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カクテル・バー『J moon』  作者: かがみ透
第七章『兄弟』
29/72

(1)講師

 横浜港町にあるカクテル・バー『J moon』。

 その日、閉店間際に駆け込んできた客がいた。

 そこの従業員も良く知る、関係の深い男だった。


「あら、先生、いらしてくれたの? 」


 女主人だがまだ若く、三〇歳そこそこである蓮華が、一際嬉しそうに、彼を出迎えた。


「ああ、赤レンガ倉庫でライブやってきたとこなんだ。せっかく近くまで来たからさ。それにしても、蓮ちゃん、仕事の時は、いい女だねぇ。いつも、道を誤りそうになっちゃうよ」


「またまた~♡ 先生ったら、お世辞言っても、料金はサービスしませんよ」


 ラスト・オーダーの時間は過ぎていたが、その四〇代ほどの男ーー橘のボトルを、チーフ・バーテンダーの優が、ロックグラスと氷とともに差し出す。


 橘は、ウイスキーを、待ち切れなさそうにグラスの氷を溶かしながら、一口飲んだ。


 従業員であるタケル、ハヤト、ケントが、それぞれ挨拶をする。ミュージシャン志望または趣味で音楽にハマッている二〇代の若者たちだ。


 テーブルを片付けている、この店には彼らよりも後に入ってきた奏汰も、現在、橘に、ベースのレッスンを受けていた。


「先生、おはようございます」


 音楽関係に限らず、業界などでは、その日、初めて会った時の挨拶は、例え夜であっても、すべて「おはよう」であった。


「おう、奏汰! 実は、今日は、お前に話があって、来たんだ」


 橘は、奏汰を、自分の近くへ招いた。


 橘が講師を努める音楽学校では、ミュージシャン志望の学生も多く、授業の一環として、学内でコンサートを開催することが必修となっている。


 橘が通うようになったのも、ここ一年ほどであり、前期のコンサートでは、演奏よりも、セッティングや、リハーサル、本番のトラブルに時間を取られてしまったのだという。

 それも含めて学ぶことになっているが、生楽器を演奏する彼らは、裏方の機械に疎いところもあった。


「今度、バンド演奏の実技テストをやるんだ。ピアノやボーカル、ギター、ドラムの専攻がいて、何人かは、かなり上手いんだが、ベースが人数少ない上に、下手なヤツばっかでさ。……っていうのも、本来ベース専門じゃないヤツがベースに回されて、仕方なくやってるもんだから、そいつらも可哀想なんだ。俺は、テスト前に、演奏の方をじっくり聴いて、指導してやりたいから、奏汰、俺の助手ってことで、ベース手伝ってやってくれないか? 全部で、ざっと十数グループなんだけど、どうだ? 」


 奏汰は、橘の話を受け、嬉しそうな顔になった。


「何グループ分、お手伝いすればいいですか? 」


「そうだな、中には、ピアノの左手がベース兼ねてるのとか、キーボードでベースやるのもいるから、……七グループくらいかな」


 奏汰は笑顔になった。


「やります! 俺で良ければ、是非! 」


 橘も笑顔になる。


「サンキュー! 助かるぜ! ああ、それと、もう一つ、テストとは別に、クラスでコンサートをやるんだが、その前に、授業で、音響の講義を、一回だけでいいから、頼みたいんだが、どうだ? 」


「えっ? 講義を、……俺がするんですか? 」


「お前、以前、PAの会社にいただろ? あいつら、演奏の方が好きで、つい音響をおろそかにしがちだから。もちろん、本来は、音響の授業もあって、講師もちゃんといるんだが、……なんだか最近、その先生が休んでてな。そういうの、よくあるんだよ、本業が忙しかったり、生徒や他の講師と合わないとかで、学校に来なくなることとかも」


 橘の話に、再度驚いた奏汰は、開いた口が塞がらなかった。


「……そんなことで、仕事になるんですか? 」


「音楽大学とは違うからかな? 入れ替わりも多いし、長くいる先生でも、突然辞めたりするし」


 橘は、小さく溜め息を吐いた。

 普段の彼からは見られない、少々困った様子に、奏汰は、彼の役に立つことと、自分の勉強にもなると思い、講義の依頼も引き受けることにした。


「良かった! あのくらいの年頃は、ベテランよりも、同世代のヤツの言うことの方が、響くこともあるんだ。あいつら、びっくりすると思うぜ。自分たちと年の変わらないお前が、講義したり、ベース聴かせてやったりすれば、いい刺激になるだろう。ああ、ウッドベースは学校にあるから、お前は、エレキだけ持ってくればいいからさ」


