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カクテル・バー『J moon』  作者: かがみ透
第十章『疑似恋愛』
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(1)ヴィオラと「キール」

 奏汰が、バー『J moon』に来てから、一年ほどが経つ。

 翔のギターと奏汰のベースのデュオ『なんちゃってペガサス』を気に入った蓮華は、演奏データを店のBGMで流し、店を利用する業界人に聴かせたりしていた。


 翔と奏汰も、ネットで動画を配信していた。

 そこそこ再生されてはいるが、一般的に好まれるというよりもマニアックなため、流行るわけではなかった。


 それでも、二人は構わなかった。今は、自分たちの思うものを貫くのみと思っていた。


「おい」


 不機嫌な顔の翔が、不機嫌な声を出す。


「最近、お前と一緒にいることが多いからって、世間では、こんな誤解されて迷惑なんだよっ!」


 リビングで仁王立ちになっている翔が、奏汰にスマートフォンの画面を、押し付けるようにして見せた。


 そこには、奏汰と翔の隠し撮り写真があり、SNSの片隅で密かに出回っているようだった。


「一部の、おそらく腐女子の間で、こんなやり取りまで!」


 翔が、奏汰を壁に追い詰めている、所謂『壁ドン』している場面であった。


『ツンデレ翔くんが、我慢出来ずに、カワイイ奏汰くんに迫ってる!?』


 または、逆に『奏汰くんが攻め、翔くんが受け?』と、奏汰が翔を壁に追い詰めている写真もあった。


「これ、どう見ても合成だろ?」


 奏汰が、画面越しに、翔を見た。


「んなこたぁ、俺だってわかってるんだよっ! それと、これも!」


 次に翔が見せた画面にあったのは、二人のやり取りを、イラストで描いたものだった。


「今までのライブの画像と、ヒーローライブのまで? 書き込みの中には、俺と翔がヒーローの『中の人』になってたとかいうデマまであるな……。だけど、それ、元々お前の『追っかけ』だろ?」


「知るか!」


「ーーにしても、このイラスト、良く描けてるなぁ。俺たちって、少女漫画風なイラストだと、こんな感じになるんだ?」


 奏汰が、ゲラゲラ笑い出した。


「笑い事じゃねぇ!」イライラと、翔が声を荒げる。


「これ、蓮華に送ってみるか。お前も、奈緒さんに送ってみろよ」

「やめろ、バカ!」


「みんな、勝手に面白がってるだけだろ? そんなの気にしなくても」

「いいや、大迷惑だ!」翔が、凄んでみせる。


「俺の『クールなイケメン』イメージが崩壊すんだろ!」

「その方がいいんじゃないか?」

「はあ!?」


 その時、二階から、軽快に降りて来たのは、雅人だった。


「見たぜ~、お前ら! ははははっ!」


 階段を踏み外しそうになりながらも、雅人は笑い転げていた。


「新着のなんか、こんなのもあるぜ!」


 雅人が見せたものは、琳都に合成でメガネをかけさせ、翔とツーショットであったり、奏汰と翔にメイド服を着せたり等、一見、自らコスプレしているかのような画像であった。


「俺は、いじられキャラじゃねぇ! 全部、お前のせいだからな!」


 翔は凄みを利かせ、笑い続ける奏汰に念を押すように何度も言った。




 ジャズ・ヴィオリスト香月(かげつ)ゆかりーー

 バイオリンよりも一回り大きいヴィオラで、パワフル、エネルギッシュな演奏が人気であった。


 バラードでは歌うように、或は泣くように、情緒のある、繊細な表現もしてみせる。

 彼女の魅力は、演奏だけではなかった。


「翔、見ろよ! 香月ゆかりだって!」


 奏汰が見せたスマートフォンの画像には、新宿のバーが映っている。


「オーディションに通った若手ミュージシャンと、セッションしてくれるんだって! 感性の合う人は、ライブ活動も一緒にやる可能性もあるって書いてある!」


 翔も身を乗り出し、画面を見つめる。


「セッションだけでも出られたら、嬉しいなぁ! 蓮華も喜ぶし!」

「これまでのとは、格が違うな!」


 いつものように、浮かれ気味の奏汰に、嫌味を言うでもなく、翔が珍しく、すんなりと同調した。


 二人は、『なんちゃってペガサス』よりも更に向上した、現時点での、二人の最高技術を盛り込んだ『ペガサス』に近付けたものを、オーディションの事前デモテープ審査にぶつけることにし、二人で試行錯誤する日々が続いた。




