(1)ヴィオラと「キール」
奏汰が、バー『J moon』に来てから、一年ほどが経つ。
翔のギターと奏汰のベースのデュオ『なんちゃってペガサス』を気に入った蓮華は、演奏データを店のBGMで流し、店を利用する業界人に聴かせたりしていた。
翔と奏汰も、ネットで動画を配信していた。
そこそこ再生されてはいるが、一般的に好まれるというよりもマニアックなため、流行るわけではなかった。
それでも、二人は構わなかった。今は、自分たちの思うものを貫くのみと思っていた。
「おい」
不機嫌な顔の翔が、不機嫌な声を出す。
「最近、お前と一緒にいることが多いからって、世間では、こんな誤解されて迷惑なんだよっ!」
リビングで仁王立ちになっている翔が、奏汰にスマートフォンの画面を、押し付けるようにして見せた。
そこには、奏汰と翔の隠し撮り写真があり、SNSの片隅で密かに出回っているようだった。
「一部の、おそらく腐女子の間で、こんなやり取りまで!」
翔が、奏汰を壁に追い詰めている、所謂『壁ドン』している場面であった。
『ツンデレ翔くんが、我慢出来ずに、カワイイ奏汰くんに迫ってる!?』
または、逆に『奏汰くんが攻め、翔くんが受け?』と、奏汰が翔を壁に追い詰めている写真もあった。
「これ、どう見ても合成だろ?」
奏汰が、画面越しに、翔を見た。
「んなこたぁ、俺だってわかってるんだよっ! それと、これも!」
次に翔が見せた画面にあったのは、二人のやり取りを、イラストで描いたものだった。
「今までのライブの画像と、ヒーローライブのまで? 書き込みの中には、俺と翔がヒーローの『中の人』になってたとかいうデマまであるな……。だけど、それ、元々お前の『追っかけ』だろ?」
「知るか!」
「ーーにしても、このイラスト、良く描けてるなぁ。俺たちって、少女漫画風なイラストだと、こんな感じになるんだ?」
奏汰が、ゲラゲラ笑い出した。
「笑い事じゃねぇ!」イライラと、翔が声を荒げる。
「これ、蓮華に送ってみるか。お前も、奈緒さんに送ってみろよ」
「やめろ、バカ!」
「みんな、勝手に面白がってるだけだろ? そんなの気にしなくても」
「いいや、大迷惑だ!」翔が、凄んでみせる。
「俺の『クールなイケメン』イメージが崩壊すんだろ!」
「その方がいいんじゃないか?」
「はあ!?」
その時、二階から、軽快に降りて来たのは、雅人だった。
「見たぜ~、お前ら! ははははっ!」
階段を踏み外しそうになりながらも、雅人は笑い転げていた。
「新着のなんか、こんなのもあるぜ!」
雅人が見せたものは、琳都に合成でメガネをかけさせ、翔とツーショットであったり、奏汰と翔にメイド服を着せたり等、一見、自らコスプレしているかのような画像であった。
「俺は、いじられキャラじゃねぇ! 全部、お前のせいだからな!」
翔は凄みを利かせ、笑い続ける奏汰に念を押すように何度も言った。
ジャズ・ヴィオリスト香月ゆかりーー
バイオリンよりも一回り大きいヴィオラで、パワフル、エネルギッシュな演奏が人気であった。
バラードでは歌うように、或は泣くように、情緒のある、繊細な表現もしてみせる。
彼女の魅力は、演奏だけではなかった。
「翔、見ろよ! 香月ゆかりだって!」
奏汰が見せたスマートフォンの画像には、新宿のバーが映っている。
「オーディションに通った若手ミュージシャンと、セッションしてくれるんだって! 感性の合う人は、ライブ活動も一緒にやる可能性もあるって書いてある!」
翔も身を乗り出し、画面を見つめる。
「セッションだけでも出られたら、嬉しいなぁ! 蓮華も喜ぶし!」
「これまでのとは、格が違うな!」
