(1)魔の英会話強化?
ウッドベースを手に入れていた奏汰は、借りていた消音ベースを返し、ライブ・バーでは、ジャズ・ヴィオリスト香月ゆかりのセッションに加わり、たまにコンサート・メンバーとして参加する日もあった。
翔も、ゆかりから声がかかる時は、エレキギターではなく、アコースティック・ギターを持参してセッションに加わり、コンサートでは、他の若手ギタリストと交代で出演していて、奏汰と共演することもあった。
雅人が率いるバンド『ワイルド・キャッツ』は、ジャズ・オルガン担当の琳都が就職し、奏汰と翔のライブ出演も増えたため、自然と活動は減っていったが、シェアハウスでメンバー四人がそろい、練習することは、全員の息抜きにもなっていた。
翔と、ドラムの雅人の周りでは、就職活動が始まっている。
翔は音楽活動を続けることに迷いはなかったが、雅人は、一般職に就くことにした。
奏汰は、ゆかりのバンドとライブ活動をしていくうちに、外国人プレイヤーともたまに顔を合わせることもあり、もっと英語が話せればと思っていた。
音楽だけでもコミュニケーションを図ることは出来るが、より細かいやり取りをしたくなり、自分の言いたいことも、伝えられたらいいのにという思いが強くなっていった。
そんなことを、蓮華に話していた。
「マークに、英会話教えてもらえないか、明日香ちゃんに聞いてみるわ」
蓮華が友人明日香にメールをすると、しばらくして、マークもOKだという返事が来た。
ただし、奏汰との時間がなかなか合いそうにないため、住み込みでなら教えるという条件だった。
「住み込み……」
「ホームステイ状態ね」
蓮華が笑った。
「でも、マークさんて、明日香さんと一緒に住んでるんじゃ……?」
「そうよ」
奏汰が遠慮がちに、蓮華を見る。
スマートフォンをスクロールしていた蓮華の指が止まり、笑みがこぼれた。
「もうすぐ結婚するんですって!」
「ええっ! 魔性の女も、とうとう……!」
驚く奏汰に、蓮華も、非常に嬉しそうに笑った。
「今の返事に、そう書いてあるわ! それでね、結婚式の二次会を、うちのお店でやりたいんですって。仕事関係者は呼ばず、友人だけで、ひっそりと」
「へえー! 意外だな! あ、……ってことは、俺は、新婚のお宅に泊まり込むってこと? ますます悪いよ」
「まあ、新婚っていっても、付き合い長いからね。もともと二人で住んでたし。マークも明日香も、了承したからこそなんだから、大丈夫よ。ホストファミリーみたいな感覚かも知れないわね」
蓮華が、少し考えてから続けた。
「もしかしたら、日常生活で使う言葉を教えるには、その方が手っ取り早いのかも。この際だから、そのうち、アメリカに行くつもりで、教わってくれば?」
奏汰は、目を見開いて、蓮華を改めて見た。
「……よくわかったね」
「わかるわよ。奏汰くん、アメリカに行きたくなったんでしょう? ゆかりさんも、ちょくちょくアメリカに行ってたし、外国人プレイヤーともセッションしてると、本場アメリカのジャズにも触れたくなるわよね。目的があった方が、英語の勉強もはかどるでしょう?」
蓮華の話を聞くうちに、奏汰の表情が明るくなっていく。
「ありがとう、蓮華……!」
蓮華を抱きすくめ、彼女の足が浮く程持ち上げると、小躍りするように、ぐるぐる回った。
「やだ、奏汰くんたら! 下ろしてよ」
蓮華が笑った。
奏汰は、蓮華を床に下ろすと、改めて見つめた。
「いつもありがとう。俺、頑張るから」
「うん」
嬉しそうに微笑みながら、蓮華は、奏汰の髪を、梳くように撫でた。
「明日香ちゃんのところに泊まるのは、ちょっと心配だけど、気を付けてね」
奏汰は、ふっと笑った。
「俺が、魔性の女の魅力に引き込まれちゃうって心配? それには及ばないよ。蓮華以外は、俺には映らない……」
唇が合わせられた。
目を閉じた蓮華の肩を抱いた奏汰は、さらに、大事なものを扱うように口づけた。
三〇代半ばほどのアメリカ人マークだが、十歳以上も年下の奏汰にも、対等に接する。
多少の日本語は使えても、あえて英語のみで話していた。
テキストなどは使わず、日常生活の会話をし、ゆっくりと彼が話せば、奏汰には、なんとなく伝わった。
簡単な料理もしながら、作り方を説明する。
奏汰も、それを繰り返し、発音も直されながら、一緒に調理していた。
夜は、リビングのソファを借りることになった。
外国製の広めのソファであり、奏汰が寝られるほどの大きさはあった。
アンプを通していないエレキベースを練習してから、奏汰は、ソファに横になった。
心地良く、眠りに落ちるには、時間はかからなかった。
夜中だった。
玄関のドアが開き、鍵を閉めた音の後に、足音が近付く。
