山の中
芙はチラッと横目だけで後ろからついてくる人の様子を確認した後、歩く速度を落とした。どうやら柊木の歩幅に合わせたようだ。
彼女は少しホッとした様子で、芙の隣まで距離を詰めた。
暫くの間、落ち葉や枯れ枝を踏む音だけが二人の間に流れる。
改めて柊木は自分がいる場所を把握しようと辺りを見渡す。緑色から黄色まで色づいた木々が点在しており、人の気配がない。よくよく耳をすませれば遠くで何かが蠢く音、羽ばたく音が聞こえる。
動く度に水気のある空気が頬を撫でていく。深く息を吸ってみれば、湿った地面の臭いがした。生き物のような生臭さはなく、当たり前だが街中に溢れる生活を感じられる臭いでもない。それが妙に心地よかった。
人間を必要としない場所とはこれほど安らぐものだったのか、と柊木は息を吐く。
ふと足元で剥きだしになった地面が一本の線となって奥の方まで続いているのに今更ながら気が付く。平時より誰かが歩いている痕跡から視線を逸らして、柊木は隣を歩いている青年をチラッと見た。
芙は口を噤んだまま、一定のリズムで歩いている。どうやら雑談する気はなさそうだ。積極的にあれこれ聞いてくるタイプではなさそうだからこのままでは無言のまま歩くことになるだろう。
無言の圧力に勝手に負けた柊木は戸惑いがちに口を開く。
「芙さんは兄弟とかいるんですか?」
「……妹なら」
柊木は眉を上げた。その返答を意外だと思ったが、納得がいくものでもあったからだ。マイペースな一人っ子にも見えるし、しっかりしている長兄タイプにも見えたからだ。
年下の女性のあしらい方に慣れているのもそのためだろうか。
「どんな人ですか?」
「どんなって……、うーん、アニメや漫画が好きで物静かなタイプ。優しいというより、気弱な感じかな」
兄妹なのに性格は正反対なようだ。芙は考え込むように顎に手を当ててから、やがて溜息をつく。
「……訂正。俺より優しい子だよ」
「芙さんも十分優しいです」
――多分きっと芙さんと同じように困っている人を見かけたら放っておけないタイプなんだろう。
柊木は少しだけ口元を緩める。
「柊木さんは?」
「え、はい?」
「兄弟とかいないの?」
「私は一人っ子です」
「へえ。お兄さんがいるかと思った」
柊木は意外だと言わんばかりに目を瞬かせる。
「どうしてそう思うんですか?」
思い浮かんだ疑問をそのまま口に出せば、芙も同じような調子でこう返してきた。
「知らない男に平気でついて来るから。上に男の兄弟がいるから警戒心薄いのかと思った」
偏見だ、と柊木は口の中で呟く。
「お菓子をもらっても知らない男にはついて行くなよ」
「ついて行きません! 私は子供ですか」
「超有名だけど希少な美味しいお菓子あげるって言われたらどうする?」
「……あ、いや、ついていかないです!」
「ちょっと考えただろ。どこのメーカーのお菓子かなとか」
考えていたことを当てられたのか、柊木は不愉快そうに唇を曲げる。――弁解するならば知らない人についていかないのは大前提だが、それはそれとして何処のお菓子だったらいいかなと先に考えてしまっただけだ。
「小さい子供かよ」
色々と見透かしたらしい芙の一言に、柊木は何も言い返せなかった。
「街まであとどれくらいですか」
話題を変えようと質問する彼女に対して、芙は顎に手を当てて考え込む。
「あと少しだと思う」
獣道ではない、人工的に出来た茶色い通り道を見やる。
不意に背中に薄ら寒い感覚が走り抜けた。
さっきまでは他人のような顔をしていた木々や獣たちが此方を一斉に見ている気がした。
よその家に土足で上がり込んでしまったような後ろめたさに手足が冷たくなる。口の中に溜まった唾液を飲む音をたてることすら憚られるようだ。
葉が擦れる音がする。それが人の笑い声に聞こえた。おーい、と誰かに呼ばれる声も聞こえた。
「少し急いで歩こうか」
囁くようにそう言う芙の言葉に、柊木は無言で頷く。
ザッザッと払うように歩く二人の足はいつの間にか小走りになっていく。枝や葉っぱが体当たりしてきても構わずに麓を目指す。
