漆黒の狂気
それが、そのなにげない一歩が、始まりだった。
「あ! 見つけた!!」
玲は声を弾ませて、その場にしゃがみこんだ。
本当か、と他の場所を探していた秋彦も玲に近づき、玲の手元を覗き込む。
今、秋彦と玲は本堂の中で玲の落し物を探していた。蓮は今探してはいない。というのは、蓮は本堂にはまだ入らず、入り口のぎりぎりのところで扉を押さえていたからである。
本堂に取り付けられている堅牢なその扉は、この神社唯一の窓代わりと呼べるものである。不思議な事にこの神社は窓が極端に少なく、数少ない貴重な窓も、積み重なる荷物に覆われていた。寂びれた神社とは聞いていたが、巫女もいるようだし、てっきり丁寧に掃き清められていると思っていたのだが、どうもそういうわけでもないようにみえる。これではまるで物置小屋だ。外見とのギャップが凄まじいことこの上ない。
とどのつまり、実質光を取り込むための窓は、この甚だしく重い扉しかなかったのである。
懐中電灯は玲が一応もってきてはいたのだが、勝手に神社に侵入した罰でニコニコな笑みを絶やさない巫女さんに取り上げられてしまった。
曰く、
「無断で勝手に本堂の中に入ったのですから、これくらいは我慢してください」
だそうだ。言葉遣いは丁寧なのに、笑っていない目が少し怖かったと玲。隣にいた秋彦の顔が強張り、玲の目が半泣きになっていたほどなのだから、相当だろう。
まあそんなこんなで暗闇の中を探すわけにも行かず、一人違和感を感じるほどに重いこの扉を懸命に支えていたわけだ。
「ん? これって……お守り、か?」
秋の疑問を含ませた声に、玲は俯けていた顔を上げた。
「うん、そうだよ。蓮が射撃部の大会で優勝できるようにって、買ってきたの」
見つかってよかったあ~、と心底ホッとしたように手に持っているらしいお守りを愛しそうに見つめる。
そう、蓮は高校で射撃部に所属している。
元々今の高校に入ったのも、そこにあった射撃部が強豪だったからだ。
毎年全国大会に出場していて、高名な射撃の選手も多く輩出している。
去年、団体戦では一位。個人戦は全国大会で惜しくも二位。今年は雪辱戦になる予定である。やられたままで黙っているほど、軟な性格はしていない。心底認めたくはないが、自分はあの恭哉の兄なのである。
「全国大会で優勝するんじゃないかって言われてて、かつ勉強も優秀なんだから、反則だよな。やっぱり蓮って恭哉さんの弟なんだよなあ~」
これは同じく学業の成績もいい秋彦の談である。
この科白を聞いたとしたら、彼の友人達は、それはお前も同じだろう! と口をそろえて反論しただろう。というよりも、蓮達の通っている高校がすでに東京の中でもエリート中のエリート高校だけに、皆が皆頭が良いのであるが。
それはまあとにかく、やはり血筋という奴なのか、兄弟の恭哉共々、やれば大抵は何でも出来てしまう天才肌である。いや、正確にはその血筋を長年かけて意図的に作って来たのだが、今はそれはいい。
しかし、秋彦のその言葉には異議を申し立てたかった。認めていながらも、やはり性悪の恭哉と一緒にされるのは不名誉極まりない。
玲と秋彦の声に反論ようと、蓮は扉が閉じないよう慎重に気を配りながら、本堂に今度こそ足を踏み出した。
そう、踏み出した。
「…………え?」
その声が、誰の声だったのかは分からない。
ただ、蓮が本堂に足を着けた瞬間、手に握っていた金の懐中時計が輝きだしたのと、目の前が黄金色に染まったのは、克明に視覚することが出来た。
「な……!」
長い髪を一つに纏めた、先ほどの黒い服をまとった女は、目の前の信じがたい光景に極限まで目を見開いた。
目的を遂行するために本堂の周りに刻み込んでいた方陣を書く手が思わず止まる。
それは、まさに黄金の龍だった。
神森神社を中心として、何本もの黄金色の柱が立ち上がっている。
それは、あまりにも神秘的で、あまりにも荘厳。見るもの全て例外なくその威圧感に屈服されるのではないか。そんな思いを思わず抱いてしまう、それほどに堂々たる威容だった。
「これは……一体どうした事だろうな」
「か、閣下……!」
すぐ隣から聞こえた主君――黒いコートを羽織った男の声に、女は慌てて跪いた。
「よい、楽にせよ」
「は!」
生真面目に答えて、女は立ち上がり、恐る恐るといった様子で男に問いかける。
「これは一体……。見ての通り、まだ方陣は半分でさえ完成させておりません。周りに方陣のようなものは見受けられませんし、一体誰が、どうやって……」
「ふむ」
目の前の光景を真っ向から目にしているにもかかわらず、悠然とした態度を崩すことは一切なく、余裕のある仕草で男は頷いた。
