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カクテル・バー『J moon』  作者: かがみ透
第十章『疑似恋愛』
45/72

(5)『ブルームーン』と「ジャックローズ」

 軽音楽の部室では、レパートリーの数曲を合わせ、一通り練習が終わる。

 雅人が総菜パンと缶コーヒーでくつろぎ、奏汰と翔は、レコーディングで共演する『Night and Day』のスローなボサノバ・バージョンを練習していた。

 その合間に、奏汰が切り出した。


「琳都がいると言いにくかったんだけど……、あのさ、同時に、二人を好きになるなんてこと、あるのかな?」


 その直前に、二人の女子が「失礼します」と入ってきたことに、彼は気付いていない。


 怪訝そうに顔を上げた翔と、ぎょっとして目を見開いている雅人、どことなく顔を赤らめながら、思い切って打ち明けた奏汰とを見比べた、腕に「広報」の腕章を付けた二人は、「ごめんなさい! お取り込み中に、すみませんでした!」「出直します!」などと言いながら、慌てて出て行ったのだった。


「あ、待って! 誤解だよ! 俺はノーマルだからねー!」


 すぐさま、雅人が追っていく。


「こら、雅人! 自分だけ弁解するんじゃねーっ! 俺だってノーマルだって、そいつらに、ちゃんと言っておけーっ!」


 ドア越しに翔が叫ぶが、三人の姿はすぐに見えなくなった。


「何の話だ?」


 キョトンとしている奏汰を、翔は、じろっと振り返った。


「とにかく、全部、お前のせいだからなっ! 最近、お前のせいで、ホント迷惑なことになってんだぜ。後で、俺たちに、一杯おごれよ」


「ああ、そう? わかった」


 「まったく……」と、ぶつぶつ言いながら、翔はギターの練習に戻り、奏汰も黙ってベースの弦を弾いた。




「それで、さっきは、何を話そうとしてたんだ?」


 居酒屋では、中ジョッキのビールを、ガブッと飲んでから、珍しく、翔から奏汰に尋ねた。中ジョッキを手にする雅人も、奏汰の言葉を待つ。


「うん……」


 ジョッキをテーブルに置いた奏汰は、少しの間、俯いてから顔を上げた。


「同時に、二人の女性を好きになるなんてこと、本当に、あるのかな?」


「な~んだ! 俺たちのことじゃなかったんだな! 良かった! ……ってことは、……お前、それ、ヤバくない?」


 頭の中で、奏汰の言葉を繰り返すうちに、焦って彼をまじまじと見つめる雅人だったが、翔は、特に驚く様子はない。


「へー、お前でも、浮気すんだ?」


「前にも、一回あって。同世代の女の子と」


 相手が美砂だということは、美砂に憧れていた雅人の前では伏せていようと思い、奏汰は、あえて同級生と言わずに、同世代と言った。


「その女の子のことも好きだと思ったけど、その子には『恋』で、蓮華には『愛』だって気付いた。今回も、両方、やっぱり好きで。一時(いっとき)のことは、浮気だろ? 音楽から発祥した疑似恋愛だって、お互いわかってる。でも、止められたくない。彼女も、ますますいい音楽を奏でてて、俺もますます彼女の音楽にかかわっていたいと思った」


