(2)いつもそばに
『J moon』のカウンターでは、ひとりで訪れていた須藤が、ブランデーベースのカクテルを飲んでいた。
「えっ、まだ口説いてなかったの?」
バーのママ蓮華のセリフに、シェイカーに材料を投入していたバーテンダーの優も、意外そうな顔になって、彼を見る。
カウンター内にいた、アルバイトの奏汰も、思わず彼に言った。
「須藤さんて、見かけによらず、……奥手なんですね」
「俺は、きみらと違って、一般人なんだから!」
須藤が苦笑いする。
「安心しきられてるみたいな? ……まあ、それも、悪くはないんだけど、どうも、『気のいいお兄さんとかおじさん』にしか、思われてない気がするんだよなぁ。心は開いてくれてそうなんだけど……」
須藤が、少々がっかりした様子で溜め息を吐くのを見て、奏汰が、じれったそうに言った。
「いきなりキスして、押し倒しちゃえば?」
「おいおい、きみなら、それもサマになるかも知れないけど、今の距離感で、俺がそれやったら、犯罪だよ、犯罪! 一般人の俺には、そんな風に持ち込めるテクニックはないっ!」
須藤が言い返すと、蓮華が、優を向いた。
「優ちゃんだったら、どうする?」
「僕だったら、そういう場合、相手から言わせるように仕向けるかなぁ」
「……それも、テクニックがいるよな」と、須藤。
「ママだったら?」
すがるような目で、須藤が、蓮華を見る。
「そうねぇ、あたしだったら、暗示かけておいてから、頃合いを見計らって、一気に口説くわね」
腕を組んで、蓮華が、にっこり笑う。
「俺も、暗示かけるようなことは言ってるのに、すべて冗談に取られてるんだよー!」
訴える須藤を、「やっぱりね」という顔で見つめる三人だった。
「だいたい、美砂ちゃんは、きみにまだ未練があるんだよ。だから、俺が、なかなか一歩を踏み出せないんじゃないか」
須藤が、奏汰を、恨めしそうに見ると、がっくりと肩を落とし、淋しそうに溜め息を吐いた。
「まあまあ、須藤くん、そう落ち込まないで。クリスマス・イブに、ここの従業員も参加するライブがあるから、良かったら、美砂ちゃんとおいでよ」
「そうですよ、美砂ちゃんには、俺からも、須藤さんとおいでってメールしておきますから。それなら、俺がヨリを戻そうとして誘ってるんじゃないってわかるから、変に勘ぐったりしないだろうし」
そう気遣う優と奏汰を、須藤が、上目遣いで見る。
「奏汰くんも、出るの?」
「ええ、まあ」
「そうしたら、美砂ちゃん、『やっぱり、奏汰くんがいい!』って、なっちゃわない?」
「えっ? ……いやあ……、ならないと思いますけど?」
奏汰の言うことを信じる気はない須藤が、大きく溜め息をついた。
「俺さぁ、もともとは、こんな奥手じゃなかったんだよ。高校の時だってモテてたし、大学でも何人か付き合ったし」
優の作ったウィスキーのカクテルを飲み、須藤は続けた。
「最後に付き合った子が、大学卒業したら地元に戻って、結婚しちゃったんだ。一年後には、一児の母になってたよ」
「もしかして、それを引き摺ってて……?」
奏汰が、同情するように、静かに尋ねた。
須藤は、フッと笑った。
「ま、それも多少はあるけど、しばらくは、仕事が楽しくてね。いいなぁと思ってるうちに、他のヤツに取られちゃったりとか。美砂ちゃんもだけど」
須藤が、「美砂ちゃんもだけど」を強調して言った後、奏汰を見てから視線を反らし、何度目かの大きな溜め息をつく。
「……なんか、今日、珍しく絡んで来ますね?」
奏汰が、蓮華にこっそり言う。
「それだけ、彼も、奏汰くんを認めてるし、心を開いているからよ。普段は弱みを見せない人だからこそ。お客さん、皆そうよ」
蓮華は小声で答え、ウィンクすると、須藤に向き直った。
