(1)Introduction
ひとときが過ぎた後だった。
アパートでは、汗を拭った奏汰は、蓮華を抱え、彼女の肩よりも長い、緩いウェーブのかかった髪を、撫でていた。
初めて彼女と眠った時よりも、ぎこちなさは、なくなっていた。
彼の肌には、今流行りの、銀色のドッグタグがぶら下がり、音楽への未来に向かう言葉が、英語で彫られている。
「奏汰くん、……すごく良かったよ」
まだ上気した頬の蓮華が、囁いた。
「蓮華も。いつも、色っぽくて、かわいい」
奏汰は、抱えていた方の腕を引き寄せ、さらに、彼女と自分の身体を、密着させた。
「いいこと教えてあげる」
「うん、なに?」
奏汰が、愛おしい視線を、蓮華に送る。
蓮華は、無邪気な微笑みを送り返した。
「処女の攻め方」
奏汰は、拍子抜けした。
「なんで、今さら、処女を口説かなくちゃならないんだ? また変なこと言い出すんだから」
蓮華は、数枚の紙切れを、持ってきた。どれも、くしゃくしゃになっているのを広げたものだ。
「奏汰くんは、これからも、どんどんモテていくと思うの。ライブ参加するたびに、ファンも増えてるし」
紙切れは、ライブの後などに、客の女たちから、こっそり渡されたものだった。
電話番号やメールアドレスが書かれている。
奏汰がゴミ箱に捨てたのを、彼女が見つけたのだった。
「その子たちとは、一切、連絡取ってないから! 俺のメアドとかだって、全然教えてないし!」
奏汰が焦るが、蓮華の方は、きょとんとしていた。
「あら、気に入った子がいたなら、別に構わないのに」
「へっ!?」
奏汰は、耳を疑った。
「据え膳食わぬは男の恥とかって昔の言葉があるように、今後、そういうシチュエーションがあるかも知れないでしょう? もちろん、食う・食わないは自由だけど。相手は初めての子かも知れないんだし、そうでなくても、初心を忘れない為にも、知っておいた方がいいと思って」
奏汰は、真面目な顔になった。
「俺は、蓮華だけでいいんだよ。他の女なんか……」
肩越しから腕を回すと、蓮華を振り向かせた奏汰は、深く口づけた。
もう片方の手は、彼女の持つ紙を、握り締め、さらにくしゃくしゃにして奪い取る。
「そういうキスじゃだめっ!」
「えっ?」
蓮華の強い口調に、奏汰は、思わず離れた。
「最初のキスは、もっと軽く、やさしく触れるくらいでいいの」
このくらいね、と蓮華が、軽く、奏汰に口づけた。
「ふうん……??」
「感じる場所も、人によって違うんだから、あちこち探った方がいいわね」
「うん……?」
「特に、恋愛に疎い子の場合は、感覚があんまりない場合が多いのと、大抵は怖いものなんだから、緊張を解きほぐす為にも、根気よく、前戯には時間かけた方がいいわよ。最初に嫌な思いすると、ずっとトラウマになっちゃう子もいるからね」
蓮華は、大真面目だった。
思わず、奏汰も、真剣に聞いている。
「これまで付き合ってきた子も、なんとも言ってなかったし、そこまでの影響力のあることだとは、考えたこともなかったな……」
「そういう男の人って、多いわよね。まったく……」
蓮華の言い方は、やんわりしていたが、刺が含まれていた。
「……もしかして、……初め、嫌な思いでもした?」
肩を竦めた奏汰が、おそるおそる尋ねる。
「ああ、あたしじゃないけど、友達や他の人から相談された時にね、そう思っただけ。女の子の方も、ちゃんと相手に、不安なこととか、自分の思っていることを、伝えた方がいいと思うんだけどね……」
少し間をあけてから、気を取り直したように、蓮華は続けた。
「話は戻るけど、相手が、どうしても痛がっちゃう場合は、次回ってことにして、その日は、抱きしめてあげるだけとか、そういう風にした方がいいよ」
「あ、ああ……」
「それと、もう一つ、大事なことだけど、避妊は絶対よ。まだプロになってないんだし、今のこの大事な時期に、子供出来て、所帯持つわけにはいかないでしょう?」
