(5)『Misty』
閉店後の『J moon』では、蓮華が、ジンにレモンを搾っただけのロックを、飲んでいた。
バックには、ジャズのバラード『Misty』が流れている。
蓮華自身も、よくライブで歌っていた曲だった。
タイトルのように、どうすることも出来ない恋する気持ちを持て余し、戸惑っている歌であった。
「まだ帰らないの?」
私服に着替えた優が、帰り際、気付いて声をかけた。
「うん」
仕事中はアップにしているウェーブのかかった髪は、肩や背に下りている。
彼女を見る限りでは、普段と変わらず、単に音楽を楽しみ、酒を飲んでいる風に映った。
だが、優には、少々、いつもの彼女と違うように感じ取れたのか、黙って、曲に聴き入っているようだった。
「奏汰くん、……今日は、アパートには帰らないかも」
ぽつんと、蓮華が呟いた。優に聞こえるように。
優は、立ったまま、カウンター席の蓮華を見下ろし、溜め息を吐いてから、言った。
「バカだな、蓮ちゃんは」
「……ほんとね……」
グラスに、氷を足すと、蓮華は、ジンに口をつけた。
「今時珍しい、あんないい子、連れてくるとは思わなかったわ。奏汰くん、本気になっちゃうかも」
蓮華から視線を反らした優は、呆れた顔になった。
「また同じ過ちを、繰り返してるの? まったく、学習効果ないんだから」
「そうね……」
蓮華も、優を見ずに、空を見上げて、少し微笑んだ。
「またうちで飲む?」
優が蓮華の背に、問いかけた。
十年間、何かあると、蓮華が優の部屋に、酒とつまみを持ち込んで、語り合っていた。それが、二人の間では、自然なことだった。
「ううん、大丈夫。ありがと」
歌の1コーラス目が終わったあたりで、優が、口を開いた。
「痩せ我慢しないで、奏汰くんに、本音でぶつかればいいのに」
蓮華は、黙っていた。
「だから、心のどこかで、年下だと思ってると、うまくいかないって、忠告したでしょ? 僕だって、年上と付き合った時、本音を話してくれない淋しさを経験してるんだから。前にもその話はしたよね?」
「……うん……」
反論はおろか、あまり反応のない彼女の後ろで、調子を狂わされた優は、黙った。
2コーラス目の『Misty』が、ピアノのアドリブへ、複雑なコードの、せつないサビの部分に到達する。
「優ちゃん、いい加減に、あたしのこと呆れたでしょう?」
「今さら、呆れるも何もないけどね」
優は、少し間を置いてから、気を取り直したように言った。
「でも、奏汰くんの場合、もしかしたら、一時的なものなのかも」
蓮華が、空を見上げる。
「そうかなぁ。優ちゃんて、こういう時、あんまり、本当のこと言わないから」
「バレてるか」
苦笑いをしながら、優は呟いた。
「……何か、僕に出来ること……ない?」
「一緒に飲んで」
初めて、蓮華が優を見る。
優は、蓮華の隣に腰かけた。
「奏汰くん、ベースも上手くなってきたし、自分から進んで、実技はもちろん、音楽理論の勉強もしてるし、橘先生も言ってたけど、今、急激に成長してるところなの。音楽方面でも、……恋愛方面でも、……もう、あたしの手なんか、必要じゃないのかも知れないわ」
「まだそうとは言い切れないと、思うけど。壁にぶつかるのは、これから何度でもあることだし。経験上、それは、わかってるでしょう?」
諭すように、優は続けた。
「蓮ちゃんは、年下が相手だと、いつも、自分が甘えないでしょ、カッコつけたがって。今までも、肝心な時に、痩せ我慢するから、相手には、本当の気持ちに気付いてもらえず、去られるパターンだったよね?」
蓮華は、すまして言った。
「だって、あたしの方が、おねえさんなんだから、器の大きいところ見せなくちゃ」
優は蓮華を向き、真面目な顔になった。
「器なんか、最初からないでしょ?」
蓮華が、下から睨む。