薄暗い山の中に差し込む木漏れ日が妙に不安を掻きたてる。この光がいつか消えてしまうのではないか、そんなよく分からない恐怖が襲ってきた。
生い茂っていた樹木が少なくなり、視界が開けてくる。小さく街並みが見えてきた辺りで、最後の方は転げ落ちるように山から抜け出た。
滑りそうな地面ではなく、舗装されたアスファルトに足を着いた。二人は足を止めてから肩を大きく上下させながら息を整える。
どうやら登山口に出たらしい。
一つ、二つと民家があった。おにぎり、ラーメン、カレーと書かれたのぼりをズラッと並べた食堂と思わしき建物。広々とした駐車場。
それらを一通り眺めていた柊木は不意に顔をくしゃりと歪ませた。今にも泣き出しそうな顔で唇をギュッと結んでいる。
「柊木さん、帰り道がわからないなら最寄り駅は何処? 地域の名前でも構わないけど」
芙にそう声をかけられた柊木は目を瞬かせる。――あれ、私の家って何処だっけ。外観とかは思い出せるのに。道はおろか名前すら分からない。
「あ、あの、わからないです」
はっきりとそう告げた彼女に、芙も意味を理解しかねたようで小首を傾げている。ややあってから確認するようにこう言ってきた。
「まさか、家出少女か」
柊木は口を噤む。自分の意思で家を出たから此処にいると思うのだが、家出かと言われると疑問が残る。
「もしくは家が分からないってことは、記憶喪失なのか」
彼女は少し考え込む素振りを見せてから、はっきりと声を出す。
「違うと、思います」
「じゃあ、家族と喧嘩した、とかそんなところか」
「そう、ですね」
柊木は曖昧に笑って頷いた。――そんな理由だっただろうか。けれども帰りたくないという表現にはしっくりきた。
「……まあ、家族が待っていても帰りたくない時はあるよ」
否定することはなく、けれども困ったように芙は首の後ろを乱暴に掻いた。
「これは俺が君を泊めなきゃいけない流れ?」
「いや、それは……」
いくら何でも逢ったばかりの男性の部屋に泊まるのはまずいと思ったのか、柊木はオーバーなくらい両手を左右に振った。
「それくらいしっかり自衛出来るなら大丈夫だろ。はい、これ」
芙は言い終わる否や、ズボンのポケットに入れていた財布を取り出す。お札を何枚か抜いた後にそのまま柊木に差し出した。
「え?」
扇状に広げられたお札の金額に柊木は目を大きく見開いた。――これ、今年もらったお年玉より多い!
「これだけあれば民宿くらいには泊まれるから」
「たしかにこれなら泊まる場所は困らない、ですけど」
見ず知らずの、会ったばかりの人に此処までしてもらう謂れはない。そう言いたげに柊木は顔を強張らせたまま、芙とお札を交互に見比べる。
「まあ、人助けは職業病だから気にしないでくれ」
「えっと、芙さんは警察の方ですか?」
「いや、看護師」
素っ気なくそう言った後に、芙は手に持っていた現金を無理やり彼女に押し付けた。
心なしか渡された柊木の手が小刻みに震えている。――宝くじ買ってないのに大金を渡されてしまった。しかも返せる気がしない。
「此処で君を見捨てて野垂れ死にされたら俺の責任になるじゃん。さすがに目覚めが悪いよ。金を渡して人助けをしたっていう善行をして、今晩枕を高くして寝かせてくれ」
「別に私が死んだくらいで芙さんの責任にはなりませんよ」
「なるよ。柊木さんは学生だろ。子供を助けるのは大人としての義務なの。君は子供なんだから困った時は大人を頼りなさい。出来ない事もあるけれど」
柊木は考え込むように顔を伏せる。ややあってから顔を上げて深々とおじきをした。
「ありがとう、ございます」
上擦った声でお礼を言えば、芙は満足げに笑ってみせた。
「でも一拍したら家に帰りなよ。女の子がフラフラとするのはやっぱり危ないから」
「はい……」
柊木は街の方に足を向けて歩き出す。
空から暗闇の帳が降りてしまう前にポツポツと灯りが付き始める街並みは何処か温かみがある。
「やっぱり街までは一緒に行く」
そう言って芙は大股で歩いて、柊木の隣に並んだ。
「泊まれる場所まで送る」
「そこまでしてくださらなくても」
「いや、君が安全地帯に入るまで見届けなきゃ夕飯食べられそうにない」
