(3)『PEGASUS(ペガサス)』
「翔! 帰ってるか?」
ベースレッスン後、帰宅した奏汰が、勢いよくドアを開け、リビングに駆け込んだ。
アンプを通さず、エレキギターを弾いていた翔が、「ああ? なんだよ、うるせえな!」と、練習を中断されたのが気に入らない顔を上げた。
「とりあえず、これ、聴いてみろ」
背負っていたベースケースを床に置き、奏汰が斜めがけ鞄から取り出したCDを、数枚テーブルに並べていく。
スピーカーから流れる音楽は、ゆったりとしたアコースティック・ギターと男性ボーカル、ドラムもなく、キーボードもない、ベースをフィーチャーした曲だった。
「本当はCDで欲しかったんだけどーー中のライナーも読みたくてーー、今すぐには手に入らないみたいだったから、とりあえず買ってダウンロードしたんだ。それと、これの前衛になったCDを、優さんが持ってて」
優に借りたCDを取り出し、CDプレイヤーにセットする。
櫻井哲夫のアルバム『Cartas do Brasil』だった。
「相変わらず、マニアックなモン持ってるな、あの人」
敵わないとでも言わんばかりの苦笑いが、思わず翔の顔に滲み出る。
元『カシオペア』ベーシスト櫻井哲夫のことを、師匠の橘から知った奏汰は、彼の演奏を意識して聴くようになっていた。
「ボサノバか」
翔が呟く。
スピーカーから流れる音楽は、その場を異国に変える。
南国の気怠い雰囲気は、リラックスして純粋に音楽を楽しめたが、ボーカルとベースの高い技術と表現力には唸らされる。
「ベースは生とエレキではすごく雰囲気変わるし、メインの楽器じゃない分、メインにいろんな楽器を持ってこられるんだ。これなんて、一つのアルバムに、男声の曲も女声の曲も入ってるから、違う雰囲気の曲集めて、バラエティーに富んだアルバムを作ることが出来るんだなって、改めて思ったよ」
奏汰が、嬉しさを押さえ切れない様子で語る。
「次は、ダウンロードで買ったヤツ」
奏汰のスマートフォンをミニコンボに無線でつなぎ、流したものは、先のアルバムの後にリリースされた『BRASIL CONNECTION』No.1・No.2だった。
新しいほど、ますます洗練されていき、高揚感も高まっていく。
その元になったアルバム『Cartas do Brasil』は、ベーシストとしての挑戦と言えた。
「考えもしなかったけど、ギターみたいに、ベースでもコード鳴らしたり、メロディー弾いたりしても、カッコいいんだな!」
奏汰が惚れ惚れと聴く横で、翔は黙って耳を傾け、足でリズムを取る。
「それで、お前は、こういうのを、俺とやってみたい、と?」
決して嬉しそうには尋ねなかった翔に、奏汰は、大きく首を縦に振ってみせた。
翔は、溜め息を吐いてから、眉間に皺を寄せる。
「ボサノバのギターって、フォークならコードかき鳴らすだけでいいけどな、これみたいに、クラシックギターでちゃんと弾く場合は、メロもベースもバッキングも、全部独りでやるんだぜ? リズムも難しいし。なんでお前のために、俺がそんなめんどいことを!」
そう言った翔に、奏汰も負けずに言い返した。
「だったら、こっちのアルバムも聴いてみろよ。これは、俺だけじゃなく、お前にとっても、挑戦になるんだ」
テーブルに並べたCDの一つ、『PEGASUS』を取り出す。
櫻井哲夫と同じく、元『カシオペア』野呂一生のギターと、櫻井哲夫のベースのみのライブを収録したアルバムだった。
カシオペアの曲や、書き下ろしの楽曲等を、ベースとギターのみにアレンジし直している。
ありきたりでないコード進行はもちろん、リズムの正確さと呼吸、二人の技巧の高さならではの、想像を超えた表現力に、衝撃を受けた翔は、その世界に入り込んでいた。
なんてとんでもないモンを持って来やがったんだ、こいつは!?
