気持ちの行方
未成年者の飲酒ありと読める内容になっておりますので、R15指定とさせていただきます。
「じゃあ次、最後、斉藤さん」
はいよー、と彼は立ち上がった。
座敷の上座に進み、つい最近団長になったばかりの二回生、藤田の前で姿勢を正す。
「卒団証書、斉藤秀殿」
大学合唱団の追い出しコンパ。顧問の橋本やヴォイストレーナーの川上も交え、送別会代わりに四回生を送り出す。卒業生には手作りの卒団証書が渡される。
「貴方は、持ち前のリーダーシップで、リズム感無し、音も取れないベースを日付が変わるまでシゴき……」
おいおいヒドイな藤田ー、とベースのメンバーから苦情の声。
「……疲れ切ったメンバーを飲み屋に誘い、散々酔いつぶした挙句、二日酔いでグダグダになっているところを、またパート練習でシゴくという暴れっぷりで、ナマケモノから人間に進化させるという大挙を成し遂げられました」
うんうん、と頷く川上。クスクス笑っている女声陣。お前もベースだろ、とあちこちから藤田に野次が飛ぶ。斉藤はニヤニヤと笑いが止まらない。
「さらに昨年行われたソフトボール大会でも、鬼コーチとして団員を引っ張り見事優勝、文科系サークルのみならず体育系からも恐れられる存在となりました」
斉藤は右手の親指をグッと立ててみせる。
「次はシードだぞ。気合い入れろ!」
「いやいや、軟式野球部に勝つっておかしいでしょ」
誰にも相談することなく、斉藤が勝手に申し込んだソフトボール大会。男声陣は全員強制参加。練習は体育系も顔負けするほど熱のこもったもので、一回戦で負けるという大方の予想に反して勝ち進み、決勝では僅差で軟式野球部にも勝ってしまった。
「あれはマジでやり過ぎだったよなぁ……」
敦子の向かいに座っていた四回生の市川が、苦笑を浮かべながらビールを喉に流し込む。目の前に乱立しているビール瓶は、どれも注ぐには少しずつ足りない。
「すみません、今、新しいの頼んで来ます」
「ああ、いいよ。そのまま注ぎ足してくれれば」
すみません、ともう一度言ってから敦子はグラスにビールを注いだ。そういえば、ビールの注ぎ方のマナーを教えてくれたのも斉藤だった。
藤田が卒団証書の続きを読み上げる。
「一方、歌に関しては、誰よりも深い愛情をもって真摯に取り組み、その深い響きのある声は多くの聴衆を魅了しました」
定期演奏会でのバリトンソロ。柔らかく優しい斉藤の声は、今も敦子の耳に残っている。練習の時と同じように、自然体で伸び伸びと歌う姿に憧れた。
彼がアンサンブル・コンテストの個人練習を見てやると言ってくれた時は、本当に嬉しかった。期間は短く、パートも違ったが、歌う時の基本的な考え方や体の使い方を徹底的に教え込まれた。
そして一週間前、アンサンブル・コンテスト当日。敦子は斉藤から告白された。彼の気持ちには全く気付いていなかったから、心臓が止まるんじゃないかと思うくらい驚いた。返事は保留したまま、どうするか決められないでいる。
「ここに、貴方の卒団を認め、卒団証書を授与致します」
日付と団長職氏名を読み上げ、藤田は卒団証書の上下を反転させた。斉藤が恭しく礼をして記念品と共に受け取る。写真撮りまーす、という声に、二人は体勢を変えずに顔だけをカメラに向けた。
「それじゃ、一言お願いします!」
「うっす。えー……」
ああ、もうすぐ卒業してしまうんだ……。敦子の胸の奥がチクリと痛んだ。悲しいような、寂しいような、でもおめでとうございますと祝福してあげたい気持ちもある。難解な現代曲のように、いろいろなものが混ざり合い、互いに絡み合いながら、不思議な調和をもたらしている。
斉藤がコホン、と咳払いをした。
「……えー……挨拶をするより旨い酒を飲みながら皆とワイワイ言い合っている方が、俺の気持ちは伝わると思うので、挨拶はこれで終わります」
「いやいや、何かお願いしますよー。何かあるでしょ、何か」
「そうは言ってもなぁ……今日は、俺たち四回生のために、ありがとうございました。
えーと……特に、皆さんに贈る言葉は考えてなかったので、思い出作りのために、最後に質疑応答に応えます」
ブーイングの嵐にも負けず、質問ある人挙手! と斉藤が手を挙げると、一回生の上田が勢いよく、はい! と応じた。
「はい、上田君」
「一回生の時、一年間で四単位しか単位が取れなかったと聞きましたが、本当ですか?」
「はい、本当です」
即答した斉藤に、男声陣からおおー……と低い驚嘆が漏れる。事情を知っているらしい四回生が笑いをこらえて顔を歪ませた。いつもにこやかな橋本の眉間に深いシワが現れる。
「どうやって卒業出来たんですか?」
「そりゃあ二回生から必死で授業受けましたから」
「っていうか、どうやったら一年で四単位しか取れないなんてことになるんですか?」