「それは、そうだけど……ちょっと待て。何で、そんなに、俺に、他の女との関係を勧めるんだ?」
まさか、自分に飽きたのでは? と、不安になった奏汰の鼓動は、ドキドキと速まっていく。
蓮華が、ふっと笑った。
「奏汰くんがモテるってことは、彼女、つまりあたしが、奏汰くんを、魅力的にしてるってことでしょう? 裏を返せば、まあ、あたしがモテるのも、あなたのおかげってことになるけど」
そう蓮華は、軽く笑った。
「……また何かやらかすつもりなのか?」
奏汰は、目を丸くした。ますます気の抜けない思いであった。
この時、蓮華は、一言付け加えるべきであったかも知れなかった。
『あくまでも、一時的なものとして』と。
土曜日の日中、仕事の前に、蓮華は、カフェにいた。
そこには、友人の明日香と、涼子も同席している。
このところ、明日香の『魔性』は、影を潜めているようだった。
「だって、今まで関わった外国人だったら、マークが一番いいし、日本人の中では、優さん以上の人は、なかなかいそうもないし……」
「ちょっと、なんですって? あんた、まさか、優さんとも……!?」
一般常識人の涼子が、直ちに顔をしかめるが、蓮華は、素直に感心していた。
「へー、そんなに、優ちゃん、良かったんだぁ?」
明日香は、瞳を輝かせた。
「優さんと、ああなってみて、わかったんだけど、やっぱり、私には、マークが一番合ってるんだわ!」
「そっかぁ……! やっぱり、マークは、懐が深い人なんだね。良かったね!」
感心している蓮華とは対照的に、涼子は、呆れた顔になる。
「そう思ったら、他の男と遊ぶ気がしなくなっちゃってさー。もう疲れたわー」
明日香が笑いながら、コーヒーをすすった。
「遊びすぎよ!」
眉をへの字に寄せた涼子が、窘める。
聞いているのか、いないのか、ふと、明日香の表情が、穏やかに移り変わった。
「結婚……しちゃおうかな、……マークと……」
魔性の女の顔とは打って変わった、どこか初々しさのある、乙女の顔だった。
結婚という言葉に、涼子は、ピクッと反応した。
彼女も、結婚したくとも、それぞれの家の条件から、なかなか話が進まないため、常に過敏に反応してしまうのだった。
「彼なら、料理も作ってくれるし、私に家事や奥さん像を押し付けずに、ひとりの人として扱ってくれるだろうし、いつまでも、恋人感覚でいられそう。それなら、結婚してもいいかなぁ……って」
「国際結婚!? カッコいい!」
結婚などは全然眼中になさそうな蓮華が、無邪気に言った。
「まだわかんないけどね~!」
「結婚式の二次会は、是非、うちの店で!」
「いいわね!」
蓮華と明日香が、きゃっきゃ喜ぶ横では、涼子が「でもね、結婚なんて、簡単にはいかないものよ。ましてや、国際結婚なんて……!」と言いかけていたのだが、その声は、かき消されてしまった。
「それにしても、あの優さんと、よく十年間も、友情保ってたわねぇ。私には、考えられないわよ」
明日香が真面目な顔で、蓮華を見る。
「優ちゃんは、昔っから、あたしのこと、対象外だったのよ」
「ええ、ええ、そうかもねぇ」と、涼子が、横で頷いている。
「あら、でも、蓮華が望んでたら、それに応えないとは、言ってなかったわよ」
「なんですって?」
と、涼子が、さっと蓮華を見るが、蓮華は笑った。
「またー、優ちゃんは、そういうの、うまいのよ!」
蓮華が、過去の話を始めた。
十年前、蓮華が学生の時、彼と蓮華のジャズの師匠である橘ーー今は、奏汰のベースの師匠であるーーを介して、二人が友達になって、間もなくであった。
新宿のジャズスポット・バーでは、橘の関係者や、教え子たちが集まる場所であり、そこで働いていた優には、いろいろなことが見ているだけで伝わっていた。
恋愛の話をしなくても、彼には、誰がどのような恋愛をしているかも、おおよそわかってしまっていた。彼にだけは打ち明ける者もいれば、人の恋愛の噂話をする者もいた。