いつものように、浮かれ気味の奏汰に、嫌味を言うでもなく、翔が珍しく、すんなりと同調した。
二人は、『なんちゃってペガサス』よりも更に向上した、現時点での、二人の最高技術を盛り込んだ『ペガサス』に近付けたものを、オーディションの事前デモテープ審査にぶつけることにし、二人で試行錯誤する日々が続いた。
デモ演奏審査に通った二人は、画像にあった、会場である新宿のライブ・バーを訪れると、十数人の奏者が詰めかけていた。
ゆかりの主義で、演奏データでは、あまりにひどいもの以外は、一次審査を通し、後は、実際のセッションで決めるため、一週間ほどに渡る審査の、この日が最終日となっていた。
ゆかりの兄である香月孝治がマネージャーを務め、オーディション参加者たちに説明を始めた。
その間、ドラムとピアノが位置に付き、ドラムは、スネアドラムの調子を整え、ピアノは、指慣らしに、弾き始める。
受験者は、ギター、ベースの他、サックス等の管楽器だった。
呼ばれた順に楽器を持ち、演奏スペースに入る。
一曲は、それぞれ自分たちのデモテープの中から選んで演奏し、二曲目は、数曲のCメロ譜(メロディーとコードネームのみの譜面)から選び、実際に、ドラム、ピアノとゆかり本人と合わせる、というものだ。
まずは、順番と組み合わせが発表される。
コンビを組んでいた奏汰と翔は、デモテープの中から選択する一曲は二人同時に、二曲目のCメロ譜は、それぞれ単独でセッションに参加するよう指示される。
一番のサックス奏者が準備をしていると、ドアが開いた。
黒いタイトなワンピースに、黒いヒール、赤茶色の、毛先が大きく巻かれたロングヘアが、ふわりとなびく。
暗めの照明の中で、一輪の花が咲いたようだった。
颯爽と現れたのは、奏汰と翔が動画で見たイメージ通りの、美しく、華のある人物ーー香月ゆかりその人だった。
ゆかりは、二人が思ったよりも小柄で華奢であったが、堂々と、自信に満ちあふれていて、小柄さを感じさせなかった。
「お待たせ。準備はもう出来てる? じゃ、始めましょうか」
カラッとした口振りで、にっこり笑うと、ケースからヴィオラを取り出し、ピアノの音に合わせてチューニングを済ませると、さっそくセッションが始まった。
食い入るように、奏汰と翔、受験者たちは、ゆかりの演奏を見ていた。
「あ、ごめんなさい。早く合わせてみたくて、思わず先にセッションしちゃった!」
演奏が終わると、ゆかりが笑って、舌を出した。
「まったく、ゆかぽん、セッション好きだからなぁ!」
むっつり顔で叩いていたドラムの男が、そう言って破顔した。ピアニストも笑い、ゆかりの兄も笑っている。
「申し遅れました、香月ゆかりです。『ゆかり』って呼んでね。『香月さん』だと、兄のことになるから、気を付けて」
笑いが起こり、親しみやすい口調に、緊迫していたその場の雰囲気が、一気に和んだ。
「いきなりで悪かったわ。緊張したでしょう? でも、今のセッション、とっても良かったわよ! 順番が逆になっちゃったけど、今度は、あなたの持ち曲の方を聴かせて」
「は、はい!」
緊張を無理矢理解きほぐすこととなったサックス奏者は、ゆかりに促され、マイナスワンCDをバックに演奏する。
ゆかりはソファに腰掛け、脚を組み、リラックスした様子で、リズムを取りながら、楽しそうに聴いていた。
演奏が終わると、ゆかりが笑顔で「ありがと!」と言い、奏者と握手をした。
次々と、演奏はこなされていき、終わりに近付いた頃、奏汰と翔の出番になった。
二人は、落ち着いて、呼吸を整えてから、持ち曲の中から選んだ、ゆったりしたボサノバの曲を弾き始めた。