「それはこっちが聞きたいよー。授業は全部皆勤、テストも受けたし、答案に名前もちゃんと書いたんだけどね」
斉藤は飄々と質問に答えていく。字が汚くて読めなかったんじゃないの、と市川が軽口を叩いた。
「取れた四単位って、何の講義だったんですか?」
「日本語講義A、B」
座敷内は一斉に笑いの渦に包まれた。あちこちから揶揄が飛んでくる。
「ちょっ、一年かかって日本語だけって何やってたんすか」
「どこの国から来たんすかー?」
「ワタシ、日本語、ワーカリマセン!」
「ホントにうちの大学受かったんすか?」
「うるさいよ、そこ。はい、次の質問!」
こうやって斉藤が皆と一緒に騒ぐのも、多分、今日で最後。練習を見てもらうことももう出来ない。
思えば、合唱団の思い出の中には、いつも彼の姿があった。新歓コンパ、合唱祭、コンクール、ソフトボール大会、夏合宿の肝試し、皆で流星群を見に行った時も、定期演奏会も、アンサンブル・コンテストも……。
場の雰囲気は賑やかで、どの団員も顔には温かい笑みが浮かんでいるのに、敦子だけは一人取り残されてついていけない。胸の奥はチクチクと少しずつ痛みを増して、心細くて不安な感じがする。
「ちょっと聞きにくいことでも良いっすか?」
「はい、藤田君」
「卒業後の進路は?」
「良くぞ聞いてくれたね藤田君」
藤田の肩をポンポン、と軽く叩く。
「卒業後の進路は……」
皆の視線が斉藤に集中する。敦子の視線も。
「うちの大学院に、進学が決まりましたー!」
えええええ? とユニゾンのように全員の声がきれいに揃った。
「追加募集があってギリギリ受かりました。そういうわけなんで、これからも宜しくお願いしまーす」
「ちょっ、ちょっと待ってください、聞いてないっすよ!」
「うん。今、初めて言ったし?」
「卒団証書と記念品、返して下さいよ!」
「バカ言うな、これはもう俺のもんだ」
いつもと同じように、楽しげに弾む声。皆の明るい笑顔。さっきまでのチクチクとした痛みは、ほっと気が抜けたような、胸の奥がじんわりと温かくなるような感覚に変わる。
この気持ちは、何だろう。どうして、ほっとしてるんだろう。どうして、嬉しいなんて感じてしまったんだろう。
藤田とジャレあっていた斉藤と目が合った。敦子は、思わず顔を下に逸してしまう。目の前が滲んでよく見えない。
「質疑応答終わりー。ありがとうございました!」
斉藤がピョコッと頭を下げて、座敷内には大きな拍手が沸いた。敦子も下を向いたまま、皆に合わせて指先だけを小さく打ち合わせる。手の甲にポタッと雫が落ちた。
「……敦子、ちょっと来い」
いつの間にか斉藤が隣に立っていた。敦子の腕をぐいっと引っ張り、そのままズンズン歩いて行く。座敷の外の冷たい板の間に敦子を座らせ、ちょっと待ってな、と言って廊下の奥へと姿を消した。
今は、そっとしておいて欲しいのに。
涙が両目からポロポロ零れる。心の中は様々な感情が入り乱れて、もうグチャグチャだ。
人の気配が近づいてきて、目の前に白いおしぼりが差し出された。
「……あー……ごめん」
「……なんで、謝るんですか?」
受け取ったおしぼりを広げて目の辺りに押し付けた。温かくて、少し心が落ち着く。
ごめん、と呟いた斉藤に、それじゃ答えになってないです、と返した。
「……どうして、院に行くこと、言ってくれなかったんですか?」
「皆を驚かせたくて、さ。結果が出たのが三日前だったんだよ」
「私にも、教えてくれなかった」
「それは、その……落ちてたらカッコ悪いし……」
「結果がわかった時点で教えてくれてもいいじゃないですか」
「あー、それは、だから……アパート、契約更新が間に合わなくてさ。下見しに行ったりとか、いろいろバタバタしてて……」
それより、と前置きしながら、斉藤は敦子と肩を並べるようにして座り込む。
「敦子は、何で泣いてる?」
「え……?」
「言ってみな。何で?」
顔を覗き込まれているような気配がした。そんなこと、聞かないで欲しい。自分でも混乱しているのに。
斉藤がいなくなると思ったら、胸が痛くなって。でも、違ってたから、嬉しくなって。自分のことが好きなんだったら、自分にだけは先に教えて欲しかったのに。
何かが敦子の胸の中に、ストンと落ちる。……ああ、そうか。そうだったんだ。
「顔、見せて」
おしぼりをそっと抜き取られて、涙に濡れた手を斉藤の手が優しく包み込んだ。
「うん? どうした? すごい顔してるけど」
「……好きです、付き合って下さい」
斉藤はふんわりと優しい笑みを浮かべて、Bravo! と囁いた。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。