 デモ演奏審査に通った二人は、画像にあった、会場である新宿のライブ・バーを訪れると、十数人の奏者が詰めかけていた。


 ゆかりの主義で、演奏データでは、あまりにひどいもの以外は、一次審査を通し、後は、実際のセッションで決めるため、一週間ほどに渡る審査の、この日が最終日となっていた。


 ゆかりの兄である香月孝治(かげつ こうじ)がマネージャーを務め、オーディション参加者たちに説明を始めた。


 その間、ドラムとピアノが位置に付き、ドラムは、スネアドラムの調子を整え、ピアノは、指慣らしに、弾き始める。


 受験者は、ギター、ベースの他、サックス等の管楽器だった。

 呼ばれた順に楽器を持ち、演奏スペースに入る。


 一曲は、それぞれ自分たちのデモテープの中から選んで演奏し、二曲目は、数曲のCメロ譜(メロディーとコードネームのみの譜面)から選び、実際に、ドラム、ピアノとゆかり本人と合わせる、というものだ。


 まずは、順番と組み合わせが発表される。

 コンビを組んでいた奏汰と翔は、デモテープの中から選択する一曲は二人同時に、二曲目のCメロ譜は、それぞれ単独でセッションに参加するよう指示される。


 一番のサックス奏者が準備をしていると、ドアが開いた。


 黒いタイトなワンピースに、黒いヒール、赤茶色の、毛先が大きく巻かれたロングヘアが、ふわりとなびく。


 暗めの照明の中で、一輪の花が咲いたようだった。


 颯爽と現れたのは、奏汰と翔が動画で見たイメージ通りの、美しく、華のある人物ーー香月ゆかりその人だった。


 ゆかりは、二人が思ったよりも小柄で華奢であったが、堂々と、自信に満ちあふれていて、小柄さを感じさせなかった。


「お待たせ。準備はもう出来てる? じゃ、始めましょうか」


 カラッとした口振りで、にっこり笑うと、ケースからヴィオラを取り出し、ピアノの音に合わせてチューニングを済ませると、さっそくセッションが始まった。


 食い入るように、奏汰と翔、受験者たちは、ゆかりの演奏を見ていた。


「あ、ごめんなさい。早く合わせてみたくて、思わず先にセッションしちゃった!」


 演奏が終わると、ゆかりが笑って、舌を出した。


「まったく、ゆかぽん、セッション好きだからなぁ!」


 むっつり顔で叩いていたドラムの男が、そう言って破顔した。ピアニストも笑い、ゆかりの兄も笑っている。


「申し遅れました、香月ゆかりです。『ゆかり』って呼んでね。『香月さん』だと、兄のことになるから、気を付けて」


 笑いが起こり、親しみやすい口調に、緊迫していたその場の雰囲気が、一気に和んだ。


「いきなりで悪かったわ。緊張したでしょう? でも、今のセッション、とっても良かったわよ! 順番が逆になっちゃったけど、今度は、あなたの持ち曲の方を聴かせて」


「は、はい!」


 緊張を無理矢理解きほぐすこととなったサックス奏者は、ゆかりに促され、マイナスワンCDをバックに演奏する。


 ゆかりはソファに腰掛け、脚を組み、リラックスした様子で、リズムを取りながら、楽しそうに聴いていた。


 演奏が終わると、ゆかりが笑顔で「ありがと!」と言い、奏者と握手をした。


 次々と、演奏はこなされていき、終わりに近付いた頃、奏汰と翔の出番になった。


 二人は、落ち着いて、呼吸を整えてから、持ち曲の中から選んだ、ゆったりしたボサノバの曲を弾き始めた。


 選曲には、事前に、蓮華からアドバイスをされていた。


 若い者は、このような時には、技巧に走った曲を選びがちだが、気負って失敗するケースもある。オーディションには、あえて、リラックスして楽しめる曲を選んだ方が、本来の実力を発揮出来るだろう、と。