選曲には、事前に、蓮華からアドバイスをされていた。
若い者は、このような時には、技巧に走った曲を選びがちだが、気負って失敗するケースもある。オーディションには、あえて、リラックスして楽しめる曲を選んだ方が、本来の実力を発揮出来るだろう、と。
さらに、香月ゆかりがこれまで演奏した曲の中では、ボサノバは少なく、それも、テンポの速いアレンジになっていたという。
奏汰と翔は、相談し、ゆったりしたテンポのボサノバに決めた。
ゆかりは、少し意外そうな顔をして聴いていた。わずかに指を動かして、リズムに乗っているが、楽しむというより、何かを考えているようであった。
二人の演奏が終わり、少し遅れてから、「はい、ありがとう」と言って立ち上がる。
翔がその場に残る。
「いいなぁ、先にセッション出来て」
奏汰が下がる時に翔を羨むが、翔の方は、大学生とのバンドと違い、大人たちと合わせるのは初めてのようで、緊張しているのか、いつものように悪態をついて返そうともしなかった。
察した奏汰は、「頑張れよ」と、翔の肩を叩いた。
翔は、奏汰の顔を見て、我に返ったようだったが、押し黙って、楽譜を譜面台に置いた。
ゆかりを交えたセッションが開始された。
翔が選んだのは、テンポの速いジャズだった。
ゆかりのアドリブが1コーラス、次に翔のアドリブが1コーラスだったが、ゆかりが、もう一度アドリブをやりたいと、演奏中に合図し、それからテーマに戻り、演奏は終了した。
「はい、ありがとう! あなた、上手いわねぇ! 楽しかったわ!」
ゆかりが満面の笑みで、翔と握手をする。翔は、珍しく緊張した表情のまま、頭を下げた。
早くセッションをしてみたかった奏汰は、出番が回ってきたのを嬉しそうに、消音ベースを持って、翔と入れ替わった。
「あら、あなた、ウッドベースも出来るの?」
「はい。まだまだ修行中ですけど」
少し興味を持った彼女に、奏汰は嬉しそうに答えた。
彼が選んだのも、テンポの速い曲だった。
ゆったりしたボサノバと対照的な、速いジャズだ。
ゆかりは、面白そうに、奏汰のアドリブを聴き、やはり、もう一度、自分のアドリブを追加してから、曲を終わらせた。
「とても弾きやすかったわ。ジャズのセッション、経験あるの?」
ゆかりに尋ねられた奏汰は、笑顔で答えた。
「はい。ここ一年くらいですけど、ちょこちょこライブに出てて」
「やっぱり? なんか慣れてると思ったら」
感心したゆかりは、奏汰と握手をして、「ありがと! 楽しかったわ!」と言った。
「今から、一時間後くらいに、お店に行って大丈夫ですか? 十五、六人いるんだけど」
『J moon』にかかってきた電話は、奏汰からだった。
電話に、蓮華が答えた。
「団体さん? ちょうど今空いてるから、いいわよ」
「やった! ありがとうございます。ママ、きっと驚きますよ」
奏汰の予告通り、約一時間後、十六人の団体客が、『J moon』にやってきた。
一週間に渡る大々的なオーディションが終わり、オーディション会場となったバーで打ち上げをしていたが、ゆかりが二次会にも行きたいと言い出した。
メンバーだけで飲む予定だったのが、彼女の思い付きで、オーディション受験者で来られそうな者も同席していい、ということになったのだ。
奏汰が横浜のバーでアルバイトをしていることを話すと、ゆかりが横浜に行きたいとはしゃいだので、電話をしたというわけだった。
「こんばんはー。お邪魔しまーす」
ほとんどが男性客の中、唯一、女性であるゆかりが、足を踏み入れると、蓮華の目は、彼女に釘付けになった。
「まさか、……香月ゆかりさん!?」
驚く蓮華に、奏汰が笑いかけた。