すべてを聴き終わった時、翔は、奏汰を恨めしそうに見た。
「まずは、始めの方に聴いたボサノバのアルバムだが、ベースがギターみたいなこともやってんの、面白いかもな」
「そうなんだよ!」
奏汰が、嬉しそうな声を上げた。
「エフェクトかけてギターっぽく聴かせたり、ウッドベースも、エレクトリック・アップライト・ベースも、エレキベースも使い分けてるんだ!」
「あんなシンプルな編成で、ドラムもシンプルだし、パーカッション1個だけの曲もあるし、ベースとギターとボーカルだけで、あれだけのことをやってのけるとはな!」
「だろー? すごいだろー? こういうのやってみたい!」
「シンプルにするなら、曲によっては、ドラムは、パーカッションだけ打ち込み流してもいいよな。『Cartas do Brasil』の『ナヴェガンド・ソジーニョ』みたいに、2・4拍だけタンバリン小さく鳴らすだけとかでもいいし」
「ああ! あれも、シンプルでカッコいいよな!」
発展していく二人の会話のそばでは、雅人が悲しそうな顔になっていく。
「ひどい、奏汰、翔……。いくら俺がスランプだからって、お前たち、俺のドラムは、いらないのか?」
翔は、ぎょっとした顔になり、奏汰も慌てた。
「違う、違う! 雅人のドラムも、もちろん必要だから! あえて、ドラムに頼らないように、俺たち自身の練習としての話だからさ!」
雅人が、少しだけ安堵した表情を見せると、ホッとした奏汰は、特に表情も変えず、無言でいる琳都を見てから、翔に視線を移した。
「なあ、挑戦してみようぜ、翔。あんまり言うと、つけあがりそうだから言いたくないけど、お前の音楽センスを見込んで言ってるんだ。お前なら、このアルバムのギターみたいな演奏が出来るはずだと思って」
「『つけあがりそう』って、なんだよ、つくづく失礼なヤツだぜ!」
奏汰のセリフに、悪態を吐いて返した翔だが、すぐに、真顔になった。
「……俺、ボサノバ、弾いたことないぜ」
「俺もあんまりないけどさ、ジャズのコードがわかって、ジャズ弾いたことあるんだったら、すぐに勘を掴める気がするんだ。蓮華だって言ってたよ、ジャズをやれば、いろんなジャンルに応用効くって」
「またあのねーちゃんの受け売りか。だいたいな、挑戦するのは、自分の腕を磨くことにはなるけど、俺たちは、一刻も早く、自分たちの音楽を……!」
「スランプとか煮詰まってる今のうちは、とにかく、思い付いたことや、興味持ったことはやってみようよ。何が今後生かされるかわかんないんだから。とにかく、俺たちみたいな若いヤツは、経験が足りないんだからさ、何でもやってみないと」
「お前、先生やってるからって、説教くせえんだよ」
ツンケンした態度ながらも、翔は、さっそく、それまで練習していたエレキ・ギターをスタンドに立てかけ、アコースティック・ギターを構え直した。
「この俺が、最も難しいと、避けて来たジャンル、『ボサノバ』!」
「うん、俺も」奏汰が嬉しそうに笑う。
「ボサノバって、シンコペーション多いし、ベースのアクセントの位置も気を付けないとだからな。そして、俺も、ついに、こいつを使う時が来たか!」
そう言って、うっすら誇りがかったケースから、奏汰が、秘密兵器のごとく取り出したのは、6本の弦が張られたベースだった。
通常、ベースは、アコースティックもエレキも4弦だが、エレキには、5弦や6弦のものもある。
「ああ、あれか! あの、先輩から押し付けられてたヤツ!?」
「そう!」
見ているうちに、雅人が思い出した。
「高校ん時に、卒業した先輩が、カッコいいと思って買った6弦ベースが、結局は弾けなくて、無理矢理押し付けられて仕方なく、安く買ってたよな!」
翔と琳都に説明がてら、雅人が苦笑しながら、奏汰とベースを見ている。
「そうなんだ。俺も、あれから、いじってみたけど、6弦はネックも太くて、楽器自体重いから、つい4弦で済ませて来ちゃって。だけど、このCDみたいに、速いフレーズを弾くには、6弦の方がやりやすいから!」
チューニングを済ませた6弦あるエレキベースを触るうちに、奏汰は、懐かしそうな顔で微笑んだ。
スケールと練習曲の後、ウォーミングアップ代わりに、ボサノバの刻みパターンを試みていた翔と奏汰は、待ち切れずに、『PEGASUS』の中でも、なるべく取りかかりやすそうなものの聴き取りを始めた。
再現しようとすればするほど、難しさを実感する一方だ。
翔は学校を休み、ひたすら曲を聴き、耳コピーと練習に明け暮れていた。
奏汰は音響講師の仕事から帰宅後に取りかかる。
独特なコード進行が心地良い響きに浸りながら、演奏する。
アコースティック・ギターが、ベースも兼ねてコードを刻む。
それに乗っかったベースが、メロディーを奏でる。
アドリブに入ると、翔の技術で、リズムパートがもの足りなくなることはなく、奏汰は、好きなように動けたし、アドリブが翔にチェンジしても、同じことが言えた。
二人だけで合わせたのは初めてであったが、意外にもうまくいったと実感していた。
「いい感じじゃないか! 俺たち、天才かもな!」
有頂天になった奏汰に向かい、翔が、ふんと鼻で笑った。
「バーカ! 俺が合わせてやったんだろ?」
「えっ? 俺も合わせたけど?」
けろっと応える奏汰を、面白くなさそうに睨む翔だったが、「もう一回!」と、ギターを弾き出す。
回を重ねるごとに二人のセッションは馴染み、調子に乗って、自由過ぎるアドリブまで展開した。
『ペガサス』だったものは、いつの間にか、ノージャンルの曲へと移り変わる。
ジャンルにこだわらず、自由に。
互いに、多くの役割があり、難易度が高いが、まるで、それを楽しむように、二人の表情には微笑が浮かぶ。
『ペガサス』の真似っこと、ノージャンルのセッションを続けていた二人は、いつの間にか数時間が経過していたことに驚いた。
そのようなことが、数日続いた。
まだまだ本物の『ペガサス』の粋には達していなかったが、楽しさのあまり、『なんちゃってペガサス』と称して、数曲、録音してみることにした。
レコーダーのRECボタンを押したまま、二人は自由に弾き続けた。
※参考CD:
『Cartas do Brasil』by 櫻井哲夫
『BRASIL CONNECTION』No.1・No.2 by 櫻井哲夫
『PEGASUS』by 櫻井哲夫&野呂一生ライブ・アルバム
※タイトル引用楽曲:
『ナヴェガンド・ソジーニョ』by 櫻井哲夫