 さらに、香月ゆかりがこれまで演奏した曲の中では、ボサノバは少なく、それも、テンポの速いアレンジになっていたという。


 奏汰と翔は、相談し、ゆったりしたテンポのボサノバに決めた。


 ゆかりは、少し意外そうな顔をして聴いていた。わずかに指を動かして、リズムに乗っているが、楽しむというより、何かを考えているようであった。


 二人の演奏が終わり、少し遅れてから、「はい、ありがとう」と言って立ち上がる。

 翔がその場に残る。


「いいなぁ、先にセッション出来て」


 奏汰が下がる時に翔を羨むが、翔の方は、大学生とのバンドと違い、大人たちと合わせるのは初めてのようで、緊張しているのか、いつものように悪態をついて返そうともしなかった。


 察した奏汰は、「頑張れよ」と、翔の肩を叩いた。

 翔は、奏汰の顔を見て、我に返ったようだったが、押し黙って、楽譜を譜面台に置いた。


 ゆかりを交えたセッションが開始された。


 翔が選んだのは、テンポの速いジャズだった。


 ゆかりのアドリブが1コーラス、次に翔のアドリブが1コーラスだったが、ゆかりが、もう一度アドリブをやりたいと、演奏中に合図し、それからテーマに戻り、演奏は終了した。