リビングのドアが開くと、オレンジ色の小さな照明だけが点けられた。
「Hi, Mark. I'm home 」
小さく、女の声が、呼びかけた。
赤茶色の長いストレートの髪からは、煙草の匂いが振りまかれる。
千鳥足の音と、キッチンで手を荒い、コップに水を注ぎ、ごくごくと飲み干す音。
上着や衣服、ストッキングを、次々と脱ぎ捨てながら、「 I missed you!」歌うような甘えた声で、女はソファに近付くと、薄手の毛布に包まった者に、覆い被さる。
ソファの背を向いている顔を振り向かせると、長い髪を耳にかけ、女の赤いルージュの引かれた唇が、探り当てた唇を覆う。
甘い音を立てながら、もぞもぞと、食べるように赤い唇は動き回った。
「ん~、蓮華……?」
「……ん?」
うっすらと開いかれた目と目が合う。
「わあっ!」
「あら!」
女が慌てて、部屋の照明を明るく切り替えた。
赤いシルクのキャミソール姿だった。
「やっだー! 奏汰くんじゃないの!」
「明日香さん!? なにしてんですか!」
「ごっめ~ん! 間違えちゃった~!」
騒ぎを聞きつけて寝室から出てきたマークに、明日香が、酔っぱらって帰ってきたから、あなたと間違えたのだと英語で説明する。
反射的に、唇に付いたであろうルージュを急いで手の甲で拭い取り、ソファに座り直した奏汰は、怒られるだろうとビクビクしていた。
マークは笑い飛ばすと、奏汰の肩をポンと叩き、気にするなと言った。
それから、明日香をやさしく抱き寄せ、口づけた。
『今夜も、一段と綺麗だよ、ハニー』
『嬉しいわ、ダーリン!』
そのような会話と、終わりそうにない口づけに、思わず見入っていた奏汰は、はっとして、赤くなりながら、目を反らした。
「ごめんね〜! 奏汰くん、今日から『合宿』なんだったわね! すっかり忘れてたわー」
キャミソールのツーピース姿で、明日香は、ご機嫌に、ミネラルウォーターを飲み、奏汰と同じソファに座った。
マークが、彼女の脱ぎ捨てていった仕事着を拾い集め、洗濯機の方へ運んでいるのに気を取られながら、奏汰は言った。
「お二人の愛の城に、無粋な真似してすみません。しばらく、お世話になります」
「あら、気にしなくていいのよ〜! 人がいようといまいと、どうせ、やることは変わらないんだから!」
コロコロと笑う明日香を、奏汰は恨めしそうに見てから、少し呆れた目になった。
「で、どうだった? 魔性の女の口づけは?」
明日香は、ソファの肘掛けにもたれかかり、足を組むと、小悪魔的な微笑みになった。
それを、横目で見て、奏汰は答えた。
「精気が吸い取られていくような、血の気が引く思いでした」
「私はヴァンパイアか」
明日香は苦笑しながらも、面白そうに奏汰を見た。
「ねえ、NYに行ったら、蓮華とのこと、どうするの?」
足の先で、奏汰の腕をつつく。
「どうって……」
「単身で行くつもりなんだ? 多分、あの子、待ってると思うわよ〜」
「はあ、まあ、日本で待っててくれるでしょうけど……」
「そうじゃないわよ」
明日香が吹き出した。
「連れてっちゃえば?」
奏汰は目を丸くしてから、真面目な表情になり、明日香から目を反らした。
「からかわないでくださいよ。……お店があるんだから、連れて行けるわけないじゃないですか」
「お店は、優さんがいるんだから、接客面でも、なんとかなるでしょ。あと、共同経営者のエスニック路線のお友達——新香ちゃんだっけ? ——もいるんだし、蓮華なら、その間のことくらい考えるわよ。キミ、若いんだからさー、そんなこと考えずに、勢いで言っちゃえばいいじゃないの。年取ると、常識に囚われるし、つい計算しがちなんだけどさ、そこに、若くて純粋なエネルギーがぶつかって来たりしたら、『いいかな〜』って、フラフラ〜っとなる年上女は多いと思うわよ」
「……そんなもんなんでしょうか?」
眉間に皺を寄せる奏汰に、明日香は続けた。
「——ってカンジのドラマなら、書いたことあるわ」
「……ドラマの話ですか。現実は、そんなわけには……」
「もし、ついて行くのが無理でも、ちゃんと待ってると思うわよ。今の蓮華なら、キミに惚れてるから」
ミネラルウォーターをテーブルに置き、ソファに座り直した明日香が、真面目な、射抜くような目で、彼を見る。
その瞳を捉えたまま、奏汰も真面目な表情になった。
「……わかってます、明日香さんが、俺に、何を言いたいのか。茶化してるかのようだけど、実は……」
「あら、茶化してるだけよ」
唐突に遮った明日香を、思わず、奏汰が二度見た。
「説教垂れるつもりも、指南するつもりもないわ。ただ、どんな方に向かうのか、見てみたいだけ」
魔性の女は、好奇心に満ちた物書きの目になり、にっこりと微笑んだ。




