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カクテル・バー『J moon』  作者: かがみ透
第一章『バイト』
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(2)『Ev'ry Time We Say Goodbye』最初の壁

「これが、そのCメロ楽譜」


 蓮華は、メロディーとコードだけ書かれた楽譜を、奏汰に手渡した。


 タイトルには、『Ev'ry Time We Say Goodbye』とあった。


「コール・ポーターのジャズのバラードよ。いきなりバラードで難しいけど、すごく勉強になるわよ。コードはわかるわよね?」


 伴奏の和音を記号化したコードとは、鍵盤であろうと、ギターやベースであろうと、すべて共通だ。


「わかりますけど……、でも、俺、ジャズのベースラインてどうやったら……」


 なんだか、ますます、今の自分では音楽の幅が狭いと思い知らされた気になる。


「はあ。やっぱり、まだまだだな」


「そう。でも、まだまだこれからよ」


 蓮華は、明るく笑った。


「バンドとは打ち合わせや練習もあるから、大丈夫よ。その時に、あちらのベーシストに教えてもらったら? あのバンドには、よく新人の子を頼んでるから、メンバーも新人の扱いに慣れてるし、皆やさしいから心配しなくていいわよ」


 半信半疑な奏汰だったが、食い入るように譜面を見つめる。


「コードはわかりますが、この分数みたいなのって……?」


「分数みたいなのは、オン・ベース。『C/G』なら、『C on G』って読んで、『on G』の部分がベースになるの」


「ああ、よく見かけるけど、そういうことか! ギターのヤツが『そんなコードはない!』っていつも怒ってて」


 奏汰は苦笑いした。


「そうね、ギターを深く知る人はわかってるんだけど、ちょっとかじったくらいの人は、堂々と『そんなコードない』って言うのよ。だけどね、バンドみたいに、ベースラインを気にしなくていい場合、ギターには関係ないから、知らないだけなの」


「そうか……。確かに、分数コードが出て来た時、俺も皆も、上のコードだけを弾いてたら時々おかしかったな」


「『C/G』みたいな場合はコードの構成音で大丈夫だから、ベースが『G』を弾かなくてもそれほどおかしくはないけど、『Dm7/G』の場合は、Dm7の構成音の中に『G』はないから、そこは弾かないと、なんかおかしく聴こえるの」


「そうだったのかぁ!」


 彼の中では、霧が晴れたような感じがした。


「それと、このコードの横にある数字って、なんですか? 『7(セブンス)』はわかるんですが……」

「テンションよ」

「テンション?」

「こういう和音の響きになるのよ」


 蓮華が鉛筆で薄く、和音の構成音を書いていく。


「すいません、俺、音符で書かれても……タブ譜ならわかるんですが」


「あ、そっか。じゃあ、ベースの人に聞いて教わって。一応、音符でも書いておいてあげる。タブ譜は弦の押さえる位置を記すものだから、『音』も知っておいた方がいいわよ。ちょっと来て」


 蓮華がグランドピアノの方へ、奏汰を連れて行く。


 ピアノを開け、鍵盤を鳴らす。


「例えばね、普通に弾くと、こう」


 聴き慣れた和音だった。


「テンションを入れると、こう」


 蓮華がペダルを使い、より音が複雑に響く。


 あまり耳にしない和音だ。


 だが、彼には心地よく聴こえた。


「ね? なんか、こっちの方がゾクゾクしない? テンション上がるでしょう?」


 蓮華がいたずらっぽく笑い、奏汰も頷きながら笑った。


「ついでに予習しちゃおうか? 優ちゃん、ちょっとこの曲伴奏してみて」


 カウンターの中から、優がやってくる。


「えっ、優さんも、弾けるんですか?」

「音大のピアノ科だったのよ」

「中退だけどね」


 優が照れ隠しに笑う。


「久しぶりだから間違えると思うけど、まあ、どんな曲かっていう雰囲気だけでも伝われば」


 優は普段のやさしい笑顔で、ピアノの前に座った。


 彼の伴奏に合わせ、蓮華が英語の歌詞をメロディーに乗せ、口ずさむ。


 明るい和音が多く使われているが、ところどころ切ない響きもあり、いつの間にか明るくなる。


 始めは蓮華の歌声に聴き入っていた奏汰だったが、ふと見ると、優のピアノは、右手でコード内の音を鳴らし、左手でベースラインを弾いている。


 彼が、あえて奏汰のために、ベースを強調して弾いているのだとわかった。


 そうか! こんな感じなんだ!