「はい、ありがとう! あなた、上手いわねぇ! 楽しかったわ!」


 ゆかりが満面の笑みで、翔と握手をする。翔は、珍しく緊張した表情のまま、頭を下げた。


 早くセッションをしてみたかった奏汰は、出番が回ってきたのを嬉しそうに、消音ベースを持って、翔と入れ替わった。


「あら、あなた、ウッドベースも出来るの?」

「はい。まだまだ修行中ですけど」


 少し興味を持った彼女に、奏汰は嬉しそうに答えた。


 彼が選んだのも、テンポの速い曲だった。

 ゆったりしたボサノバと対照的な、速いジャズだ。


 ゆかりは、面白そうに、奏汰のアドリブを聴き、やはり、もう一度、自分のアドリブを追加してから、曲を終わらせた。


「とても弾きやすかったわ。ジャズのセッション、経験あるの?」


 ゆかりに尋ねられた奏汰は、笑顔で答えた。


「はい。ここ一年くらいですけど、ちょこちょこライブに出てて」

「やっぱり? なんか慣れてると思ったら」


 感心したゆかりは、奏汰と握手をして、「ありがと! 楽しかったわ!」と言った。




「今から、一時間後くらいに、お店に行って大丈夫ですか? 十五、六人いるんだけど」


 『J moon』にかかってきた電話は、奏汰からだった。


 電話に、蓮華が答えた。


「団体さん? ちょうど今空いてるから、いいわよ」


「やった! ありがとうございます。ママ、きっと驚きますよ」


 奏汰の予告通り、約一時間後、十六人の団体客が、『J moon』にやってきた。

 一週間に渡る大々的なオーディションが終わり、オーディション会場となったバーで打ち上げをしていたが、ゆかりが二次会にも行きたいと言い出した。


 メンバーだけで飲む予定だったのが、彼女の思い付きで、オーディション受験者で来られそうな者も同席していい、ということになったのだ。


 奏汰が横浜のバーでアルバイトをしていることを話すと、ゆかりが横浜に行きたいとはしゃいだので、電話をしたというわけだった。


「こんばんはー。お邪魔しまーす」


 ほとんどが男性客の中、唯一、女性であるゆかりが、足を踏み入れると、蓮華の目は、彼女に釘付けになった。


「まさか、……香月ゆかりさん!?」


 驚く蓮華に、奏汰が笑いかけた。


「そうなんです! ママ、ずっとファンだったでしょ? 良かったですね!」


 信じられないという表情のまま、しばらく動けないでいる蓮華に、ゆかりが微笑んだ。


「突然、ごめんなさい。大丈夫だったかしら?」


「大丈夫です。ありがとうございます!」


 頬を染め、感動した様子で頭を下げる蓮華を、ゆかりが改めて、珍しそうに見た。


「あなたが、こちらのお店のマダムなの? 意外だわ、随分、お若いのね」


「ええ、たまたまですが、お店を持つことが出来ました。若輩者ですが、今後ともよろしくお願いいたします」


「こちらこそ、よろしくね」


 目の前の蓮華に、ゆかりは、にっこり笑いながら、手を振ってみせた。

 おいでおいでをする振り方だった。


 彼女の経歴を知る蓮華と奏汰には、その仕草は、アメリカにいた時に身に付いたものだと見当が付く。


「そういえば、優さんは、いないんですか?」


 カウンターの中を覗いてから、奏汰が、蓮華を振り返る。


「優ちゃんは、バーテンダー仲間と研修があって、こちらには寄らずに、そのまま帰るそうよ」


「なんだ、残念だな。せっかく、ゆかりさん、紹介しようと思ったのに」

「ホント、残念ね」

「あ、優さんがいないってことは……」

「そうなの。人手が足りないの。だから、奏汰くん、せっかくのお休みだけど、こっちに入ってくれたら助かるわ」


 蓮華が両手を合わせ、すまなそうに笑う。


「あら、ベースくん、きみ、カクテル作れるの?」


 ゆかりの目が輝いた。


「はい。まあ、バイト程度にですけど」


「奏汰くん、ゆかりさんに、作って差し上げてよ」


「え、俺がですか? 俺なんかが作っちゃって、大丈夫ですか?」


「だって、今日、オーディションでお世話になったんでしょう?」


「それも、そうですね。それに、急に、こんな大人数連れて来ちゃったし……。わかりました、ちょっと着替えてきます!」


 奏汰はゆかりに会釈すると、従業員出入り口に向かって行った。

 ゆかりの兄と、オーディション受験者たちは、タケルやハヤトの案内で、テーブル席におさまった。


 翔を見つけた蓮華が、カウンターのゆかりの隣席に招いた。

 翔は、特に嬉しそうでもなく、真面目な顔で座る。


「どう? オーディションは、うまくいった?」


 翔は、蓮華に素っ気なく「はあ、まあ」とだけ返事をした。


「あの、結果が出る前に、こんなこと聞くのもなんですけれど、この子たちの演奏、いかがでした?」


 遠慮気味に、蓮華がゆかりに尋ねた。


「そうねぇ、ギターくん、ちょっと演奏が固かったかしら?」


 翔は黙っていた。


「デモテープは良かったわよ。のびのびしていて」

「……ありがとうございます」

「だけど、センスはいいと思うわ。だから、アドリブ1コーラス、追加したくなっちゃったの」

「そうなんですか!?」


 驚いて口を挟んだのは、蓮華だった。


「すごいじゃないの、翔くん! あたしも、前から、この子、技術だけじゃなくて、センスがあると思ってたんです! 良かったわね、翔くん!」


 蓮華が、自分のことのように喜ぶが、翔は、ちらっと、上目遣いに彼女を見ただけで、ふっと目を反らした。


「納得行かなかった?」蓮華が、翔の顔を覗き込む。

「ああ、全然ダメでしたね」少々投げやりな言い方で、翔が返す。

「全然てこともなかったわよ」


 ゆかりが、面白そうな瞳で、翔を見て笑った。


「慣れよ、慣れ。あなた、ライブ慣れしてそうに思えたけど?」


 ゆかりに、翔が、またもや真面目な表情になる。


「ボサノバを人前で弾いたの、初めてだったもんで。もっと前からやっとけばよかったって、オーディションの最中、後悔しまくってました。それで、気持ちが切り替えられないまま、セッションになって。オーディションなのに、楽しくて、もっとノリたかったのに、奏汰とのボサノバの出来引き摺って、どんどん、悔しくなっていって……ああ、ホント悔しいですよ!」