「お、おい、ちょっと待て。まさか、その相手って……まさか!?」


 翔が動揺し始め、絶句した。


「ん? 誰だ? 翔も知ってる人なのか?」


 雅人は、翔の様子を不思議そうに見ていた。


 翔が、やっとのことで口にした。


「俺でさえ、あんな大物、口説こうとは思わなかったぜ!」

「口説いてないよ、成り行きだよ」

「はあ!? どこをどうしたら、成り行きで、そんなことになんだよ、お前みてぇなコドモなヤツと、あの(ひと)が!」


 雅人は、翔と奏汰を交互に見て、ぽかんとしている。


 咳払いをしてから、翔は、いくらか冷静さを取り戻した。


「……ま、本当に成り行きでそうなったら、断れない気持ちはわかるけどな。確かに、いい女だし、俺だって、絶対断らねえし」


 翔が、ジョッキを傾けた。


「あのバーのねえちゃんをつなぎ止めてるくらいだから、お前には、大人の女を惹き付けるモンがあるのかも知れねえが……俺には、サッパリわかんねぇけど」


「俺も、わかんないよ」


 翔に、そう答える奏汰を、雅人も頷きながら、「俺も。翔なら、わかるけどなー」と言い、イカとじゃがいもの煮物をつまみながら、奏汰を改めて眺めた。


 自分とは同郷の山梨の出であり、東京に実家のある翔のようには、もともとはあか抜けていなかったはず。自分ともさほど変わらない同級生だと思っていた。

 生まれつきの茶髪と大きめのつり目を、格好良いと言っていた同級生の女子もいたが、童顔であるのがマイナスポイントだと、奏汰本人も雅人も思っていたのだ。


 それに比べ、翔は、俳優やタレントだと言っても通るほど、整った顔とスタイル、着こなし等で、大学でも目立つ存在であり、先輩から後輩まで注目を浴びていた。ライブでも、女性ファンが多かった。


 雅人は、不思議でならない様子で、奏汰を見つめ、首を傾げていた。


「それで、お前は、あの(ひと)と、ねえちゃん、二股かけてんのか? それとも、あの(ひと)に乗り換えるつもりか!? まさか、もうやったのか!? この俺でさえ、リスペクトし過ぎて手を出せないあの(ひと)の彼氏が、お前ごときだなんて、そんなことは、認めねえからな!」


 凄んでみせる翔に、奏汰は、唖然としてから、答えた。


「やってないし、彼氏ってわけじゃないよ。彼女が求めてそうな時だけ、……こう、ぎゅっと……」


 奏汰が抱きしめる素振りをする。


「わかった。もうわかったから」


 はあ、と翔が、がっかりしたような溜め息を吐く。

 「うわ~……」と呟いた雅人の頬が、赤らむ。


「彼女は彼女で、蓮華とはまた別で。だから、蓮華への想いが薄れることはないんだ」

「ああ? なんだと?」


 翔も雅人も、眉間に皺を寄せる。


「やっぱり、これって、おかしいよな? 翔、お前、しょっちゅう浮気してただろ? それは、どういう感じだったんだ? それを訊きたかったんだ」


 奏汰が、真面目に翔を見つめた。

 救いを求めるような瞳だった。


「相変わらず、普通は訊きにくいことをズケズケと……」


 翔は顔をしかめ、苦笑した。


「俺のは、はっきりと、『浮気』だって言える。狩りみたいに、女を振り向かせ、征服すれば気が済んだからな。ま、疑似恋愛だろうな。菜緒に対しては、どっちかっていうと、お前と、あのバーのねえちゃんの方なのかな。お前たちと同じく、俺と菜緒との関係は、簡単には壊れない気がする。だけどな、今のお前の疑似恋愛は、まったくの奉仕活動だぜ。そんなんで、お前は、いいのか?」


「いい」


 断言する奏汰を、翔は見据えた。


「その(ひと)のこと、好きではあるんだ。蓮華の場合は、蓮華本人を好きだけど、その人に対しては、根底は『音楽』で。だから、人間的に好いているのかっていうと、微妙にズレてるのかも知れない。でも、今すぐやめるなんて出来ない。彼女とは、可能な限り、音楽を一緒にやっていきたい。でも、蓮華のことも大事で、心から好きなのは、やっぱり蓮華なんだ。蓮華だから、こんな変な状態も理解してくれてるんだし」


「はー。……まったく、お前みたいな真面目で不器用なヤツが、下手に浮気なんかすると、いらない苦労することになるぜ!」


 やれやれと、翔は、呆れて奏汰を見た。


「でも、割り切ってはいるんだな?」

「うん」


 決意の固そうな奏汰を、半分感心したように見ていた翔だが、改めて、じろじろと見直した。


「しかし、……お前が浮気ねぇ……。似合わねぇな」

「浮気じゃないよ」

「お前は、そのつもりでも、(はた)から見たら、浮気の部類だぜ」

「あ、ああ、……うん」


 否定し続けていた奏汰であったが、認めざるを得ないように、頷いた。

 雅人が、二人を見ながら、言った。


「俺なんか、浮気なんてしたことないよ。彼女がいた時だって、他の女の子と浮気するなんて、面倒臭くて。俺、そんなに器用じゃないし。浮気すると隠さないとならないから、アリバイ作ったり、両方に対してマメじゃないと、同時進行なんて、とてもとても出来ないだろ? 隠し事に頭使って、神経使って、そんなの疲れるぜ。そんな思いするくらいなら、モテなくていいし」