 奏汰が優の左手に気付いたのを、蓮華も気付き、微笑を浮かべる。


 ひととおり演奏が終わると、奏汰が拍手をした。

 表情が、聴く前と後とでは変わっていた。


「こんな綺麗な曲だったんですね。この曲だったら、ウッドベースの方が合ってますよね」


「うん、そうだね」


 優が頷き、蓮華は、奏汰を慎重な目で見つめる。


「俺、今までエレキベースしかやったことないけど、……この曲は、ウッドベースでやってみたいって思った。ママ、バンドのベーシストの方には、ウッドベースも教えてもらえるんでしょうか?」


「もちろんよ、両方弾ける人だから」


「やった!」


 奏汰は拳を握った。


「頑張ってね!」


 奏汰の肩をポンと叩くと、蓮華はカウンターに戻り、残りのカクテルを飲み干した。


 奏汰も、ジンライムを飲み干す。


 氷だけになったグラスを置いた後の彼の表情は、引き締まり、希望に、その瞳は輝いていた。




「とは言ったものの……、ウッドベースって、練習用にサイレントタイプのを探してみたら、こんなにするんですね」


 翌日、奏汰は、優にスマートフォンで検索したものを見せた。


「どれも、二〇万超え。今の俺には手が届かないですよ」


 はあ、と溜め息を吐く。


「でも、安物のウッドよりいいって聞くしね。持ち運びも楽だし、部屋を占領しなくていいよね」


「そうなんですよね~」


 奏汰とともに、優も腕を組んで唸る。

 そこへ蓮華がやってきた。


「バンドのベーシストさんに聞いてみたら、ちょうど新しいのが欲しいところだったみたいで、これまで使い古したのを貸してくれるそうよ」


 奏汰の顔が、みるみる明るくなっていく。


「自分で買うまでの間でいいので、お借りしたいです!」


「ええ、そう頼んでおいたわ」


「ありがとうございます!」


 奏汰は深く頭を下げた。


 三日後、バンドのメンバーとの打ち合わせがあり、奏汰との初顔合わせに当たる。


 店ではカフェタイムも営業していて、五時から六時までの間は準備中となる。

 その時間に打ち合わせをすることになっていたので、奏汰の他の従業員たちは掃除をしていたり、優は氷屋から受け取った純水で出来た透明な氷を、ピックで削っていた。


 サックス、ピアノ、ジャズギター、ベース、ドラム担当の気さくなメンバーと、奏汰は緊張しながらも話をするうちに、徐々に打ち解けていった。


 皆、三〇代後半くらいであったが、()()()()()は年齢を感じさせない、と奏汰には感じられた。二〇歳近くも若い彼に対して、上から物を言うでもなく、対等だった。といって、彼が特に意見を言うこともなかったが。


 ベースの小畑は髭を生やし、長髪を後ろで束ねた一見ナイスミドルだったが、オヤジギャグを連発するノリの良い男であった。

 奏汰に、使い古しのサイレントベースを渡し、使い方を説明する。


 コンサート等で目にしたことはあるが、上の方だけ、コントラバスの形の枠がついた、弦を張っているネック部分を切り取ったような形をしている。

 エレキベースのように音程の目安となるフレットはないが、全くの素人が取りかかるよりは見当がつく。


「エレキベースは俺も好きだが、ウッドベースとは奏法が違う。ウッドベースらしい弾き方があるんだが、今回は贅沢は言わん。それっぽく弾けてればいい。その代わり、お前、なかなかエレキは上手かったから、もう一曲、エレキでも出来る曲をやろう!」