「そうなんです! ママ、ずっとファンだったでしょ? 良かったですね!」
信じられないという表情のまま、しばらく動けないでいる蓮華に、ゆかりが微笑んだ。
「突然、ごめんなさい。大丈夫だったかしら?」
「大丈夫です。ありがとうございます!」
頬を染め、感動した様子で頭を下げる蓮華を、ゆかりが改めて、珍しそうに見た。
「あなたが、こちらのお店のマダムなの? 意外だわ、随分、お若いのね」
「ええ、たまたまですが、お店を持つことが出来ました。若輩者ですが、今後ともよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくね」
目の前の蓮華に、ゆかりは、にっこり笑いながら、手を振ってみせた。
おいでおいでをする振り方だった。
彼女の経歴を知る蓮華と奏汰には、その仕草は、アメリカにいた時に身に付いたものだと見当が付く。
「そういえば、優さんは、いないんですか?」
カウンターの中を覗いてから、奏汰が、蓮華を振り返る。
「優ちゃんは、バーテンダー仲間と研修があって、こちらには寄らずに、そのまま帰るそうよ」
「なんだ、残念だな。せっかく、ゆかりさん、紹介しようと思ったのに」
「ホント、残念ね」
「あ、優さんがいないってことは……」
「そうなの。人手が足りないの。だから、奏汰くん、せっかくのお休みだけど、こっちに入ってくれたら助かるわ」
蓮華が両手を合わせ、すまなそうに笑う。
「あら、ベースくん、きみ、カクテル作れるの?」
ゆかりの目が輝いた。
「はい。まあ、バイト程度にですけど」
「奏汰くん、ゆかりさんに、作って差し上げてよ」
「え、俺がですか? 俺なんかが作っちゃって、大丈夫ですか?」
「だって、今日、オーディションでお世話になったんでしょう?」
「それも、そうですね。それに、急に、こんな大人数連れて来ちゃったし……。わかりました、ちょっと着替えてきます!」
奏汰はゆかりに会釈すると、従業員出入り口に向かって行った。
ゆかりの兄と、オーディション受験者たちは、タケルやハヤトの案内で、テーブル席におさまった。
翔を見つけた蓮華が、カウンターのゆかりの隣席に招いた。
翔は、特に嬉しそうでもなく、真面目な顔で座る。
「どう? オーディションは、うまくいった?」
翔は、蓮華に素っ気なく「はあ、まあ」とだけ返事をした。
「あの、結果が出る前に、こんなこと聞くのもなんですけれど、この子たちの演奏、いかがでした?」
遠慮気味に、蓮華がゆかりに尋ねた。
「そうねぇ、ギターくん、ちょっと演奏が固かったかしら?」
翔は黙っていた。
「デモテープは良かったわよ。のびのびしていて」
「……ありがとうございます」
「だけど、センスはいいと思うわ。だから、アドリブ1コーラス、追加したくなっちゃったの」
「そうなんですか!?」
驚いて口を挟んだのは、蓮華だった。
「すごいじゃないの、翔くん! あたしも、前から、この子、技術だけじゃなくて、センスがあると思ってたんです! 良かったわね、翔くん!」
蓮華が、自分のことのように喜ぶが、翔は、ちらっと、上目遣いに彼女を見ただけで、ふっと目を反らした。
「納得行かなかった?」蓮華が、翔の顔を覗き込む。
「ああ、全然ダメでしたね」少々投げやりな言い方で、翔が返す。
「全然てこともなかったわよ」
ゆかりが、面白そうな瞳で、翔を見て笑った。
「慣れよ、慣れ。あなた、ライブ慣れしてそうに思えたけど?」
ゆかりに、翔が、またもや真面目な表情になる。