須藤は、壁に貼られた、クリスマス・ライブのポスターを眺めている。
「イブなんて、カップルばっかりで、余計淋しくなるじゃないか。ああ、今年のイブも、ひとりかも……」
「ひとりじゃないわよ」
蓮華が、須藤に微笑んだ。
温かく包み込むような笑みだった。
「いいから、いらっしゃい。ねっ?」
その微笑みを見ているうちに、彼は、照れ臭そうに、少しだけ微笑んだ。
通勤中、美砂のところに、同級生からメールが入った。
同窓会以来、同じく東京で働く女友達だった。
『昨日は、お誘い断ってごめんね。でも、美砂、楽しそうだったから良かった!』
美砂は、あれっと思って、返事をした。
『楽しそうって? どこかで会った?』
『銀座のカフェで、コーヒー飲んでたでしょう?』
『ああ、あの時ね! 声かけてくれれば良かったのに』
『だって、彼氏と楽しそうに喋ってたから、邪魔したら悪いと思って』
その文面を見た時、美砂は、目が点になった。
『彼氏?』
『プリン食べてたよね? 格好いい人だね! 同じ会社の人?』
またも、美砂は、首を傾げた。
『格好いい? あの人が? あの人は、ただの会社の上司だよ』
『ええ~! あんなイケメンが上司なの? うらやましいっ!』
美砂にはよくわからなかったため、会社の昼休みに、めぐみと食事に出かけたついでに、聞いてみることにした。
「ねえ、めぐちゃん、須藤さんて、イケメンなのかなぁ?」
めぐみは、驚きのあまり、あんぐりと口を開いた。
「今さら、何言ってんの? イケメンに決まってるじゃないの!」
めぐみは、サラダを頬張ったまま、話し続けた。
「◯◯さんも、△△さんも、□□さんも、須藤さん目当てなんだから。須藤さんは、誰とでも同じような態度で、気付いてないんだか、うまくあしらってるんだか」
美砂が意外そうに、目を見開いた。
「そうだったの? ◯◯さんのことは噂で聞いてたけど……そんなに? あの人、そんなにモテてたんだね、知らなかった……」
「須藤さん、仕事はできるし、ノリはいいじゃない? 飲み会では、飲むと絡んで来て面倒くさい課長が、女子社員の方に行かないよう相手しながら、部長の説教くさい話も聞いてくれてて。助かる反面、皆、須藤さんと話したいと思っても、話せないもどかしさもあるけど」
「そうだったの……。私、てっきり、あの人って、三枚目かと」
「美砂ってば、理想高過ぎるんじゃないの!? なんで、あの人が三枚目なのよ? まあ、美砂の元カレーーカナタくんだっけ? 茶髪で顔立ちハッキリしててーーとは、タイプが違うだろうけど、須藤さんもイケメンだよ。松岡くんもイケメンなのに、美砂のこと好きなの周りも知ってるから、今は騒がれてないけど、研修中から目を付けてた子もいたし、須藤派の女子たちからは、美砂が須藤さんと同じシマに決まった時、うらやましがられてたんだよ。もうちょっと有り難みをわかりなよ!」
「そっ、そうだったの? 私って、もしかして、……ものすごく鈍感なのかしら?」
「……そのようだね。……ああ、だけど、待って」
めぐみが、記憶の糸をたどる。
「思い出した! 須藤さんは、亜矢先輩とも同期で、仲良いよね。『亜矢ちゃん』って、名前で呼んでるし。一時期付き合ってたとか、彼氏のいる亜矢先輩を思い続けてるから、浮いた噂がない……とも聞いたことあるよ。もしかしたら、ただの同期以上のものがあるのかもね、うん」
めぐみは確信したように頷いていた。
昼休みが終わり、オフィスに戻った美砂は、パソコンで作業している合間に、須藤と亜矢が資料を見ながら話しているのを、目の当たりにした。
めぐみに言われてみれば、二人は、以前から仲が良かったと思う。
亜矢さんには、ちゃんと彼氏がいるって、須藤さんだって知ってたし……ああ、でも、須藤さん本人は、実はどう思ってるのかな?
