幕間 三
筝子は、上司である侍従長に、その日の報告をしているところだった。これが済めば、今日の仕事は終わりだ。早く官舎の自室に戻って休もう。
「……で、以上です」
「わかりました。今日も一日お疲れ様。明日は前準備の最終日です。式典を滞りなく進行させるためにも、明日が肝心です。何か問題があればすぐに報告するように」
「はい」
「下がっていいわよ。しっかり休んでね」
「はい。お疲れ様でした」
一礼して、長官室を辞そうとすると、「あ、ちょっと待って」と声がかかった。
「これから官舎に帰るんでしょう?この資料、大野さんに届けてくれない?」
差し出されたのはホッチキスで留められた数枚の紙だった。
「大野さんに、ですか。わかりました。……でもこれ、何ですか?」
「新年の儀の祭式についての資料のコピーよ。頼まれてたから。近侍の仕事とは関係無いけど、興味があるんですって。変わった子よね」
確かに、と筝子は思う。何もわざわざこの忙しい時期に勉強しなくてもいいだろうに。関心を通り越して呆れそうだ、とぼんやり考えていると、侍従長は意外なことを口にした。
「大野さんだって、ある程度は知っているはずよ。お母様が神宮で働いてたくらいだし」
「……え?」
大野さんのお母さんが?
筝子には初耳だった。
「あ、知らなかった?働いてたって言っても、神祇官じゃないし、侍従職でもなくて、確か事務職だったと思うけど。それもあって、大野さんもよく神宮には出入りしてたんじゃないかしら。彼女、神宮のことに結構詳しいでしょう?
でもそれも、お母様が亡くなられるまでのことだったと思うわ。確かその後、ガーレンに留学したんじゃなかったかしら。そして帰ってきたところで、近侍の採用試験を受けたんでしょうね」
「そうだったんですか……。知りませんでした」
筝子が呆然としていると、侍従長は苦笑して言った。
「彼女は何も言わないものね。同僚ともあまり話さないんでしょう?仕事は良くやってくれるし、問題は起こさないからいいけど……。でも春比奈様には良く思われてないみたいだし、こっちとしてもちょっと持て余しちゃうのよねぇ。まぁ、あんな噂があれば、仕方が無いのかもしれないけど」
侍従長は少し憂い顔だ。噂とは何のことだろう、と筝子は怪訝に思った。
「そうよね、新しい人は知らなくて当然よね。噂っていうのは……」
そして、侍従長は更に驚くべきことを言った。
「大野さんが、有明様の腹違いの妹なんじゃないかってこと」
***
有明様の妹、ということは、つまり……。
官舎へと向かいながらも、筝子の頭の中は先ほど聞いた話でいっぱいだった。
有明は、先代巫女姫の兄夫婦の娘、つまり華英の姉ということになっているが、実は、先代巫女姫の産んだ子だった。これは公にはされていないが、神宮の関係者なら誰でもが知っている事実で、しかしその父親はというと、誰も知らなかった。
先代が妊娠した頃、千の父親と頻繁に会っていたという情報があり、そこから噂が生まれたのだという。
当事者のうち、千の父親は十二年前に他界しているし、先代は何も語らない。有明は十ヶ月前に宮を出奔して駆け落ちしている。突然の出奔も、原因はそこにあるのではないかと言う者もいるらしい。
真実は定かではない。だがそれ故に噂は流れ続ける。
春比奈と千の不仲の原因も、そこにあるのかもしれない。筝子は思った。あの時の出来事は近侍しか知らない。春比奈が他言を禁じたからだ。あの日の春比奈の激昂を。
***
それは、新しい巫女姫と、新しい近侍達の、初顔合わせの日のことだった。これから仕事場となる春比奈の私室へ赴き、一人一人挨拶する。最年長の希恵から順に入室し、最後に千が入った時。春比奈の表情が変わった。一礼して顔を上げた千は、読めない表情でそんな春比奈を見つめている。
「あんた……!なんで、ここに……!!」
「大野千と申します。本日より、巫女姫様付きの近侍として、誠心誠意仕えさせていただきます。よろしくお願いします」
「そんなこと聞いてるんじゃないわっ!なんであんたがここに居るのよ!ガーレンに行ったんじゃなかったの!?」
「先日帰国いたしました」
「誰がこんなこと許したの!お父さんは!?」
「樫彦様は全てご存知です。採用者の最終決定は、樫彦様がなさいました」
「そんな……!知ってて、なんでっ!?」
狼狽する春比奈に対し、千は実に冷静だった。そのアンバランスな光景に、筝子たち他の近侍は圧倒されていた。
「だいたいあんた、何のつもり!近侍だなんて……!ふざけないでよ!」
春比奈は椅子から立ち上がり、千に近付いた。大きな瞳が怒りを湛えている。
「何なのよ、一体!罪滅ぼしとか、恩返しとか……そういうつもりなら絶対許さないわ!あんたがそうやって近くに侍るなんて絶対嫌よ!」
「ですが、姫様。……!」
痛々しい音がして、筝子は咄嗟に目を瞑った。春比奈の平手が千の頬に飛んだようだった。
「姫様、なんて……!あんたに!呼ばれたくないっ!」
春比奈は千の腕を掴み、部屋の外に押し出した。
「あんたなんかに世話されたくない!出て行ってよ!」
そして音を立てて襖を閉めた。襖の向こうから、「姫様……」と千の声がする。
「姫様。たとえ姫様がお許しにならなくても。私はもう姫様の近侍です。辞めるつもりはありません」
「どっか行って!」
「……今日のところは失礼します」
千はひとまず立ち去ったようだ。春比奈はまだ襖を睨みつけている。
それから、少し心を落ち着けたのか、やっと筝子たちの方へ目を向け、済まなそうな顔をした。
「……取り乱しちゃって、ごめん。今日のところは、もういいから。明日からよろしくね。…………さっきのことは、忘れて。あと、他言無用で、お願い」
襖を閉める直前に見た春比奈の姿は、千を叩いた右手を強く握り締め俯いていて……悲しげなように、筝子には見えた。