「ボサノバを人前で弾いたの、初めてだったもんで。もっと前からやっとけばよかったって、オーディションの最中、後悔しまくってました。それで、気持ちが切り替えられないまま、セッションになって。オーディションなのに、楽しくて、もっとノリたかったのに、奏汰とのボサノバの出来引き摺って、どんどん、悔しくなっていって……ああ、ホント悔しいですよ!」
そこへ、着替えた奏汰が、カウンターの中から、翔にウォッカ・トニックを差し出した。
「お疲れ! でも、翔、お世辞じゃなく、ホント、良かったぜ! 俺は、お前と演奏したボサノバで、リラックス出来たんだぜ」
「あなたは、楽しそうに弾くわね」
苦笑して翔を見ていたゆかりが、顔を上げ、奏汰を見た。
「この子は、大人とのセッションに慣れてるんですよ」
蓮華が説明した。
「なるほど、場慣れしていたのね。ウッドもエレキも出来て、表現の幅が広がりそうね」
「ありがとうございます!」
嬉しそうに、奏汰の顔が輝いた。
「それで、私には、何を飲ませてくれるの?」
「ワインは、お好きですか? ゆかりさんのイメージで、白ワインをベースにしたカクテル『キール』はいかがかと思いまして」
「『キール』美味しいから、私、好きよ」
「良かった! では、こちらになります」
ベルベットを思わせる、明るく透明感のある赤いカクテルを、奏汰は、ゆかりの目の前に、そっと置いた。
「いただくわね」
奏汰に微笑み、ゆかりがワイングラスに口を付ける。
「美味しい!」
「ありがとうございます!」
「なんか、これまでの疲れが癒されるわ」
身体の芯にまで、カクテルが染み入ったというような声で、ゆかりが、感想をもらした。
「一週間、オーディションにかかったんですもんね」
「まあ! 本当に、大変お疲れ様でした!」
奏汰に続いた蓮華が、ゆかりに頭を下げる。
ゆかりは笑うと、キールのワイングラスを持ち上げ、うっとりと眺めてから、口に含む。
「ベルベッドみたいで、素敵。濃厚なのに、白ワインのせいか、さっぱりしていて美味しいわ。ゆっくり飲むから、これを空けたら、同じ物もう一杯、いただこうかしら」
「はい、喜んで!」
グラスにクレーム・ド・カシスを少し入れ、白ワインをそそぐだけのカクテルーー奏汰が二杯目のキールを差し出す時には、蓮華は、テーブル席の、ゆかりの兄に挨拶をし、そこにいる若者たちを労っていた。
翔は、一杯目のウォッカ・トニックを飲み切ると、帰ると言い出した。
「あら、もう少し、飲んでいけばいいのに」
「いいえ。俺、練習したいんで」
ゆかりに引き留められても、翔は立ち上がった。
「今日は、ありがとうございました。俺、もっと練習して、またオーディション受けますから、その時こそ、よろしくお願いします」
目を丸くするゆかりに、真面目な表情のまま頭を下げ、席を離れる翔だった。
「今日は、菜緒んとこに泊まるから」
奏汰にそれだけ言うと、ギターケースを背負った翔は、少し落ち込んだような溜め息を吐いて、レジに向かう。
「……彼、落ちたと思ってるのかしら?」
呆気に取られていたゆかりが、奏汰を見上げる。
「結果というより、自分の納得出来る演奏が出来なかったことが、悔しいんだと思います。あいつ、本当は、もっと上手くて、いい演奏するんです。それを、オーディションで発揮出来ないと意味がないことは、あいつもわかってるんです」
会計を済ませ、肩を落としてドアの向こうへと消えた翔を、見守る奏汰に、ゆかりは言った。
「あんまり気を落とさないよう、言っておいてね」
「伝えます」
「あなたは、今日はどうだった?」
「とにかく、俺は、今の自分を出し切ったと思います。翔とのデュオも、ゆかりさんとのセッションも楽しかったし。だから、落ちても、悔いはないと思います。落ちたら、すっごく残念ではあるけど」