 雅人が笑う。


「まあ、俺は、浮気してても別に隠そうとしなかったし、奏汰の場合も、ねえちゃんたちそれぞれが公認みたいなもんだからな、そういう苦労はしてないわけだが」


 翔が、笑いもせずに言った。


「お前ら! それは、お前らの『本命カノジョさん』たちが、寛大過ぎるぜ! いくら相手が年上だからって、その寛大さに甘え過ぎだろ? 隠し通すのが礼儀だ! 普通なら破局だぜ、破局!」


 雅人が一喝するのには、二人とも、言い返せないでいた。


「……雅人が一番良くわかってるよな。人生うまくいくような気がする」


 奏汰が、尊敬の眼差しで、雅人を見た。


「ホント。お前、一番先に結婚するんじゃねぇの?」


 意表を突かれた翔も、感心したように、雅人に注目する。


「えっ、そうかな?」


 途端に、雅人は、ヘラヘラと笑うと、中ジョッキをおかわりした。




「ちょっとお願いがあるんだけど」


 そうメールで呼び出された翔は、ゆかりと居酒屋に来ていた。

 ゆかりは、中ジョッキのビールを飲むと、カウンターの隣に座る翔に、微笑みかけた。


「今日は、奏汰は、ベースのレッスンの日よね?」

「はい。今頃は、吉祥寺ですね」


 ビールを一口飲んだ翔は、ジョッキを置き、これまで女たちを落として来たスマイルで、ゆかりに応えてみせた。


 奏汰不在の日に、自分に声をかけたということは、俺にも脈があるはず! と、確信していた。

 外見でも、音楽面でも、自分が奏汰に劣るはずはないのだから。


 ゆかりは、微笑みを絶やさず、尋ねた。


「翔は、奏汰と一緒に住んでるんでしょう? 彼と、付き合いは長いの?」

「そんなでもないです。一緒に住んだのだって、半年も経ってないし」

「そうなの? でも、演奏は息が合ってたわよ」

「ああ、二人で散々練習しましたから。あなたと共演するために」


 熱い視線を、ゆかりに送るが、ゆかりが意識して、頬を染めるということはなかった。

 その代わりに、微笑む彼女の瞳が、きらりと光った。


「それで、……翔なら知ってるわよね? 奏汰の彼女のこと」




 翔とゆかりは、電車で横浜に着くと、並んで歩いていた。


「どうしても、私は、その(ひと)に会わなくちゃいけないの。だから、お願い!」


 居酒屋で、ゆかりに、そうせがまれた翔は、逆らえず、たじろいだ末に、「……まあ、あのねえちゃんなら、なんとか出来るか……」と思い、横浜まで来てしまったのだった。


「あら、ここって、前にも来たことあったわね」


 ゆかりが辺りを見回している。


 翔は、地下の階段を下りて行き、バー『J moon』の扉を開けた。

 ドアの近くには、落ち着いた赤い色のワンピースを着て、髪をアップにした蓮華がいた。


「よ、よう、蓮華さん、今日も綺麗だね!」


 蓮華が振り返り、愛想笑いを浮かべる翔を見た。


「あら、翔くん、お世辞なんか言っちゃって、何の魂胆が……あっ!」


 翔の後ろから、ゆかりが顔をのぞかせた。

 蓮華は驚いた顔になるが、「まあ! ……いらっしゃいませ!」と、すぐに、いつもの親し気な笑みを浮かべた。


「蓮華さんなら、大丈夫だよな? うまくやれるな? じゃ、そういうことで、後はよろしく!」


 翔は、ゆかりを置いて、逃げるようにして去っていった。


「お仕事中、ごめんなさい。何時でも待つから、少し、お話し出来ないかしら? ダメなら、出直すわ」


「いいえ、大丈夫です。少々お待ち頂いてよろしいでしょうか? ベイサイド・ホテルのラウンジが落ち着いてお話し出来るので、そちらはいかがでしょう?」


「わかったわ。そこで、お待ちしてるわね」


 蓮華は、優に仕事の指示をしてから、間もなく店を出た。

 ワインレッドのワンピースに、ところどころレースをあしらった仕事着姿のまま、ウェーブのロングヘアをアップにした蓮華が、ラウンジに辿り着く。


 ライブやコンサートの時は、いつも紫色のタイトなワンピース姿で登場するゆかりを見慣れていた蓮華は、彼女のトレードカラーである紫色のシャツと黒いタイトスカート、カールした茶色のロングヘアが、妖艶というより、好感の持てる、品の良い大人の女性に映り、見蕩れていた。