 奏汰には願ってもいないことだった。


 その譜面も受け取ると、やはりあまり目にしないコードばかりで、勉強することは増えてしまうが、認められたことは嬉しかった。




 ある日の日中、奏汰は、『J moon』の上、一階にある事務所に来ていた。

 デスクが三つだけあり、すべてにパソコンが乗っている。


 エスニックな出で立ちの、蓮華と同じくらいの女性が、中国語らしい発音で電話をしていた。


 もう一人、眼鏡をかけた、落ち着いた雰囲気の女性が、パソコンを打つ。この女性が、店の経理を担当しているらしいことはわかった。


「再見!」


 北京語の発音で挨拶をすると、電話を終えたエスニックな女性が振り向き、経理の女性に言った。


「キャンセル待ちのが取れたよ、北京とシンガポール!」


 なめらかな日本語だ。

 タイ人かどこかの人種かと思っていたら、色白の質素な顔で、中国系の人かと、奏汰は思い直した。


 彼女と目が合った彼は、思わず言っていた。


「日本語、お上手ですね」


「我是日本人!」


 『私は日本人です』と、女は苦笑いしながら答えた。


「ごめんね、奏汰くん、待たせちゃって。ちょっと忙しくて」


 蓮華が現れた。

 白いパンツルックに、襟の付いたノースリーブの、かちっとした青いシャツを着ていた。

 バーの仕事の時と違い、素肌に近いナチュラルなメイクで、髪も下ろしている。


 印象の違う蓮華に、奏汰は目を丸くした。


「なるべく七時までには戻るようにするけど、遠いし、時間が読めないから。いざとなったら、新香、京香ちゃん、今日は夜の方もよろしくね!」


「わかってるって」と中国人に見えた新香が答え、「いってらっしゃい」と眼鏡をかけた京香も微笑んだ。


 その後、蓮華と、サイレントベースの入った黒いケースを背負った奏汰は、電車に乗り、吉祥寺へと向かう。


 横浜からの道のりは遠く、長時間かかる。その間は、蓮華が喋っていた。

 支度をする時間もあまりなかったのか、電車の中で、喋りながらイヤリングを付け、鏡を見ながらピンク系のルージュを引いていた。


 事務所にいた二人は、彼女の高校の同級生で、三人とも名前の最後に「か」が付くことがきっかけで話をするようになり、友人となると、クラスでは「さんじん」と呼ばれていただとか、新香は中国語とタイ語を身に付け、時々アジア方面へ、アクセサリーや珍しいデザインの雑貨などを買い付けに行き、それを店に置いて売ったり、ネット販売もしているという。

 京香は主婦だが、子供はいない。経理の仕事と、新香とともに『J moon』のカフェタイムの調理もしている。


 話を聞くうちに、そのようなことがわかった。


 さらに、蓮華が、なぜあのような店を、その若さで経営しているのかも知った。


 音楽家の祖母と、社長の座を息子に譲り、今は会長となった音楽好きな祖父が『J moon』のオーナーであり、持ちビルの一階と地下を、蓮華に貸しているという。


 社長は楽をして二代目であったせいか、道楽者の上、音楽に理解がない。蓮華とも対立し、祖父も息子を見限っている、という。

 おとなしい母は父に逆らうこともなく、蓮華の突拍子もない行動にも、どうしていいかわからずであったようだ。


 学生の頃からほぼ家出状態の蓮華は、祖父母のところで養われ、ただひとりの弟とは、離れ離れになっている、ということも知った。


 祖父が音楽家の育成に力を入れていたため、蓮華も音楽関連者を雇い、のちにアーティストとしてデビュー出来るよう、ライブのチャンスを与えているのだった。


 自分も音楽を学んでいて、いくつかのバンドで歌ったり、演奏もしたが、そのうち、ひょんなことからカクテルの魅力にはまり、人と話すのが好きな性分もあって、そちらへ転向したという。