蓮華は、特に、自分から優に打ち明けたりはしなかったが、彼には、わかっていた。
彼のアパートには、よく友人たちが、男女混ざって集まっていた。
蓮華も、その中にいた。
なので、彼女が失恋した時も、話に付き合ったり、音楽の話に没頭したり、優のピアノに蓮華が歌を乗せたり、テレビのバラエティー番組を見たりなどは、普通だったという。
お互いの恋愛や、趣味、仕事や、周りの人との話などで、一晩中、酒を飲んで、語り明かしたこともあり、または、飲みながら、テレビを見ているうちに、二人とも、そのまま優の部屋で寝てしまったこともあった。
そのうち、優のバーテンダー師匠に、蓮華もカクテルを教わるようになったため、たまに、優に補習してもらったりもしたという。
手の小さい彼女には、シェイカーを振るうのが難しく、少し苦労した、などとも話す。
「……ってことは、あっても、男と女には、ならなかったからねー」
「あんた……、めっちゃ色気ないわね」
涼子が、微笑んでいる蓮華の横で、思い切り呆れていた。
「それは、ホントに、友情だわ……。始めから友人だったから、恋愛には発展しにくいのかしら? 優さん、音大出身だから、周りに女子がいるのも当たり前だっただろうし……そうかぁ、優さんにとっては、女友達って、案外存在するのかもね」
明日香は、信じられない顔になっていたが、なんとか自分の中で、納得しようとしているのが、傍からも見られる。
「女の嫌な面も、わかってるし。だから、モテてても、簡単には、その気にならないのよ。ああ、この間なんか、優ちゃん口説きかけたけど、うまく躱されちゃって。明日香ちゃんのようにはいかなかったわ」
蓮華が笑って言ったセリフに、う~ん、と明日香が、考え考え、答えた。
「その時、蓮華が『女だったら応える』って言ってたのに……。やっぱり、『男の友情』なのかしら……?」
「ちょっと、ちょっと、何をいきなり、そんなことになってんのよ? そりゃあ、私だって、蓮ちゃんには、優さんにしときなさいって言ったけどね、あんた、今、あの新しく入った、ミュージシャン志望の子とラブラブなんでしょう? 彼はどうするの? まさか、もういらないなんて、言うんじゃないでしょうね?」
「涼子、今度は、奏汰くんの肩持ってるの?」
明日香が、おかしそうに、ケラケラ笑い出す。
「だって、可哀想じゃない? 純粋な年下の子弄んでるみたいで、ひどいわよ!」
涼子が、二人を交互に見ながら、説教する。
蓮華は、微笑んだ。
「奏汰くんは、素直で、いい子で、大好きよ。最近では、ベースもますます上手になって、アドリブも出来るようになってきたの。今が、一番、伸びてるところだと思うわ。奏汰くんがライブに出る時に、来てくれる女の子のお客さんも増えて、そこそこ人気も出て来たし。だけど、これで、満足しちゃダメなの、彼を、至上最高のいい男に育てるには。奏汰くんは、まだ若いんだし、もっといろんな女とくっついた方が、もっともっといい男になっていくと思うの」
涼子が、またしても顔をしかめる。
「途中までは、いい話だと思って聞いてたら……、なんてこと言うのよ?」
蓮華は、構わず、にこやかに続けた。
「そうねえ、競馬で言ったら、いろいろ飼葉を与えて、運動させたら、毛ヅヤも良くなっていくし、そうやって調子を上げていくでしょう? 今は、まだ、レース前の、二歳馬ってとこかしら? な~んて!」
「なんなのよ、そのオヤジみたいな例えは! まったく、どこまで冗談なんだか……。そんなだから、優さん、蓮ちゃんのこと、女だと思えないんだわ。まったく、あんたの言うことって、つくづく理解出来ないわ」
涼子が頭を抱え、溜め息をついた。
「私には、そんな根気はないわ~。最初から出来上がってるものを、頂いた方がいいわ」
明日香には、蓮華の言うことが通じていたらしく、真面目に応えていた。