「あなただったのね」


 ゆかりが蓮華を見るなり、納得のいった顔で、微笑んだ。

 二人は、赤ワインを頼んだ。


「初めてお会いした時は、突然大勢で押し掛けちゃって、ごめんなさいね」

「あ、いいえ、突然でもいらしていただければ、有り難いです」


 口を付けたワイングラスをテーブルに置き、ゆかりは、蓮華もワイングラスを置くまで待ってから、切り出した。


「一連のことは、ご存知? 私と奏汰の関係も」


 蓮華は、俯いて、こくんと頷いた。


「どんな神経してるのかと思われようが、私は、あなたと話してみたかった。奏汰のお相手と」


 ゆかりは、蓮華の表情を見つめながら、語り出した。


「私と彼とは、単なる疑似恋愛よ。お互いに、一線は、越えないようにしていたわ。私も、恋人が欲しかったわけじゃないの。疑似で良かったのよ。そうじゃないと、……溺れていたかも知れない」


 蓮華の肩が、ぴくっと強張(こわば)った。


「そうなったら、全部が台無しになるところだった。私も、若くはないから、そのくらいの分別はあるつもりよ。だから、本当よ。奏汰を信じてあげて。これまで突っ走って来たのを、彼にいたわってもらって、癒してもらっただけなの」


 ゆかりが、気遣うように蓮華を見る。


「彼の話は、信じてはいました」


 と言って、蓮華は少し笑った。


「今、お話を聞いていて、ゆかりさんの誠意も感じられました」


 続きを話そうとする蓮華に、ゆかりはある覚悟の現れた表情になるが、蓮華は、ゆかりにとって、おそらく予想外なことを切り出したのだった。


「奏汰くんを、お願いします。音楽面でも、どうぞ導いてあげてください。奏汰くんの才能を成長させてあげられるのは、ゆかりさんだけだと思っています。そして、もし、疑似恋愛が、愛に変わった時は……」


 蓮華は、どこか淋し気な微笑になって、続けた。


「あたしには、遠慮しないでもらいたいのです」


 ゆかりの目が、見開かれていく。


「……取らないで、って言われるとばかり思って、覚悟してきたのに……。どうして、あなたは、そんな風に思えるの?」


 蓮華を気遣うように見るゆかりの目に、蓮華は、微笑しながら応えた。


「ゆかりさんのことも、奏汰くんのことも、大好きで、信頼しているからです。奏汰くんは、あたしの『もの』じゃない。彼は、彼です。あたしは、彼を縛り付けて、可能性を潰すようなことはしたくないんです。だから、……お願いします」


 蓮華は、頭を下げた。


「あなたは、奏汰の才能を、伸ばしてあげたいのね。私も、同じよ。彼は、まだまだ伸びるわ。だから、もっと伸ばしてあげたいと思っているわ。だけど……」


 ゆかりは、テーブルの上のワインに、視線を落としたが、ワインを見ているようではなかった。


「……私は、自分の音楽のために、彼に甘え過ぎてきたわ。自分のことしか、考えてこなかった。だから、ずっと独りの時間が長かったのね」


 蓮華が顔を上げ、少し慌てたように言った。


「あ、あの、奏汰くんとの疑似恋愛でしたら、あたしに気を遣って、やめてくれなくていいんです。あなた方の音楽のためなのですから。口に出さなくても、奏汰くんが、あなたのことが好きなの、あたしにもわかります。あたしは、あなた方の『(かせ)』には、なりたくないんです」


「もういいのよ」


 やさしい口調で遮ると、ゆかりは微笑んだ。


「あなたと話していたら、気が済んだわ。あなたの考えも、よく理解したつもりよ。これからは、奏汰を育てることにするわ。疑似恋愛は、もういいの。彼の才能を伸ばすことに専念するわ。私が、そうしたくなったのよ」


