
奏汰は散々迷った挙げ句、消音ベースを購入した。エレキも持ち歩きたかったことを考え、十五から二〇キロ近くもあるウッドベース(コントラバス)に比べ、重量も半分以下で済む。
そして、電子楽器に限らず生楽器であっても音質を曲の性質に合わせて変えられるエフェクター(電子機器)も、持っているものよりも小型で性能の良いものと、小型でもそこそこの音量に対応出来るアンプ(スピーカー)とセットで持ち歩いていたため、移動は、折りたたみ式のキャリーカートを使っていた。
翔と奏汰は、香月ゆかりのメンバーとして、都内のジャズレストランやバーで共演し、二人で横浜周辺駅の路上でも演奏していた。
広さのある場所では一組に限らず、三組ほどが距離を取って演奏することもあった。女性ボーカルのいる派手な曲を披露しているバンドの方が、同世代や少し上の代らしき若者が群がっていたが、奏汰たちは、あくまでもアコースティックの修行の場としていた。
そのおかげか、幸い、警察に、通行の邪魔だとか、音がうるさいと注意されることはなかった。
ボーカルも管楽器もドラムもない、ギターとベースのみの、ジャズや力を抜いたボサノヴァ、自分たちのオリジナルや即興で掛け合いなどがメインだ。
通りすがりに足を止めたのは、技術に見蕩れる人、ジャズ好きと思われる年配の男性たち数人で、たまに話しかけてくる男性もいた。
他のバンドやユニットの助っ人で、それぞれに演奏を頼まれるようになってはいても、シェアハウスで息抜きに友達と弾いてはいても、それらでは得られないものもある。
路上で演奏するのは、技術的にも近く、好み、感性も合った二人ならではの音楽だった。
場所代もかからず、出演料もないからこそ、気楽で自由だった。
わかる人にわかればいい。
そこでは、ライブで共演するアーティストたちの選曲や求められる演奏ではなく、自分たちの好きな音楽を放つだけだ。
仕事ではないからこそ、自分たちを一番出せる場所だった。
ゆかりとのライブ出演とアルバムのレコーディングに、奏汰は二曲、そのうち一曲は翔も一緒に参加したことで、二人は、たまに外国ミュージシャンとも顔を合わせることがあった。
中でも、ゆかりと共演の多いピアニスト兼オルガニストのベニー・ホワイトが、二人に声をかけた。
『今は、オルガンは持って来ていないけど、ニューヨークのライブ・バーには置いてあるから、来たら聴かせてやるよ! だから、来いよ!』
大柄で人の好さそうな顔の白人男性のベニーは、白髪の割合が多い金髪せいで、見た目は五〇歳代には見られにくいが、奏汰たちとも対等に接し、茶目っ気たっぷりに、身振り手振りで冗談を交える愛嬌のある様子は、年齢を感じさせない。
奏汰と翔が追求し続けてきたノージャンルの、特にボサノヴァ風のものを気に入り——音楽としてはまだ改良の余地はあるが、挑戦する熱意が素晴らしい! という褒め方で——二人を、自分のニューヨークでのレコーディングと、その後のライブにバンドメンバーとして招いた。
ただの愛嬌ではないのかと何度も確かめ、そこにいたゆかりも確認したが、どうやら本気らしかった。
ゆかりも喜び、有頂天になった奏汰と翔は、すぐに蓮華と菜緒にそれぞれ知らせ、飛び跳ねながら駅まで走ったのだった。
ニューヨークに行く日が見えてきた頃、ライブの後で、翔が真面目な顔で、奏汰に打ち明けた。
菜緒が入院した、と。
驚いて動揺する奏汰に向けて、翔は少しだけ笑った。
「心配すんな。命には別状ない。虫垂炎、つまり盲腸だって」
「それで急に?」
「たまたま俺がいる時だった。すげぇ痛がってたから救急車で運ばれて、柄にもなく俺も動揺して。菜緒は両親いなくて、それもあって、一緒に住んでたんだけどさ」
「えっ、天涯孤独って知ってて、心配させるようなことばっかしてたの!? 鬼畜か!?」
じろっと睨む翔だが、ふっと笑った。
「そうかもな。こいつには俺しかいないと思うと、安心してた。手術後、だいたい一週間くらいで退院できるって。原因は不明らしいけど、ストレスとかもあるらしくて。ここんとこ、仕事がキツかったのもあるだろうけど、俺のせいでもあるんだろうなぁ……」
黙っている奏汰を、翔が横目で見る。
「お前、否定しないんだな?」
「え? だって、それしかないだろ?」
翔は苦笑いをした後、これまで見たこともない、不安を押し隠した顔になり、目が潤み始めた。
「菜緒がいなくなったらと思うと……どうしていいか、わからなくなった。病院にも、ずっと付き添ってた。退院して一週間で仕事復帰出来るらしいから、それまでは一緒にいてやろうと思う。ベニー・ホワイトとのレコーディングに間に合わなくなる、チャンスを逃すなって、菜緒のヤツ、すげえ怒ってさ、初めて大ゲンカしたんだぜ。この俺がヘコむほどな」
翔が凹むなど、よほどのことだと、奏汰には想像がついた。
「だから、籍入れることにした。どこにいても、俺にはお前だけだって。それしか思いつかなかった」
驚いたあまり、奏汰は言葉を発するどころではなかった。
恥ずかしかったのか、翔は笑顔になり、冗談ぽい口調になった。
「まあ、俺がレコーディング参加がダメになったからって、同情なんかすんなよ。ライブだって参加できるんだし、ニューヨークには必ず後から行くから、お前は先に行ってろ」
普段の翔よりも落ち着いたように見えるのは、菜緒とのことで決着をつけたのが大きいのだろう。
彼が、どれほどベニーとのレコーディングを喜んだか、知っている。そのチャンスを逃したことよりも、手術をきっかけに菜緒との将来に向き合う選択をした。
それでも、ニューヨークに行く意志の強さは、その瞳から消えていない。
「翔は、菜緒さんのこと、ちゃんと考えてて偉いよ! かっけぇよ! 良かったな! おめでとう!」
翔は、ホッとした顔になった。
「先に行って待ってる。必ず来いよ」
口を真一文字に結んでから、翔は奏汰を見据え、拳を向けて言った。
「すぐに追いつく」




