(3)『Wave』
美砂と会うのは、何回目かだった。
奏汰がベースのレッスンで吉祥寺に行く日は、『J moon』のアルバイトは休みであったので、横浜に戻り、最寄り駅で、仕事帰りの美砂と落ち合うには、ちょうどいい時間であった。
少なくとも、奏汰には、同級生とピアノバーで飲む、それだけのことだった。
この時までは。
ベースがかさばらないよう、カウンター席の端に彼が座り、その隣に、美砂が座る。
美砂は、楽しそうに話し、カクテルを飲んでいるが、奏汰は、少し心配そうな顔になった。
「美砂ちゃん、大丈夫? なんか、いつもよりペース速いんじゃない?」
この頃には、互いに、名前で呼び合うようになっていた。
「だって、美味しいんだもん」
「バーでは、居酒屋のカクテルより度数強いから、あんまり、ハイペースで飲まない方がいいよ」
「そうなの?」
そのうち、ピアノに髪をアップにした女性が座り、マイクを口元に持って行くと、弾き語りが始まった。
「この曲は、なんていうの? なんだか、変わってるけど、きれいな曲ね」
「『Wave』。ボサノバの有名な曲だよ」
美砂に、やさしく奏汰が答えた。
その後で、彼は、弾き語りの女性の左手に、そこから見える範囲で注目する。
「しかし、なんてベースラインだ。ただきちんと譜面通りに、弾いてるだけみたいな? ベース弾く人は、こんな風には弾かないけどなぁ。ジャズとかボサノバ弾くのに、慣れてない人なのかな?」
眉間に皺を寄せて、そう奏汰が呟いている間、彼のボタンを外したシャツの合間から覗く、ドッグタグにも、美砂は目を留めた。
「アクセサリーも、彼女の趣味なのかな。ちょっと妬けちゃうな」
見蕩れながら、美砂が呟くが、ピアノに耳を傾けている奏汰には、聞こえていなかった。
「私ね、この間、言おうと思ってたんだけど……」
「なに?」
美砂は、恥ずかしそうに、だが、思い切って、言った。
「高校の時、奏汰くんのこと、……いいなって思ってたの」
奏汰は、笑った。
「またまたー、そんなに話したことなかったよね?」
「でも、……本当だったんだもん」
俯いている美砂を、奏汰は、覗き込んだ。
「今は……?」
奏汰の声に、美砂は、俯いたまま、小さく答えた。
「……でも、奏汰くんには、……いるし……」
奏汰は、美砂の方へ、向き直る。
「そういうことは関係なく、きみは、どう思うの?」
波に例えた愛の訪れを歌う女性ボーカルの美しく澄んだ声、明るくもあり、暗くもある和音の移り変わりが、間接照明も手伝い、日常ではない不思議な空間を創り上げていた。
美砂は、英語で歌われるその歌詞に、勇気づけられたとも言えた。
隣り合っているのは、同級生ではない。
二一歳の大人同士だった。
「今の奏汰くんの方が、……もっと好き……」
カウンター・テーブルの上に置かれた、美砂の手に、奏汰の手が重なった。
次の曲が始まっても、二人は、そのままでいた。
海の見える公園の柵に、奏汰はベースのケースを立て掛けた。
「やっぱり、飲むペース速かったみたい。ちょっと酔っちゃった」
美砂は、海の風で、乱れた髪を、押さえた。
「俺も少し酔ったかな」
柵に寄りかかった奏汰は、街灯が照らす、広い公園の景色を眺めった。
「えー? 奏汰くんは、お酒強いじゃない」
美砂が笑う。
「カクテルにじゃないよ」
「じゃあ、なあに?」
風になびく髪のサイドを押さえながら、美砂が、きらきらとした笑顔で尋ねた。
「歌と、きみに」
ふわっと、美砂の唇に、唇が触れた。
驚いた美砂は、硬直し、動けなくなった。
顔だけが、みるみる紅潮していく。
「いやだった?」