 ゆかりは、蓮華の手を握った。

 蓮華が、はっと、ゆかりを見る。


「蓮華さん、あなたと話せて良かったわ。勇気を出して、あなたに会った甲斐があった」


 吹っ切れた笑みを浮かべるゆかりを見つめるうちに、蓮華の瞳は、潤んでいった。


「あたしも、……ゆかりさんとお話し出来て、良かったです……!」


「私たちは、音楽を愛し、仕事を愛する者同士。似た人が頑張っているのを知って、元気をもらえたわ。ありがとう!」


「そんな! 似ているだなんて、もったいないお言葉だわ! こちらこそ、ありがとうございます……!」


 蓮華が感激し、その瞳は、ますます潤んでいった。


 その後、ゆかりは、蓮華と『J moon』に戻った。

 カウンターに、ゆかりが腰掛けると、カウンターの中から、優が目を丸くした。


「ジャズ・ヴィオラの香月ゆかりさん……!?」

「どうも」


 ゆかりが、にこっと微笑んだ。


「蓮華さんの、お友達になったの」


 蓮華は、未だに潤む瞳で、嬉しそうに微笑んだ。


 日頃はポーカーフェイスである優だが、蓮華とゆかりを見て、しばらくは驚きを隠せないでいた。


 ゆかりに頼まれた優は、適当にカクテルを作る。

 好きなスピリッツや、苦手なスピリッツ、リキュール類を尋ね、味の好みも訊いてから、シェイカーを振るう。


 ゆかりの前には、紫色の飲み物に、赤いマラスキーノ・チェリーが沈んでいる、カクテルグラスが置かれた。


「……美味しい! 香りも良いわね! これは、どんなカクテルなの?」


 優を見上げると、優は、やさしく微笑んだ。


「すみれの色と香りを再現したバイオレット・リキュールを使った『ブルームーン』というカクテルを、少しアレンジしてみました。カクテル名は、『YUKARI』です」


 ゆかりは、嬉しそうに笑った。


「ありがとう。『ブルームーン』て、ジャズの曲にもあるわね」


「はい。作曲は、意外にもリチャード・ロジャースですが。『ベイブ』って子豚の映画でも、ちらっと出てきますね」


「そういえば、そうだわ!」


「ブルームーンとは、一ヶ月に満月が二回あることで、月が青く見えるそうです。カクテルの『ブルームーン』は、バイオレット・リキュールとジン、レモンジュースを使うんですが、こちらは、それにちょっと一工夫してみました」


