かなしばり
「今日は寝つきがいいな」
僕は目を閉じながらつぶやいた。
深夜十二時に布団に入り、三十分ほどで眠気がやってきた。いつもより早く、スムーズだ。カーテンがゆっくりと締まるように、僕の意識はなくなってゆく。体の力は抜けてゆき、全身がそうっと布団に沈み込む。
その直後に夢が始まった。
まず、目に付いたのは女性教師だ。赤いセーターを着ていて、小学校低学年ぐらいの生徒を五人ほど引率している。ふとっちょの男の子と、リュックを背負った女の子がいる。ここは市立図書館のようだ。現実の市立図書館とは随分違う。夢の中の市立図書館は、古びたこげ茶色の本棚がよく似合っていた。館内には静かな空気が流れている。老人を中心とした利用客が同じフロアにいるようだが、死角に隠れているのか、僕の視界には入っていない。存在している吐息だけが伝わってくる。
小学生達はわりと静かにしている。大声をあげてはしゃぎまわって、他の利用客からクレームが出ることはなさそうだ。僕は安心した。短気な中年の利用客などが、「うるせえ!」と子供を怒鳴りつける光景を見なくてすむから。
女性教師は生徒達に図書館の歴史や、本の内容を説明している。僕は五メートルほど離れて、彼女達を見つめている。女性教師は僕に気付いたが、一秒ほど目を合わせただけで、すぐに生徒達に向き直った。僕に対して、あまり関心がないらしい。僕のことは視界に入れずに、生徒達に説明を続けている。生徒達の輪には入り、自分も同じように引率してもらいたい。そんな感情が、僕の心に湧く。
「このコーナーは日本の歴史について書かれた本が並んでいるね」
女性教師が棚を指差しながら説明している。
「みんな、見てごらん。織田信長の本があるよ。みんなの中で、織田信長のこと好きな人はいる?」
「僕は武田信玄が好きです」
ふとっちょの男の子が答える。周りの利用客の迷惑にならないように、ちゃんと小声で話している。
「騎馬隊がかっこいいんです」
「そう。武田信玄が好きなんだ。じゃあ、武田信玄の本を探してみようね」
女性教師がそう言ったとき、異様な気配がした。湿って腐っているような、生臭い気配だ。
カーテンが開いた窓を、僕は見た。
窓の外に、女が立っていた。白いワンピースを着ている。腰のあたりまで、長い黒髪を垂らしている。思わず目が合った。一目でわかる。この女は人間ではない。
(まるで貞子みたいだ)
僕は映画「リング」を思い出した。怖くなって目をそらした。
(恐ろしい霊が現れたぞ。はっきりとこちらを見ている。君達のことも見ているぞ!みんな、はやく逃げるんだ!)
女性教師たちに向かって叫ぶ。が、心の中で叫ぶばかりで、声が出ない。
「電車の本はどこにあるの?先生」
「どこだろうね。探してみようか」
(はやく図書館から逃げるんだ!この女の霊は部屋の中に入ってくるぞ!)
僕は窓を見た。女と再び目が合った。彼女の目は語っている。「すぐそっちへ行く」と。首筋から冷や汗が出てきた。背筋がぞっとする。女性教師たちよりも、僕のほうに攻撃性が向いているらしい。こちらにぴたりと目を合わせてくる。僕は視線をはずそうとするが、はずした途端、好奇心が湧いてきて、すぐに窓を見てしまう。そして、また目が合ってしまう。窓の女は、いよいよ館内へ入ってくるようだ。開いた両手を窓にへばりつかせている。窓ガラスに頬を押し付けている。頭が少しずつ、中へ入ってきている。
(逃げろ!みんな逃げろ!そして、俺も逃げなくちゃ!)
声が出ない。みんな気付いてくれない。数メートル先に、悪霊が入ってこようとしているのに、誰もそれに気付かない。僕はもどかしくて仕方がない。何で声が出ないんだ。
窓の方へ振り返ったとき、すでに女は館内へ入っていた。本棚の脇に立ち、びしょびしょに塗れた裸足で床を汚しながら、僕だけを見ている。
(入ってきた!)
僕は飛び上がった。
(どうして僕だけを見ている?小学生達のほうが目立っているのに!)
女性教師が助けてくれないものか、僕は思った。彼女が凛とした声で注意すれば、この悪霊は退散しそうな気がする。そんな気がするが、女性教師は僕のことはまったく見ないまま、生徒達を連れて次のフロアへ行ってしまった。
女と二人きりになった。相変わらず、目を合わせてくる。僕のことを、とても恨んでいるようだ。憎しみの対象を、僕に定めたようだ。
(これは殺される)
とっさにそう思い、本棚の角に自分のすねを叩き付けた。女は足を動かすでもなく、こちらに迫ってくる。早く逃げなければ。僕は繰り返し、角にすねをぶつけ続けた。
「痛い!」
叫び声とともに、僕は目がさめた。瞼が開き、ぼやけた視界が広がる。部屋の天井が見える。首を振って目線を横にずらすと、テレビが見える。自分の部屋だ。夢からさめたのだ。あの女から、逃げ切ることができたのだ。
目がさめてしまうと、夢の中のできごとは、とたんに怖くなくなってくる。とんだ夢を見たものだ――と笑い話になる。僕はすっかり気が楽になって、もう一度寝ようと思った。時計を見た。深夜十二時三十五分――。寝付いてから、五分ほどしか立っていない。かなり長い夢に感じたのだが。
布団にもぐり込み、顔半分だけを出して、眠りにつこうとした。
ふと、嫌な気配がして、窓を見てみる。
窓の外に、あの女がいた。
(そんな!)
両手を窓にへばりつかせ、中へ入ってこようとしている。
(夢からさめたんじゃなかったのか?それとも幽霊は実在するものなのか?そんな馬鹿なことがあるか。これは夢だ。起きたと思ったが、実はまだ夢の中だったんだ。ちゃんと目が覚めれば、こんな女、すぐにいなくなるさ)
僕はまた、眠気に襲われた。こんな女の目の前で眠りたくない。起きていたい。だが、体がうごかない。寝返りさえうてない。瞼は途方もない重さになっている。逆らえない。
僕はこのまま眠っていいのだろうか。