「もしや、あの男か……」
「で、ですが、あの男は今ここにはいない筈では……?」
男は誰もが威圧されるような鋭い切れ長の眼で女を一瞥し、再び黄金の柱に視線を戻した。先ほどから光の余波を受けて、男のコートがバタバタとひるがえる。男の懐に、蓮と同じ光の柱に共鳴するように輝く、金色の懐中時計がのぞいていた。
「閣下……?」
女は思わず息を呑んだ。
男の、光に照らされる端正な顔には、女がかつて見たこともないほどの険しい表情が浮かんでいた。
蓮はきつく閉じていた目をゆっくりと開いた。
そのまま目を眩い光に慣れさせるために数度瞬かせて、無意識に顔を覆っていた腕を脇に降ろす。
「これは……」
あまり動揺はしていない様子で呟いて、レンは見慣れた姿を求めて左右に頭を振った。
「秋、玲。いるか?」
口に手を添えて名を呼んでみるが、あたりは一面光の渦が続くばかりで、人の姿など、見えるはずもない。
特に落胆もなく、レンはふむ、と一つ鼻を鳴らす。
どうも、近くに二人はいないらしい。それともこの正体不明の光によって交信を遮断でもされているのか。
「秋、玲。……やはりおらんか」
再度声を張り上げてみるも空しく、レンのよく通ると評判な澄んだ声も、目が潰されそうなほどに輝く光に吸い込まれてゆく。
レンは鷹揚に腕を組んだ。
「これはあまりよろしくないな。俺の事はともかく、二人が――特に玲が心配だ」
正直秋彦の事についてはあまり危機感を抱いてはいない。あれならすぐに冷静になれるだろうし、状況に応じて適切な対応も取れるはずだ。問題は玲である。
突然自分同様訳も分からない空間に放り出されて恐慌状態に陥っていなければいいが。玲も他の周りの女子に比べれば月とすっぽん並に冷静だが、かといってこういう状況に慣れている筈もない。それに、今の玲はいささか情緒不安定に過ぎる状態にある。どうしようもなく間が悪い。
少しばかり逡巡して、蓮は腕を解いた。
「仕方あるまい。どうにかしてここから抜け出そう。突破口は必ずあるはずだ」
蓮の予想通り、玲は混乱の絶頂にいた。
「なによ……これ……」
これは、ほとんど無意識のうちの言葉だったように思う。尤も、今はそんな事を考える余裕すらなかったわけでもあるが。
どこからどう見ても、目を擦っても目をつぶってみてもあたり一面光、光、光。左右にいた筈の友の姿も見えない。
なんだこれは。どうにか回りかけ始めた頭で思う。一体なにが起こった、と。
「ありえない。なにこれ。蓮は、秋は!?」
おそらく、こんな大声は生まれて初めて出したろう。それほどまでに玲は必死だった。
もともと、あまり頭で考えずに即行動する事が多い玲だ。
命一杯動けるだけ動いて、後の始末はほとんど秋彦や蓮に押し付ける事も多い。つまり、ややこしい事は出来るだけ避けてきたのであり、そういうことは秋彦や蓮に任せる事が大半だった玲である。こんな訳の分からない状況に放り込まれて、玲が混乱しないわけがなかったのだった。
ならなぜ蓮達と同じ優秀な高校に入ることが出来たのかといえば、そこに玲の本質が如実に現れているといえるだろう。
「……秋! 蓮! どこにいるのよー!!」
今にも泣き出しそうに顔を歪ませて、玲は信頼している二人の名を呼び続ける。
「……秋! 蓮……!」
呼んでも呼んでも返ってこない返事に堪らなくなって、玲は知らず知らずのうちに走り出していた。
運動部に所属しているため、足腰は強い自信がある。
だが、やはり走っても走っても視界をかするのは黄金色に輝く光のみ。
気が狂いそうになるほどに、周りは光だけだった。
視界が滲む。
目頭が熱くなったその反射で目を瞑ったのがいけなかったのだろう。
何か巨大なものに正面からまともにぶつかって、小柄な玲は勢いよくひっくり返る。
玲はこの瞬間、確かに喜びを感じていた。
誰の姿も見受けられなかったこの状況で、誰かしらがいるというこの事実が、玲に少なからず希望を与えていたのだ。きっと相手も迷っているのだろうし、協力してこのどうしようもない状況から脱出できるのではないかと。
それが秋彦か蓮ならなおの事もうけものである。
だが、玲のそのささやかな希望はすぐに砕け散る事になった。
喜々として瞳を開いた玲の笑みは、目の前の光景を直視したまま凍りつく。
「……うそ」
玲のパリパリに乾いた唇からは、絶望に彩られた言葉が躍り出た。
目頭に溜まった涙が、ポロリと零れ落ちる。
玲の脳裏に、この神森神社に流れている一つの噂がよぎった。
――――神森神社は、時折化け物を呼び寄せる。
玲は、ただ悲鳴を飲み込む。それしか出来なかった。