心配そうに、奏汰が美砂を見る。
「う、ううん! そんなことないわ。私、奏汰くんなら……! 奏汰くんとなら……いいの。私のこと、好きじゃなくても、構わないの。だから……!」
美砂の表情には、ある覚悟が現れていた。
「お願い……」
彼女の潤んだ瞳を見つめた奏汰は、もう一度、口づけると、緊張して固まった彼女の身体を、抱きしめた。
ホテルのベッドでは、美砂と奏汰が、隣り合って座る。
奏汰は、幅の広い、腕時計のラバーベルトを外し、サイドテーブルに置いた。
「呆れないでね。私、キスもしたことなかったの」
「さっき、わかった」
「そっ、そうなの?」
カーッと、美砂の頬が赤らむのを、奏汰は、微笑ましく思った。
「奏汰くんと、ここにいるのって、なんだか夢みたい」
「俺も、まさか、美砂ちゃんとこうなるとは、高校の時には、思ってもみなかったな」
奏汰照れたように笑ってから、美砂の顔を見つめた。本心を量るように。
「本当に、……いいの?」
こくんと、美砂が頷いた。
「私、変わりたいって、言ったでしょう? 本当は、ちょっと、こわいけど……」
「大丈夫だよ」
奏汰は美砂を抱き寄せると、そうっと口づけた。
「もうちょっと、力抜いて。……そう、そんな感じ」
美砂は目を閉じると、彼の導き通りに、こわばっている身体を、少しずつ開放していった。
奏汰の唇と手が、ゆっくりと、慎重に進んでいく。
「今日は、ありがとう。嬉しかった」
別れ際、頬を染めた美砂が、恥ずかしそうに俯きながら言った。
「またしような!」
顔を近付けてそう言う奏汰に、真っ赤になった美砂は、「いやーねー、もう!」と、笑いながら、ぶつ真似をした。
奏汰が自宅に帰り、ボーッとしていると、蓮華がやってきた。
「ああ、仕事終わったの? お疲れ」
どこか上の空で言った彼に、蓮華が、にこにこと近付く。
「奏汰くん、何ニヤニヤしてるの?」
「えっ? べ、別に」
奏汰は、すぐに真顔になった。
蓮華が顔を近付け、じーっと見る。
「……な、なに?」
多少の後ろめたさに、奏汰は、後退りしていく。
「顔と服にファンデーションついてるよ。それと、いつもと違うシャンプーとか、ボディーソープの香りがする……」
「えっ!!」
口紅は拭き取ったが、ファンデーションまでは、気が付かなかった。
ラブホテルのシャワーを浴びたのも、気付かれたか!?
奏汰は何も言えず、硬直して、蓮華の反応を待つが、彼の予想に反し、蓮華は瞳を輝かせている。
「そっかー、とうとう、奏汰くんにも、女が出来たのね! ねえねえ、どんな人なの?」
いろんな女とくっつけと言った彼女の意志に代わりはないことがわかると少し安心したが、罪悪感がなかったわけではないため、話す気になどなれない。
「ど、どうでもいいだろ、そんなの」
「今度、お店に連れて来なよ」
ますます、彼の驚く発言が飛び出す。
「……ホントに、大丈夫?」
思わず、本心を探るように、蓮華に注目する。
「なにが? ああ、大丈夫、大丈夫! 決して、苛めたりしないから」
「えっ、……まさか、百合ちゃん時みたいに、ケンカしたりしないよな?」
「しちゃうかもー?」
「なにっ!?」
「冗談よ~」
焦る奏汰に構わず、蓮華は、にっこり笑った。
「……ホントだろうな?」
奏汰は、蓮華が何を考えているのか、未だに、よくわからないのだった。
※『Wave』by アントニオ・カルロス・ジョビン
※『Wave』by アントニオ・カルロス・ジョビン
奏汰、まさかの浮気!?
同級生相手にオヤジ化!? (^^;
そして、蓮華の反応は……?
第五章、まだまだ続きます。