 そこへ、着替えた奏汰が、カウンターの中から、翔にウォッカ・トニックを差し出した。


「お疲れ! でも、翔、お世辞じゃなく、ホント、良かったぜ! 俺は、お前と演奏したボサノバで、リラックス出来たんだぜ」


「あなたは、楽しそうに弾くわね」


 苦笑して翔を見ていたゆかりが、顔を上げ、奏汰を見た。


「この子は、大人とのセッションに慣れてるんですよ」


 蓮華が説明した。


「なるほど、場慣れしていたのね。ウッドもエレキも出来て、表現の幅が広がりそうね」


「ありがとうございます!」


 嬉しそうに、奏汰の顔が輝いた。


「それで、私には、何を飲ませてくれるの?」


「ワインは、お好きですか? ゆかりさんのイメージで、白ワインをベースにしたカクテル『キール』はいかがかと思いまして」


「『キール』美味しいから、私、好きよ」


「良かった! では、こちらになります」


 ベルベットを思わせる、明るく透明感のある赤いカクテルを、奏汰は、ゆかりの目の前に、そっと置いた。


「いただくわね」


 奏汰に微笑み、ゆかりがワイングラスに口を付ける。


「美味しい!」

「ありがとうございます!」

「なんか、これまでの疲れが癒されるわ」


 身体の芯にまで、カクテルが染み入ったというような声で、ゆかりが、感想をもらした。


「一週間、オーディションにかかったんですもんね」

「まあ! 本当に、大変お疲れ様でした!」


 奏汰に続いた蓮華が、ゆかりに頭を下げる。


 ゆかりは笑うと、キールのワイングラスを持ち上げ、うっとりと眺めてから、口に含む。


「ベルベッドみたいで、素敵。濃厚なのに、白ワインのせいか、さっぱりしていて美味しいわ。ゆっくり飲むから、これを空けたら、同じ物もう一杯、いただこうかしら」


「はい、喜んで!」


 グラスにクレーム・ド・カシスを少し入れ、白ワインをそそぐだけのカクテルーー奏汰が二杯目のキールを差し出す時には、蓮華は、テーブル席の、ゆかりの兄に挨拶をし、そこにいる若者たちを労っていた。


 翔は、一杯目のウォッカ・トニックを飲み切ると、帰ると言い出した。


「あら、もう少し、飲んでいけばいいのに」


「いいえ。俺、練習したいんで」


 ゆかりに引き留められても、翔は立ち上がった。


「今日は、ありがとうございました。俺、もっと練習して、またオーディション受けますから、その時こそ、よろしくお願いします」


 目を丸くするゆかりに、真面目な表情のまま頭を下げ、席を離れる翔だった。


「今日は、菜緒んとこに泊まるから」


 奏汰にそれだけ言うと、ギターケースを背負った翔は、少し落ち込んだような溜め息を吐いて、レジに向かう。


「……彼、落ちたと思ってるのかしら?」


 呆気に取られていたゆかりが、奏汰を見上げる。


「結果というより、自分の納得出来る演奏が出来なかったことが、悔しいんだと思います。あいつ、本当は、もっと上手くて、いい演奏するんです。それを、オーディションで発揮出来ないと意味がないことは、あいつもわかってるんです」


 会計を済ませ、肩を落としてドアの向こうへと消えた翔を、見守る奏汰に、ゆかりは言った。


「あんまり気を落とさないよう、言っておいてね」


「伝えます」


「あなたは、今日はどうだった?」


「とにかく、俺は、今の自分を出し切ったと思います。翔とのデュオも、ゆかりさんとのセッションも楽しかったし。だから、落ちても、悔いはないと思います。落ちたら、すっごく残念ではあるけど」