奏汰が、肩を竦めて笑った。
「キールのお礼に、少しだけ種明かしをするとね……」
奏汰を見つめると、ゆかりは、小声になった。
「ライブハウスや、バーでは、今日来た子たちとは、たまにセッションしようと思っているの。昨日までのオーディションでは、ちょっと落とす子はいたけど」
奏汰は、少し緊張して、ゆかりを見る。
「今日は、レベルが高かったわ。デモテープを一緒に聴いてた兄が、そういう風に組んだんだけど」
「そうなんですか……」
「セッションは、若い子たちの励みになってもらおうと思って。音楽する若者が増えることは、喜ばしいことでしょう? その一方で、私が本当に探しているのは、コンサートホールで演奏する相手なの」
奏汰が目を見開いた。
「そうだったんですか。もし、それに選ばれたら、最高ですね!」
「でも、若手の多くは、学校の講堂だったり、小さなライブハウスでの演奏が多くて、ホールでの体験なんて、滅多にないでしょう? 借りるだけでもお金がかかるし。だから、今日のような小さい場所で場慣れしてるとか、デモテープの録音では上手く弾けたとかは、判断基準にはならないのよ」
「はあ、言われてみれば、そうですよね……」
ポーカーフェイスで相槌を打つ奏汰は、心の中では、落ち込み始めた。
「あくまでも、この一週間のオーディションは、コンサートのメンバーを見据えて選ばせてもらおうと思っているの。まあ、私の中では、ほとんど決まっていて、後は人数を絞るだけだけどね」
どきん! と、奏汰の心臓が大きく鳴った。
もう決まったも同然なのか……。
ダメかも知れない……。
愕然とした奏汰は、翔と同じように、次のオーディションを受けることを考え始めていた。
「奏汰くん、今日は、ありがとう! まさかのゆかりさんに来てもらえて、嬉しかったわ!」
ゆかり一行団体客と従業員も帰った後、カウンターで隣に腰かけた蓮華が、私服に着替えた奏汰に、笑顔を向けた。
微笑み返した奏汰は、すぐに溜め息を吐いた。
「オーディション、……うまくいかなかったの?」
心配そうに、蓮華が覗きこむ。
「そんなことなかったんだけど、ゆかりさんの話聞いてたら、……なんだか自信がなくなってきた。翔も、落ちたと思ってるみたいで、ダメージ受けてそうだったし」
奏汰は、先ほどの、ゆかりとの話を蓮華に打ち明けた。
「でも、その話だと、今日のメンバーとは、最低でも、セッションはしてくれるみたいだから、良かったじゃないの。それだけでも、大きな第一歩でしょ?」
やさしく諭す蓮華を、奏汰は、見つめ直した。
「……そうだよな。なんか、俺、図々しくも、高望みしてたのかな。初心に返らないとなー」
「焦らないのよ。いきなり、コンサート・メンバーに選ばれるとは思わない方がいいわ。かえって、気軽に出来るセッションの方が、奏汰くんは慣れてるんだし、翔くんも慣れるの早いと思うわ。あなたたちのセンスは、ゆかりさんにもきっと伝わるはずって、あたしは思うわ」
白い華奢な手が、彼の肩にかけられると、頬に、蓮華の唇が柔らかく触れていた。
「……なんか、癒された。もう一回して」
率直な彼のセリフに、蓮華がくすくす笑う。
「じゃあ、今度は、こっち側ね」
反対の頬に、蓮華が、やさしく口づけた。
「ああ、癒される! もっとして」
蓮華の白い手が、低い体勢になった奏汰の前髪を持ち上げると、唇が、額に当てられる。
「今度は、……ここ」
人差し指を、奏汰は、自分の唇に持っていった。
すべてを包み込む微笑みで、蓮華は、彼のリクエストに応えた。
※カクテル『キール』:クレーム・ド・カシス、白ワイン。