めぐみの言葉が、思い出される。
『亜矢先輩を思い続けてるから、浮いた噂がない……とも聞いたことあるよ』
美砂は、これまで気にならなかったことが、急に、気になり始めた。
夕方、須藤が、外回りついでに、そのまま直帰することになった。
そのまま帰っちゃうんだ……。
喪失感のようなものが、美砂の中に起こっていた。
定時に帰宅した美砂は、普段のように、アパートで、弟と夕食を取る。
「わーい、唐揚げだー!」
大学一年生の弟は、喜んで、箸をつけた。
「あれっ? これ、味ないよ?」
「えっ、そう?」
上の空で、美砂は、もくもくと、味のない唐揚げを食べている。
姉が、大根おろしをすってくれるなり、塩やソース、ケチャップなどをかけて、味を改良してくれることを期待して待っていた弟だったが、どうやら、手を加えてくれそうにないことを見て悟ると、弟は、醤油を取り出し、自分の分にだけかけて、食べることにした。
それからの美砂は、オフィスで、須藤と話す時も、目を合わせないようにしていたり、挨拶も素っ気なくしてしまったりと、なんだかぎくしゃくしていると、自分でも思った。
気が付くと、彼を目で追ってしまうことも増えていた。
須藤の方は、美砂に対し、なんら態度が変わることはない。
彼を嫌っているわけではないとは、自分でもわかっている。
彼に対して、もやもやする何かによって、ぎくしゃくとしてしまってはいても、帰りがけに、彼から「メシでも食ってく?」と声をかけられると、「はい!」と、まるで、それを待っていたかのように、嬉しそうに答えている自分にも、驚く。
だが、二人で歩いているところを、会社のメンバーに見られると、須藤が彼らのことも誘うので、なかなか二人きりで食事とはいかない。
これまでも、それは普通であったのが、今の美砂には、ひどく残念に思えてしまっていた。
その日も、偶然会った亜矢と松岡に、須藤が声をかけたため、四人で居酒屋の鍋を囲むこととなった。
美砂にとっては、複雑な想いだった。
気が回る亜矢が、春菊を鍋用の小皿に取り、須藤に渡す。
「亜矢さんて、須藤さんの好み、わかってるんですね」
松岡が感心する。
「須藤くんとは、付き合い長いから」
「僕、最初、亜矢さんと須藤さんが付き合ってるのかと思ってました」
隣の松岡を横目で見ると、美砂は、わからないように、須藤を観察した。
須藤は、中ジョッキを、美味そうに傾けてから、言った。
「亜矢ちゃんには、付き合い長い、オトナな彼がいるもんねー?」
からかうように、肘で隣の亜矢をつつく。
「須藤くんだって、いい人がいるんでしょう?」
「へっ!?」
驚いた須藤と、美砂が、微笑む亜矢に注目する。
「『最近、須藤くんは、どこかのバーに通っているそうだけど、そこのマダムがまだ若くて、きれいなお姉さまらしくてね。どうも、その人に入れ込んでいるらしい』……って、課長が言ってたわよ」
「ああ、なんだ、『J moon』のことか」
須藤が、ホッとした。
松岡が身を乗り出す。
「ああ、僕も知ってます! 連れてってもらったことあるんで。確かに、須藤さん、あそこのママと、すっごい仲良いんですよ。僕は苦手なんですけど」
「へえ、そうだったの?」
亜矢が面白そうに笑う。
「どうなんです、須藤さん? あのママのこと、好きなんですか? 好きでも、ああいう人って、本気では相手にしてくれないと思いますけど」
松岡がからかう。
美砂は、わからないように松岡を睨み、須藤をさっと見た。
「ちょっとお化粧直し」
にっこり笑って、須藤が席を立つ。
「はいはい、トイレね。いってらっしゃい」
亜矢が笑った。
「逃げましたね?」松岡も笑う。
美砂は、なんとも言えない視線を、須藤の背に送った。
※『White Christmas』by Irving Berlin