 奏汰が、肩を竦めて笑った。


「キールのお礼に、少しだけ種明かしをするとね……」


 奏汰を見つめると、ゆかりは、小声になった。


「ライブハウスや、バーでは、今日来た子たちとは、たまにセッションしようと思っているの。昨日までのオーディションでは、ちょっと落とす子はいたけど」


 奏汰は、少し緊張して、ゆかりを見る。


「今日は、レベルが高かったわ。デモテープを一緒に聴いてた兄が、そういう風に組んだんだけど」


「そうなんですか……」


「セッションは、若い子たちの励みになってもらおうと思って。音楽する若者が増えることは、喜ばしいことでしょう? その一方で、私が本当に探しているのは、コンサートホールで演奏する相手なの」


 奏汰が目を見開いた。


「そうだったんですか。もし、それに選ばれたら、最高ですね!」


「でも、若手の多くは、学校の講堂だったり、小さなライブハウスでの演奏が多くて、ホールでの体験なんて、滅多にないでしょう? 借りるだけでもお金がかかるし。だから、今日のような小さい場所で場慣れしてるとか、デモテープの録音では上手く弾けたとかは、判断基準にはならないのよ」


「はあ、言われてみれば、そうですよね……」


 ポーカーフェイスで相槌を打つ奏汰は、心の中では、落ち込み始めた。


「あくまでも、この一週間のオーディションは、コンサートのメンバーを見据えて選ばせてもらおうと思っているの。まあ、私の中では、ほとんど決まっていて、後は人数を絞るだけだけどね」


 どきん! と、奏汰の心臓が大きく鳴った。


 もう決まったも同然なのか……。

 ダメかも知れない……。


 愕然とした奏汰は、翔と同じように、次のオーディションを受けることを考え始めていた。




「奏汰くん、今日は、ありがとう! まさかのゆかりさんに来てもらえて、嬉しかったわ!」


 ゆかり一行団体客と従業員も帰った後、カウンターで隣に腰かけた蓮華が、私服に着替えた奏汰に、笑顔を向けた。


 微笑み返した奏汰は、すぐに溜め息を吐いた。


「オーディション、……うまくいかなかったの?」


 心配そうに、蓮華が覗きこむ。


「そんなことなかったんだけど、ゆかりさんの話聞いてたら、……なんだか自信がなくなってきた。翔も、落ちたと思ってるみたいで、ダメージ受けてそうだったし」


 奏汰は、先ほどの、ゆかりとの話を蓮華に打ち明けた。


「でも、その話だと、今日のメンバーとは、最低でも、セッションはしてくれるみたいだから、良かったじゃないの。それだけでも、大きな第一歩でしょ?」


 やさしく諭す蓮華を、奏汰は、見つめ直した。


「……そうだよな。なんか、俺、図々しくも、高望みしてたのかな。初心に返らないとなー」


「焦らないのよ。いきなり、コンサート・メンバーに選ばれるとは思わない方がいいわ。かえって、気軽に出来るセッションの方が、奏汰くんは慣れてるんだし、翔くんも慣れるの早いと思うわ。あなたたちのセンスは、ゆかりさんにもきっと伝わるはずって、あたしは思うわ」


 白い華奢な手が、彼の肩にかけられると、頬に、蓮華の唇が柔らかく触れていた。


「……なんか、癒された。もう一回して」


 率直な彼のセリフに、蓮華がくすくす笑う。


「じゃあ、今度は、こっち側ね」


 反対の頬に、蓮華が、やさしく口づけた。


「ああ、癒される! もっとして」


 蓮華の白い手が、低い体勢になった奏汰の前髪を持ち上げると、唇が、額に当てられる。


「今度は、……ここ」


 人差し指を、奏汰は、自分の唇に持っていった。


 すべてを包み込む微笑みで、蓮華は、彼のリクエストに応えた。


※カクテル『キール』:クレーム・ド・カシス、白ワイン。


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