第一幕(1)
(あ~……やっちゃったぁ……)
ざわざわと不明瞭な言葉の波を聞きながら、政斗は突き出した右拳をしまえずにいた。
時間はちょうど未の刻。夕食にちょうどいい時間だ。飲食街であるこの通りは、仕事帰りにくり出して来た者で溢れかえっている。
その全ての者の視線が今、政斗と彼の拳の先で倒れ臥した巨漢の男に注がれていた。
固まったまま倒れた男を見ると、彼の懐から何やら丸い物が転がり出る。掌に収まるほどの紋章と思しき物。それはコロコロと回転しながら、政斗の爪先に当たって止まった。
ザワリと周りの喧騒が揺れる。
「お、おい。あれって、兵部省の……戦衛府の紋章じゃっ」
「藍の房がついてる! 隊長格じゃねぇか」
(あ~…………)
周囲のざわめきに、政斗は遠い目をした。
足元にあるのは、月と桜を模した紋章。この大和国の紋章だ。そして、縁には刃の装飾。兵部省の中でも、戦衛府という国内外問わず戦いに赴く部隊の物だ。そして、衿につける留め具型ではなく、房つきの手に持って見せる型は上位者の証。
「やっちまったよなぁ、コレ」
政斗はようやく拳を戻し、髪をかき上げた。掌に右目を覆った黒い布が触れる。左だけさらされた黒の隻眼に映るのは、どう転んでも戦衛府の隊長格が伸びた姿。
仮にも武人ならこれ位で気絶するなよ、とは思うが、拳は下顎に当たっていた気もする。
「あ~……」
無意味な音を口から出し、政斗は左目を周囲に動かした。囲んでいる者は皆、一様に青い顔をしている。それもそのはず。
大和国において、宮中で働く者は庶民よりかなりの上級とされる。それは後宮勤めや、技芸勤めも同じ。どのような妓女であっても、貴族や皇族を相手にするということで、一定以上の知性、教養が求められるのだ。
そのため、宮中に勤める者はそれだけの実力と知能があると判断され、格が上となる。
ましてや武官として宮中に入れたということは、文武両道の者ということ。しかもこの男、身形からしておそらく貴族。
「…………逃げるか」
三つ数える間に結論を出した政斗は、機敏な動作で回れ右をする。
大事が宮中に伝われるまでに姿をくらませれば良い。どの道、大和国に長居をするつもりはない。
旅から旅への根無し草。それが今まで繰り返してきた政斗の生き方なのだから。
そうして一歩目を踏み出したのだが、挙げた足を地に着ける前に誰かに腕を掴まれる。冷や汗をかきながら振り向いた左目に、柔和な男の顔が映った。
「失礼。私は兵部省戦衛府副長を務めております、月矩士郎と申します」
士郎と名のる男性は、適度な長さの黒髪を軽く結い、人当たりの良い笑顔を浮かべる。だが逆に、左目の上を縦に走る刀傷と政斗の腕を掴む力は、彼が歴戦の猛者であることを伝えていた。そして、所属は兵部省戦衛府。今、地面で伸びている男と同じ。
政斗は深く息を吐き出す。
「ご同行、願えますね?」
朗らかな笑顔の裏に、『ついてこねぇと、どうなるか分かってんだろうな』という修羅の顔を見た気がした。