「今日は、随分、辛口ね。優ちゃん、やっぱり、ギムレットよりも、超淡麗辛口の吟醸酒なんじゃないの?」
「蓮ちゃんには、ずけずけ言うくらいで、ちょうどいいんだよ」
「じゃあ、もっと言って。この際だから。お酒も入ってることだし、多めに見てあげるから」
蓮華が、少し微笑んだ。
優は、容赦ない調子で告げた。
「周りを、やきもきさせ過ぎるよ」
「そう……。それから?」
「えーと……」
すぐに、優が、言葉に詰まった。
蓮華が、目を丸くして、優を覗き込む。
「……それだけ?」
「……その一言に尽きるかも……?」
優が、苦笑いをする。
「強い女って、……損ね……」
蓮華が、視線を遠くに移し、溜め息混じりに呟いた。
どこか淋しそうな、諦めたような微笑みとセリフに、同調したように、優の瞳には、遣る瀬なさが浮かんだ。
「いい男も、損だよ」
彼の腕は、彼女の背を通り、普段とは違う、その頼りない肩を引き寄せた。
自然に、彼の顔が近付いた。
蓮華は抵抗することなく、なるようになっても構わない、というように、優の腕に身を委ねた。
唇が、近付いていく。
「お待たせ、蓮華! やっと、新メニューの案まとまったから、打ち合わせ出来るよ!」と、全身エスニックな出で立ちの新香と、「すみませーん、忘れ物しちゃいましたー!」と、タケルとケントが、扉を勢いよく開けた。
優は、さっと、蓮華の肩から、手を外した。
蓮華も、酔いの醒めた顔で、皆を見回す。
「……何してたの?」
新香が、二人の距離が近いことを不自然に思ったようで、優と蓮華とを交互に見た。
「い、いやあ、ネタ合わせを」
咄嗟に、優が取り繕うが、
「なんなのよ、ネタ合わせって?」
「えっ? えーと……」
新香がますます首を傾げ、優も、言葉を濁す。
すると、横から、蓮華が人差し指を立てて言った。
「隣のキャクは、よくギャク言うキャクだ!」
「へっ!?」
優も含め、一同、蓮華の発言に、硬直するが、
「出来たわっ!」蓮華が、笑い出した。
「あはははは、面白いっ! それで行こう!」
優もそれを受けて、人差し指を立てて笑った。
「なにそれ? いったい、どこで披露するのよ? まさか、もう忘年会の打ち合わせ?」
新香が呆気に取られる。
タケルも、ケントも、口をぽかんと開けていた。
夜十二時を過ぎたあたりだった。
自宅のベッドで、パジャマを着て、横になってから、奏汰は、今日の出来事を振り返っていた。
なかなか眠れそうにない。
良かったのだろうか?
美砂に「好きだ」と言ったのは、成り行きではなかったか?
彼女のことを、可愛く、いじらしく思ったのは、本当だった。
だから、好きだと思った。
……これって、浮気……だよな……?
……それとも、……本気?
奏汰は、今、無性に、誰かと話したくなった。
「今日は、こっちに来ないのかな……? そりゃ、そうか。俺に、彼女を送ってこいって言ったってことは、……そのまま、泊まってきてもいいって意味もあったんだろうから」
例え、蓮華が来たところで、相談するのもおかしな話だと思い直す。
奏汰は、ごろんと寝返りを打った。
金曜の夜遅くは、ホテルは満室だった。
美砂は弟と二人で暮らしているので彼女のアパートには行かれず、蓮華が来るかも知れないここにも泊まらせるわけには行かず、それぞれに帰るしかなかった。
「俺と違って、蓮華は余裕だな……」
ふっと、冷めたように笑うと、奏汰は、無理に目を瞑った。
そして、優も、自宅のキッチンで、立ったままミネラルウォーターを飲み、呟いていた。
「危ないところだった。つい、いつもの調子で……」
彼は、ひとり反省していた。
※『Misty』作曲:Erroll Garner 作詞:Johnny Burke
※『Misty』作曲:Erroll Garner 作詞:Johnny Burke
奏汰&蓮華カップルの危機!?
第五章まだまだ続きます。