 奏汰には、想像もつかないことばかりであった。


 二人が、なぜ吉祥寺に向かっているのかというと、話は一週間前にさかのぼる。




「奏汰、悪いけど、また欲を言わせてくれ」

「何ですか?」


 バンドメンバーとの練習中、ベーシストの小畑ではなく、ギター担当の遠藤が言ってきた。


「なんか、ベースラインがワンパターンな気がするんだよなぁ。ああ、あと、Ⅱm7—Ⅴ7—Ⅰのコード進行のとこ、全部裏コードにしたいから、練習しといてくれ」


 奏汰には、何をどうしろと言われているのか、全然わからなかったのだった。

 アルバイトのシフトは入っていない日ではあったが、即座に店に駆けつけた。


「いらっしゃいませ。あら?」

「おはようございます」


 音楽界に限らず、業界では、その日初めて会う時は、夜であっても「おはようございます」と挨拶する。


「おはよう。どうしたの?」

「今日は、客として来ました」


 蓮華に促され、奏汰はカウンターに腰かけ、サイレントベースのケースを立て掛けた。


 その時、演奏が始まった。


「今日は、ライブ入ってるんですね」

「そう。何飲む?」

「ジントニックで」


 蓮華がカウンターの中で、ロンググラスに氷を入れ、ライムを絞ってグラスに入れ、ジンとトニックウォーターを注ぐ。一度だけ混ぜてから、奏汰に差し出した。


 それを飲みながら、奏汰は、しばらく生演奏を眺めていた。

 一曲終わると、蓮華を向き、口を開いた。


「俺、理論、全然わかんないんです」


 この場合は、音楽理論のことを指していることは、蓮華には伝わっていた。


「プロになるなら、ちゃんと勉強しておいた方がいいですよね? お金貯めて、専門学校にでも行った方がいいんじゃないかと思って……」


「つくづく真面目なのね」


 蓮華は、感心したように笑った。


「それを、高校時代に考えてたなら、まだ良かったかも」


「はあ、やっぱり、遅いですか……」


「音楽は実力の世界だから、学校なんかで受け身に勉強しててもね。自分で師匠探して弟子入りするのが一番勉強になるし、演奏するチャンスにも恵まれるわよ」


「師匠……」


 奏汰には、思い当たる人物はいなかった。

 ベースを聴いて影響を受けたのは、洋楽のベーシストだった。


「アメリカには、尊敬するベーシストはいますが……」


 蓮華は微笑んだ。


「それはもっと上達してから考えるとして、私が学生の時からずっとお世話になってる先生がいるんだけど、紹介しようか? 鍵盤も出来るし、ベースも出来るのよ」


「ホントですか!?」


 そのようないきさつで、蓮華の恩師がよく出入りする吉祥寺のスタジオへ、向かっていたのだった。




「おはようございまーす!」


 蓮華が、スタジオの重い扉を押し開ける。

 三〇代後半の、バンドメンバーと同じくらいの、体格の良い男が出迎える。


「橘良二先生よ」


 奏汰が挨拶すると、蓮華が橘に奏汰を紹介する。


「まあ、入りなよ」


 メンバーと同じように、気さくに橘が、招き入れた。


 マイクやドラムセット、ピアノ、エレキベース、ギター、アンプが数台、珍しいことに、ウッドベースも、ジャズオルガンもあった。


「それじゃあ、奏汰くん、まず一曲、一緒にやってみようか? エレキベースでいいぞ。コードはわかるよな?」


「はい」


 橘はピアノに座る。


 何の曲かは奏汰は知らなかったが、始めに、「こんな感じ」と、橘がさらっとピアノで弾き、テンポ等を決めると、さっそくセッションが始まった。


 蓮華は、身体でリズムを取り、楽しそうに見ている。


 一曲終わると、今度は、奏汰の持ってきたサイレントベースをアンプにつなぎ、同じ曲をもう一度二人で演奏した。


「なるほどな。結構上手いじゃないか。来週も来いよ」


「は、はい! ありがとうございます!」


 奏汰は、ぺこりとお辞儀をした。


「……っと、その前に、蓮ちゃん、久しぶりに、ちょっとやってみな」

「は、はい」


 蓮華は、「やっぱりね」と、渋々ジャズオルガンに向かった。

 最近、店が忙しくて……などと言い訳しながら、弾き始める。

 奏汰がジャズオルガンを、間近で見たのは初めてだ。


 コンサートでジャズオルガンの音を聴く時は、大抵がキーボードでジャズオルガンの音色に切り替えて演奏していたものだったので、本物が、このようながっしりとしたものだとは知らなかった。


 木目調で、二段ある鍵盤の上に、ドローバーという、長く出したり、引っ込めたりするつまみが、いくつもついていて、足鍵盤は細長く、2オクターブ分もあった。

 隣には、大きな箱形のスピーカーがあった。レスリースピーカーと呼ばれるもので、中で回転させ、コーラス効果がかかったような、音に広がりの出来るものだった。


 軽快なジャズの曲に、橘がそのうちウッドベースをはじき出した。

 奏汰は、蓮華の演奏にも驚いたが、橘の弦をはじく指に、目を奪われていた。


 自分の奏でる音と、全然違う。

 余韻が思ったよりも長く感じられ、余韻までもが弾んでいるように聴こえる。


 強烈に刺激を受けた奏汰は、演奏が終わって我に返り、拍手をするのに反応が遅れた。


 奏汰の知りたかった音楽理論も、必要なところだけを橘に教わり、とりあえず、解決はしたが、躍動感、生きている音楽、そんな風に感じた音は、奏汰の心の中で、ずっと鳴り響いていた。




※『Ev'ry Time We Say Goodbye』by Cole Porter

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