「わかりました。俺の方こそ、勉強になるんで。ありがとうございます」


 橘は、肩の荷が下りたような表情になり、帰っていった。




「昨日は、奏汰くん、あれから、ずっと、講義内容練ってたのよ。トラブった時に考えられる原因とか、対処の仕方とかも想定して。基本的な配線の仕方でいいって、先生には言われてたけど、専門学校時代の教科書とか、前の会社で使ってた資料とか本とかも見直してて。どんな質問されてもいいように、だって」


 翌日の閉店後、カウンター内で片付けをしながら、蓮華は嬉しそうに、優に言った。


「へえ、偉いね! 奏汰くん、凝り性だもんね」


 優も感心する。


「あ、でも、学校って言ったら、二〇歳前後の女子がいっぱいじゃない? ほとんど同世代みたいなものだし、奏汰くん、目移りしちゃわないかしら? 」


 シェイカーやメジャーカップを棚にしまいながら、優がきょとんとした顔で応える。


「いろんな女とくっついた方が、いい男になるって、蓮ちゃんだって、言ってたでしょう? 」


 蓮華が、少々ムッとした顔になる。


「お子ちゃまとくっついたって、何のメリットもないわよ。だいいち、美砂ちゃんみたいな良い子は、滅多にいないんだし、オトナの女と恋愛しなきゃ、いい男には、なれないの! 」


 優に言い返すと、蓮華は溜め息をついた。


「またあたしをヤキモキさせるのね? なんて、罪な子なのかしら」


 優は、苦笑いで答えた。


「お互い様なんじゃないの? 」




 数日後、奏汰が、一回だけの講義のために、橘の努める、都内の学校へと向かう。

 一部屋に四、五〇人が、テーブル付きの折りたたみ椅子に座り、ガヤガヤとしていた。


「今度のコンサートに向けて、セッティングの説明をしてくれる、蒼井奏汰くんだ」


 橘の紹介の後、奏汰は、ホワイトボードに配線図を書き、ボーカル用マイクや、楽器の音量等を、バランス良く聞こえさせるために調節するミキサーという機器を前に、説明していく。


「この部分のつまみはイコライザーで、音質を微妙に変えたり出来ますが、基本的なセッティングであれば、いじらなくていいです。コンサート会場が、こういった教室なら、リバーブをちょっとだけ、かけてあげると、余韻があって、演奏してると気分いいです。ただし、かけすぎは、ハウリングを起こしちゃうのと、コンサートホール並みにかけるのは、かえって不自然な感じするから、やめたといた方が無難かな」


 学生たちと近い距離で、講義をすることは、当然のことながら初めての奏汰であったが、緊張しながらも、なんとか、説明を終えた。


「俺の説明は以上です。何か質問はありますか? 」


「はいっ! 」


 一番に手を挙げた女子が言った。

「先生、年はいくつですかー? 」


 それを皮切りに、学生たちは、わいわいと質問を浴びせた。


「お仕事、何してるんですかー? 」

「彼女はいますかー? 」


 「は? 」という顔になってから、奏汰は、もう一度尋ねた。


「そういうことじゃなくて、PAのことは、皆もうわかったの? 」

「わかんなーい! 」


 きゃっきゃ笑う女子の声が、室内に充満した。

 それを、適当に切り上げてから、ケーブル巻きの練習に移る。


「そうじゃないよ、さっき、教えたでしょう? 八の字巻きだって」

「えー? 」

「だめだよ、それだと、ケーブルに巻いた跡が付いちゃうから、こうするんだよ。もっと丁寧に扱って」


 床中に敷き詰められた長いケーブルを、きゃっきゃ騒ぎながら、生徒たちは巻き取っていて、それを、奏汰がチェックして回り、あまりにひどいものは、巻き直させたりする必要もあったのだった。


「たかが道具だと思わないで。コンサートは演奏するだけじゃなくて、後片付けだって大事なんだからな」


 そう言って回る奏汰だった。




 校内にある、学生たちの利用する多目的ラウンジでは、缶コーヒーを飲む、橘と奏汰がいた。


「生徒たちって、いつも、あんな感じなんですか? 」


 奏汰が、橘に尋ねる。


「そうだよ。年々、アタマが低年齢化していくみたいだ」


 と、橘は、力なく笑った。


「最初の頃、俺も『結婚してますかー? 』とか、『子供は何人いますかー? 』とか、そんなのばっかりだったもん。専門学校っていったって、お前とは、勉強する姿勢が違うんだよ」


