幕間 二
筝子は今、とてつもない緊張を強いられていた。廊下で人に呼び止められ、春比奈に言伝があると言われた。それ自体は普通のことなのだが、その相手が普通じゃなかった。
圧倒的なオーラを放つ、見目麗しい男女。
織 藍杷那と、織 頼彦。
共に巫女姫・春比奈の実の姉と兄であり、橘流柔術で当代最強と謳われる二人だった。
遠目に見るだけなら目の保養になる二人だ。道場で組手をしている様子も、キレのある流れるような動きが、格闘技とは思えないほど美しい。しかしそれはあくまでも「遠目に見れば」の話であり、これほどまでに至近距離で見たのが初めてである筝子は、その威圧感に怖気づきそうだった。
「――で、まだ確定ではないんだけど、春比奈に言っておいてほしいのよ。変更になるのは最終日の分。三番のところを、十八番に」
「う、承りました。確かに、お伝えいたします」
「ほぼ確定だろ。練習しとけって春比奈に言ってやってくれ」
「ははははい。かっ畏まりました」
恐縮しながらも必死で返事をした。誰かほかの近侍が通りかかってくれないだろうか、この二人を相手にするには一人じゃ心細すぎる……と思っていると、本当に後ろから誰かがやって来た。そちらに背を向けている筝子にはそれが誰かはわからないが、藍杷那達からはちょうどその人物が見える。
その誰かに気づいた瞬間、藍杷那の表情が変わり、険しいものになった。隣の頼彦も似たような表情だ。
「おはようございます、藍杷那様。頼彦様」
近侍は近侍でも……。
誰か他の人がよかった、と筝子は思った。
それは、巫女姫の舞装束を抱えた千だった。
立ち止まり、一礼する千に対して、藍杷那達は何も言わず睨みつけるように一瞥を送るだけだ。千が立ち去るまでその表情は消えず、千の姿が消えたあと、姉弟は目を合わせて小さく溜め息をついた。
それを間近で見た筝子は戦々恐々だった。春比奈の不機嫌顔にもようやく慣れてきたところだったのに。藍杷那の一睨みはそれ以上の迫力なのだ。それは筝子に向けられたものではないが、それでも恐ろしい。
「じゃ、よろしく頼むわね」
「悪いな」
口々にそう言って、姉弟は去っていった。それを一礼して見送り、筝子は緊張を解いて深呼吸した。
藍杷那や頼彦にも嫌われているなんて、一体あの人は何をしたんだろう。
今まで以上に、気になった。
***
歩きながらも、筝子は悶々と考え込んでいた。千のことが気になってしょうがない。
噂では確か、地元はこの町だと言うことだった。年はまだ十九歳だが、早生まれらしいので、学年で言えば、四月生まれの春比奈と同じ年だ。
ということは、同級生ということは大いにあり得る。その時に、何かあったのではないだろうか。たとえば、いじめなど。
そんなはずはない。筝子は自分の考えを打ち消した。春比奈をいじめる度胸のある者が居るとは思えない。確かに千のポーカーフェイス、春比奈の不機嫌にも動じないところ、藍杷那と頼彦に睨まれても平然と立ち去るところを見ると、かなり度胸があるように思えた。が、やはり千は、いじめなどをする人間には見えないのだった。
春比奈達家族に恨まれるようなことをしたのだろうか。しかし、春比奈の近侍の選考には、春比奈の父、樫彦も深く関わっている。現に、筝子の面接の時には、試験官の中に樫彦も居た。千が春比奈の近侍として働くことは、樫彦も認めていることなのである。
確かに千は近侍として申し分無い。仕事は早いしそつが無いし、気が利く。祭祀の知識も筝子達より深く、舞や歌、楽にも通じている。巫女姫のみが携わる公務、「機織」についての知識まで持っているのだ。
樫彦は千と春比奈の関係を知らなかったのだろうか。それとも、知っていてなお、千の能力に目をつぶって採用したのだろうか。
そもそも、本当に嫌なのであれば、春比奈が申請すれば、千を辞職させることだって可能なのだ。嫌っていてなおそれをしないということは、それだけ千が近侍として優れているからか。
それならば、自分達、千以外の近侍が役立たずだと思われているようで悲しい。
千は、春比奈をどう思っているのだろう。千が春比奈達に対してマイナスの感情を持っているようには思えない。それならば近侍を志願したりはしないだろう。自分のように巫女姫に憧れを抱き、春比奈を敬愛しているとは思えないが。
顔にも言葉にも出さないからわからないが、千の気配りには、春比奈への思いやりがあるような気がするのだ。たこ焼きの件にしても、ゲーム機を持ち去った件にしても。ゲーム機持ち去りに関しては、春比奈はおかんむりだったが、筝子達は主の夜更かしを心配していたので、ありがたいとさえ思った。
ああもう本当にわからない。そういうところを見ると、千はとてもいい人のようにも思える。
しかし、それだけではないのだろう。
あの日、春比奈が激昂した理由が、彼女にはあるのだから。