座り込んでいる玲に影を落としていたのは、まさに“異形”としか形容しようがない風体をした――――――
「ぐるるるる……!」
――――――――光と対比するようにたたずむ、巨大な漆黒の狼だった。
「い、いや……!」
今度こそ冷静さを完全に手放した玲の体を動かしたのは、ひとえに玲自身にかろうじて存在していた本能のみだった。
腰の抜けた体を無理矢理叱咤して、反射に近い動きで玲は走る。その速さたるや、先ほどの比ではない。文字通り全力疾走で玲は無我夢中で駆けた。
もし玲にある程度思考する余裕があったとすれば、この速さならオリンピックでも優勝できたかもしれない、と思ったことだろうことは想像に難くない。それほどの速さだった。
だが、現実でそう思えるほどの余裕が玲にあるはずもない。
蓮なら、あるいは可能だったかもしれないが、蓮ならばそもそも逃げるという事をしなかったろう。なんだかんだで飄々と危機を乗り越える事が出来る。それが十分に可能ほどの冷静さと知能が、例外的に蓮には存在した。
しかし、何度も言うが、それほどのものが玲に――そもそも普通の一般人にも――あるはずもない。
なにせ、突然訳の分からない光の洪水の中に飛ばされた上に、極めつけのように恐ろしげな雰囲気を醸し出している正体不明の“化け物”に追いかけられている、この光景では。
「いや、いや、いや……!」
恐怖で振り返ることなど出来はしないが、それでもあの“化け物”が迫っている気配くらいは、戦いの素人でも容易に察する事が出来た。
一歩。また一歩。
少しずつ差が縮まってくるのを頭ではなく肌で感じて、玲の思考はここに来て再び凍りついた。
駆けるというよりは、もうむしろ転がる様な体勢になって、玲は走るスピードを上げた。もう限界に近いどころか、限界をすでに超えていたに違いない。
「…………っ!」
不意に肌が何かを察知して粟立つのを敏感に感じ、はじかれたように振り向くと、案の定“化物”の顔が目前に迫っているのが見えて、玲は悲鳴を上げながら無意識のうちに肩に掛けていた鞄を“化け物”に投げつけていた。
傷を負わせることは出来ないとわかってはいたが、図らずも“化け物”をひるませる事に成功し、このうちに差を広げよう、と玲が僅かに精神的余裕を取り戻した、まさにその時だった。
「…………ぁ!」
玲は絶望的な悲鳴を上げた。
足が恐怖で竦んでいたからかもしれないし、ただ単につまずいただけかもしれない。どんな要因があったにせよ、この時、この状況で、玲は盛大に転んだ。
「…………っ!」
どさっと、やはり黄金色の地面に倒れこむ。
同時に足首に針に貫かれたような鋭い痛み。
最悪な事に、この場唯一の生命線である足までも挫いてしまったようだ。
玲はこれが示す未来に一瞬愕然として、ハッと頭を上げる。
そこには、玲が鞄を投げつけたからかもしれない、最初の頃よりも目に怒りを宿らせ、全身から玲が恐怖で震え上がってしまうには十分すぎるほどの威圧感を放っている“化け物”が、悠然と立ち塞がっていた。
もう、玲との距離は一メートルもない。
――殺される。
素人にさえ感じ取れるほどの濃密な殺気を受けて、玲は当たり前のようにそう思った。
目の前にいる“化け物”にある鋭い爪、口から覗くその牙で、玲は自然の摂理に則って、その命を絶たれるだろう、と。
「あ……」
“化け物”が殺傷力が非常に高いであろう鋭い爪を振り上げる光景を見、玲は自身の死を確信した。
「……ぃ」
――だが、そこで一縷の希望を求めてしまうのが人という生き物。
“化け物”の爪が玲の喉を切り裂くであろう光景が脳裏を掠めた後に浮かんできた人物を求めて、玲は喉がはちきれんばかりに悲鳴を上げた。
「い、いやああぁぁぁぁぁああああああ!!」
もうすぐ来るであろう衝撃にきつく目を閉じて、自分が知らず知らずのうちに涙を流していた事に気付いた、刹那。
――バン。
「…………え?」
銃声のような乾いた音に、玲は反射的に目を見開いた。
頭の中が絶望で真っ黒に塗りつぶされていた中で、その銃声は玲に希望の――一筋の光を与えたのだ。
――まさか、まさかまさかまさか!
呆然と“化け物”の方に視線を投げかけると、先ほどまで確かに蹂躙者であった“化け物”の漆黒の巨体は血らしき物を撒き散らしながら遠くまで吹っ飛んでいた。
次に“化け物”をふっ飛ばしたであろう音の原因を探ろうと“化け物”の反対側に視線を移して、玲は頬が緩むのを自覚した。
「蓮、秋!!」
玲から二・三メートルほど離れたところに、銃のようなものを颯爽と構える蓮と、蓮の隣にたたずむ秋彦の姿があった。
拝観いただきまして、真にありがとうございました。