誰よりも強い、貴様以外は認めない
魔王エルギア。
厄災のエルギア、東の魔王、暗黒の支配者。
その名は天地を震わせ、歴史の深淵に刻まれた伝説の存在である。
古の書物には、彼女の恐るべき所業が無数に記されている。
世界を闇に沈め、あらゆる生命を滅ぼそうとした終末の化身。
大地を割り、海を枯らし、数多の文明を灰燼に帰した破壊の使徒。
神々を屠り、天上界をその手中に収めた悪鬼羅刹。
その一つ一つが凄惨極まりなく、彼女の業績を書き連ねるだけで、歴史の長い巻物が幾千と積み上がるほどだ。
赤い双眸が闇を貫き、二本の剣角が天を衝くその姿は、恐怖と畏敬の象徴として語り継がれてきた。
だが、魔王エルギアが人類にとって「絶望そのもの」であったかと問われれば、それは違う。
少なくとも、私にとって、彼女は――。
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「はぁっ!? それはどういうことだ! 説明しろ、クチナシ!」
エルギアの怒声が謁見之間に響き渡り、崩れかけた壁に新たな亀裂が走った。
彼女の前には、一体の魔族が静かに跪いている。
黒い布で口元を覆ったその魔族は、表情が見えないものの、不気味なほど白い肌が薄暗い部屋の中で幽鬼さながらに浮かび上がっていた。
名をクチナシ。
魔王エルギアの補佐役にして、魔王軍でも屈指の実力者。
その冷静沈着な態度と鋭い洞察力で、エルギアの右腕として部下たちからの信頼も厚い。
「言葉の通りでございます。勇者は旅の道中、仲間から『戦力外』と宣告され、そのまま『はじまりの国』へと帰還いたしました。調査部隊の報告によれば、現在は勇者を辞職し、酒場で遊び呆けているとのことです」
クチナシの声は抑揚がなく、事務的な報告書を読み上げる調子だった。
だが、その淡々とした口調とは裏腹に、エルギアの額には青筋が浮かび、赤い双眸が怒りで爛々と輝き出す。
「……戦力外だと?」
エルギアの声は低く、地底から響く不穏な震えを帯びていた。
確かに、あの勇者は戦闘向きとは言い難い性格だった。
争いを好まず、剣を手に持つよりも仲間との談笑を優先する呑気な男。
だが、それでも彼は魔王城を目指し、数々の試練を仲間と共に乗り越えてきた。
その実力は歴代勇者の中でも決して低くはない。天賦の才に限れば、五本の指に入るほどだ。
そんな勇者が、戦力外?
「……ふざけるなッ!」
エルギアは勢いよく玉座から立ち上がり、右足を力強く踏み鳴らした。
背後の壁が陥没し、石塊が四散するほどの衝撃が部屋を揺らした。
埃が舞い上がり、薄暗い空間が一瞬にして白濁した霧に包まれる。
だが、クチナシは微動だにせず、静かにエルギアを見上げていた。
「エルギアさま?」
クチナシの声は穏やかで、嵐の中の静かな湖面そのものだった。
「我は認めぬ……認めぬぞッ! この一年、ずっと期待させておいて! ラストバトルの名セリフを夜通し考えて、臨場感出すために苦手な振り付けまで練習したのだぞ!? 『闇こそが真の秩序』とか言いながら剣角を光らせて登場するシーン、完璧に決めてたのに! それを全部台無しにする気か、勇者貴様ァあ!!」
エルギアの叫びは、怒りと情熱と若干の恨みが混じった人間臭いものだった。
彼女は外套を翻し、剣角をピクピクさせながら、舞台俳優が台詞を噛んだ共演者に文句を言う勢いでまくし立てる。
「それは、どちらかというとエルギア様が勝手に――」
「ア゛?」
エルギアの眼光が鋭くクチナシを射抜く。
「いえ、特に」
クチナシは即座に言葉を引っ込め、口元の布の下で微かに苦笑した気配がした。
「あー、クソ、頭きた! 例のアレ、やっぱりやるぞ! ここに持って来い!」
「アレ……でございますか。しかし、やるにもリスクが伴います。万が一、エルギアさまの身に何かあれば――」
クチナシの声に、初めてわずかな動揺が混じる。
「問題ない。それはずっと傍にいたお前が一番分かっているだろ」
エルギアの言葉は力強く、揺るぎない確信に満ちていた。
クチナシはしばらく沈黙し、黒布の下の瞳でエルギアを見つめた後、静かに頷いた。
「……そうですね、わかりました。それでは、私は準備に取り掛かります」
「……………………」
「いかがなさいましたか?」
クチナシが首を傾げる。
「その……いつも、わがままばかりですまんな」
エルギアの声は珍しく小さく、照れくささが滲んでいた。
「フッ、今にはじまったことではありません。エルギアさまのご希望とあらば、私は喜んでお応えしましょう」
クチナシは一礼し、静かに謁見之間を後にした。
その背中を見送りながら、エルギアは深いため息をつく。
「ふぅ……」
彼女は崩れた壁の隙間から見える空を見上げ、静かに呟いた。
「勇者よ。貴様が本当に我の宿敵であるならば……待っていろ。すぐにその性根を叩き直してやる」
その声は低く、決意に満ちていた。