「どんな?」


「それは、秘密です」


 にっこり微笑んだ優に、ゆかりはくすくす笑った。


 スマートフォンで検索した彼女は、面白そうな顔になった。


「『ブルームーン』のカクテル言葉は、『幸福な瞬間』『奇跡の予感』『出来ない相談』とか、良い意味も悪い意味もあるようだけど、どれかしら?」


 優は、ゆかりの面白そうな表情を、さらに面白そうに見つめた。


「どれでもお好きなものを。僕からすれば、そうですね……、『奇跡の予感』は、いかがでしょう?」


「素敵ね」


 ゆかりが笑った。


「あなたのカクテル、すごく美味しいわ! また来ていい?」


「光栄です。いつでも、どうぞ。お待ちしております」




「お疲れ。いろいろ」


 閉店後の従業員も帰った後、優が、カウンターに座る蓮華に差し出したのは『ジャックローズ』だった。

 逆三角形のカクテルグラスには、赤く透明なカクテルがそそがれていた。


「優ちゃんこそ、ゆかりさんに、ありがとうね。遠慮なく、いただくわ」


 蓮華は微笑み、カクテルに口を付けた。


「美味しい。カルヴァドスのりんごの甘い風味と、サッパリした後口。さすがね」


「どういたしまして」


 優が、わざとかしこまった礼をする。


「アップル・ブランデーとライムジュースにグレナデン・シロップね」


「そう。アップル・ブランデーの甘さと、ライムジュースの酸味と爽やかさが、まさに、酸いも甘いも知っている大人の女性にぴったりだと思ってね」


 制服のままであっても、彼の口調も表情も、バーテンダーの時と違い、くだけた友人に戻る。


「優ちゃんにしては、いつもより甘めね」


「その方が、今の蓮ちゃんには、もしかしたら、いいのかなと思って」


 蓮華はカウンター越しに優を見つめ、ふっと、肩の力を抜いたように笑った。


「あたし、ちょっと偉かったのよ」


「へえ、そうなんだ?」


 優は、からかうような笑みで、蓮華を見ている。


「どこまで、わかってるの?」


「う~ん……、奏汰くんが、ゆかりさんと仲良くなって、蓮ちゃんは、それを認めてあげた、もしくは、譲ってあげたとか?」


 蓮華は驚いた顔になり、「はあ」と、感心に近い溜め息をもらした。


「やっぱり、優ちゃんには、何もかもわかっちゃうのね」


 途端に、優も驚く。


「えっ!? もしかして、当たりだった!?」


「また! トボケちゃって!」


「いやいや、ホントに知らなかったんだよ! いやあ、奏汰くん、すごいんだね!」


「……まったく、優ちゃんてば……」


 ぶつぶつ言う蓮華が、大きく溜め息を吐いた。


「奏汰くんて、バカ正直っていうか……、嘘が付けないみたいで。ゆかりさんとの疑似恋愛は、音楽のためにはお互いに必要だったことだから、浮気してるつもりはないって、堂々と。心から好きなのは、あたしだなんて、いかにも、浮気してる男の人が言うようなことを言うのよ。まあ、信じたけどね」


 蓮華は、再び溜め息を吐き、仕方のなさそうに笑った。


 優は、あたたかい微笑みになった。


「奏汰くんの場合、ごまかすとかじゃなくて、多分、本気でそう思ってるんだろうね」


「あんまり正直過ぎるのも、どうかと思うわ」


「正直であるべきだと信じてる時期は、僕にだってあったよ」


「奏汰くんの場合、ずっとかも?」


「実は、僕も、今でもそう信じてるよ」


 優が、笑った。


「そうよね。正直でいる方がいいわよね」


 互いに、苦笑いになった。


「優ちゃんの場合は、そう思ってはいても、それを表には現さないでしょう?」


 意地悪そうに、蓮華が言った。


「まあ、時と場合によっては、隠し通すかな」


「ホント、食えない人ねー!」


 しれっと応える彼を、蓮華は憎々し気に見た。


「その方が助かるわ。でも、あの純粋さが、奏汰くんらしくて、かわいいんだけどね」


 困ったように笑うと、優も、奏汰を思い浮かべ、自然と微笑ましく笑っていた。


 二人は、くすくす笑い続けてしまうのを、止められなかった。




 宣言した通り、ゆかりは、奏汰との疑似恋愛は止め、音楽面で育て、鍛えることにしたと、彼に話した。

 彼女がそう決めたのならと、奏汰も、それに応えることにした。


 メンバーの中には、二人が音楽面で意気投合していたのを、信頼し合い、仲が良いと捉えた者もいれば、恋愛関係なのかと勘ぐる者もいたが、その後の二人を見ているうちに、意気投合している男同士の友情のようなものだろうと見られるようになった。


 奏汰は、恋愛は、蓮華とだけにする、と蓮華と二人で会った時に話した。


「蓮華を泣かせちゃいけない。雅人にも言われたけど、今まで、俺が、甘え過ぎてた」


 蓮華は笑い飛ばした。


「なーに言ってるの。奏汰くんが疑似恋愛中でも、あたしは、泣いてなんかいなかったわよ」


 奏汰は、遠慮がちに、蓮華を見た。


「でも、本当は、泣きたかった?」


 途端に、蓮華の目に、涙が溜まっていく。


「……そんなこと、……訊かないでよ」


「ああっ、ほら!」


 ポロポロとあふれる涙を拭う蓮華に、奏汰が慌てる。


「もう痩せ我慢はしないって、決めたから……」


「うん、蓮華、そう言ってたよね。だから、話して」


 奏汰が、蓮華の肩に手を置き、顔を覗き込んだ。


「心配だった。ヤキモキはしてた。でも、彼女になら……いいって……覚悟してた」


 奏汰は強く蓮華を抱きしめた。


「ごめん! やっぱり、俺、いつも、蓮華に甘えてて、ダメだな! 蓮華なら、わかってくれるからって思うのは、甘えすぎだった。ごめん! 一番大事なのは、蓮華だから!」


【参考楽曲】

『ブルームーン』リチャード・ロジャース作曲。作詞ロレンツ・ハート。


【カクテル】

「ブルームーン」:

 ドライジン、バイオレット・リキュール、レモンジュース。

「YUKARI」:

 「ブルームーン」をアレンジした優のオリジナル。

「ジャックローズ」:

 カルヴァドス、ライムジュース、シロップ、グレナデン・シロップ。


【参考文献】

「カクテル」上田和男著(西東社)

「カクテル完全ガイド」(池田書店)


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