 奏汰は、まだ信じられないような顔だった。


「講義内容練って、わかりやすく説明したつもりだったのに、『わかんない』なんて言われて、がっかりですよ。コンサートには、裏方だって大事なのに」


 橘が微笑んだ。


「中には、真面目な子たちもいるからさ、そう落ち込むな」

「はあ」


 奏汰が溜め息をついていると、「あの、蒼井さん……」

 先程の教室にいたと思われる、二人の女子が、そこに立っていた。


 背が高く、すらっとしているショートカットの女子と、背は低く、セミロングの、まだ幼く見える女子だった。


「クラスコンサートとは関係ないんですが、私たち、今度スタジオ借りて、練習してみることにしたんです。蒼井さんの授業参考に、その配線を、考えてみたんですが、見ていただけますか? 」


「これが、配線図になるんですけど」


「いいよ、ちょっと見せて」


 微笑んだ奏汰は、図面を受け取った。


「奏汰、教えてあげてて。俺は、授業に行ってくるから」


 橘は微笑むと、席を立った。


 そして、一時間後、橘がラウンジに、様子を見に行った時には、奏汰の周りに、女子の人だかりが出来ていた。


「ねえねえ、先生、先生! 星座は? 」

「血液型は? 」

「どんな人が好きなんですかー? 」


 からかうような質問攻めに合う奏汰の側から、「あの、私たちは、これで……」と、始めに来た学生の二人は、遠慮してその場を去ろうとし、奏汰が引き止めているところだった。




「今日は、どうだった? 」


 仕事の後、アパートの奏汰の部屋を、私服に着替えた蓮華が訪れた。


「もー、ひどいんだよー」


 奏汰が、その日の出来事を話す間、蓮華は、おかしそうに笑っていた。


「先生が言うように、中には、真面目な子たちもいてさ、俺の授業聞いて、その後、自分たちで配線考えてくれたりってのもあったけど、その子たちに、じっくり教える時間もなく、他の子たちに邪魔されて……」


 愚痴を言うと、奏汰は、蓮華を抱きしめた。


「ああ、こうすると、落ち着く」


 奏汰の腕の中で、蓮華は、微笑んだ。


「ハグすると、ストレスが減るんですって」

「やっぱり? 」


 笑ってから、奏汰は、さらに彼女を抱きすくめた。

 蓮華の手も、彼の背に回る。


「あたしも、嫌な客がいても、こうしてると、気がまぎれるわ」


「何か嫌なことあったの? 」


「ううん、ないわよ。あっても平気。奏汰くんがいるから」


 奏汰は、蓮華を強く抱きしめた。


「俺も、蓮華がいるから、大丈夫だ」




 実技テストの日。

 リハーサルでは、奏汰が、学生たちのグループそれぞれと合わせ、確認していた。

 ベースは、あくまでも手伝いであるので、ソロはなく、他グループに差をつけないように、あまり凝ったことはしない。


 ジャズやバラードを選曲したグループには、学校のウッドベースを、ロックや現代曲のグループには、エレキベースに持ち替えて、演奏に加わった。


 その次に学校を訪れた時は、コンサートのリハーサルと本番であった。

 ベースが必要なグループには、奏汰が助っ人となり、出番のない時は、音響機材のところで控え、順番にグループで生徒たちがミキサーをいじるのを見守る。

 生徒たちだけでは対処できないトラブルが発生した時は、彼が出て行ったりした。


 なんとかコンサートが終了した時、見に来ていた学年主任の講師が、奏汰に声をかけた。


「きみが、橘先生のとこの? 」


 PAのトラブル対処が手慣れていて、スムーズであったのと、片付けている様子から、機材の扱いもわかっているところに、注目したという。


「なるほど、音響会社で働いていたのか。実は、この学校の音響担当の講師が、しばらく休んでいた上に、一身上の都合で、辞めてしまったから、困っててね。後任が決まるまでの間だけでいいから、良かったら、きみが、教えに来てくれないか? 」


「えっ? 」


 奏汰が、呆気に取られている横で、橘が口を添えた。


「やればいいじゃないか、奏汰! 夕方には授業は終わるから、蓮ちゃんとこのバーのバイトにも間に合うし、両立出来るだろ? 俺、副学園長と仲良いから、講師の話、してきてやるよ」


「えっ……ええっ!? 」


 奏汰が戸惑っている間に、音響担当の講師の手続きは進められた。


 後任が決まるまでの間だけということで、週に一、二度、朝から夕方まで、奏汰は、音楽学校の非常勤講師となったのだった。

 そのため、『J moon』以外のアルバイトは、辞めることに。


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