「……ありがとうございます」
心なしか柊木の強張っていた顔が幾分か柔らかくなる。お礼を言う声にも心からの感謝が滲みでていた。
そんな彼女の様子を芙は静かに観察している。――やっぱり知らない場所に放り出されて不安が大きかったか。一緒に行くって言えてよかった。
芙は軽く息を吐き出した後に話しかけた。
「夕飯はどうするの?」
「あ、や、そんなにお腹空いていなくて」
「食べなきゃ元気にならないぞ」
「ああ、そうですよね。じゃあ、寝る場所決まったら何か食べます」
柊木は自分のお腹に手を当てながら困ったように笑ってみせた。
つられるように芙も小さく笑った。
自然豊かな風景から民家が立ち並ぶ場所まで移動した二人は、人の気配が少ない通りを歩いていく。
ポツポツと灯りはついているが、何処か温かみがなく人の営みを感じられない。まるで無人の家に無断で侵入してしまったような気まずさが込み上げる。
芙はホテルないし民宿に心当たりがあるのか、迷いなく足を進めている。ある地点まで来た芙は足を止めた。
「あった。そうそう、此処にあるような気がしたんだよな」
一見すると古びた民家だ。外には民宿と描かれた看板があるので泊まれる場所であるのは間違いない。表札には『天戸屋』と書かれている。
「ありがとうございます! 此処までで大丈夫です」
「手続きは大丈夫?」
「はい、出来ます」
力強く返事をした後に柊木はスマートフォンを取り出す。そして芙の方を真っ直ぐ見てからこう言った。
「お金! いつか返したいんで! 連絡先教えてください!」
「はあ? 別にいいよ。宝くじでも大量に買って、全部外れたと思っておく」
「いやいや、さすがに額が大きいですから! 出世払いします!」
「出世払いって」
連絡先を教える気がない様子の芙は足を一歩後ろに引いた。
「本当に気にしなくていいから」
「こんな額が大きかったから普通に気にします」
尚も食い下がる彼女に対して、芙は観念したかのように嘆息する。ズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。
「これ、やっている?」
一般的に使用されているトークアプリのQRコードを見せられる。
「あ、はい! 入れてます」
「じゃあ、読み込んで」
柊木は慌ててアプリを立ち上げてから表示してもらっている画面を読み込ませる。ピコン、という音ともに『久保寺芙をフレンドに追加しました』という通知バーが表示された。
「できた?」
「はい、フレンドに追加しました」
その言葉を聞いた芙はスマートフォンの液晶に指を滑らせる。登録できているのか確認しているようだ。
「うん、大丈夫」
それから芙は次いで財布を取り出すと一枚のカードを抜き取った。
「これ」
いきなり柊木に免許証を見せてきた。意図をはかりかねているのか、柊木は困惑した表情を隠そうとしない。
「写真うつり、いいですね」
「それはどうも。それより写真とったら?」
柊木は眉間に皺を寄せる。ますます理解しかねるといった様子で薄く口を開けたまま動こうとしなかった。
芙は息を小さく吐いてから説明を始める。
「初対面の大人を心から信用する方が危ないぞ。もし俺が何かの危害を加えてきたと思ったらその画像を持って警察でも何でも駆け込め。社会的には抹消出来るぞ」
「……そこまでしなきゃいけない事態にならないって信じていますから」
「気持ちは嬉しいけど、そこまで俺は良い人じゃないから」
にべもなく放たれた言葉に柊木は苦笑する。まるでそこまでしてくれる人を疑うなんて馬鹿げているとも言いたげな曖昧な笑みだ。
「信頼や善意を向けても、必ず同等の気持ちで返されるとは限らないよ」
尚もきっぱりと言い切る芙の言葉に彼女は僅かに身じろぐ。
「それはまあ、そうですよね。あはは、じゃあ、護身用に写真とっておきますね」
抑揚のない口調で言いながら免許証にカメラを向ける。パシャリとシャッター音が響く。
柊木は自嘲めいた笑みを浮かべてから芙に深くお辞儀をした。
「ありがとうございます。帰る前にまたご挨拶させてください」
「そこまでは……。いや、うん、じゃあ、連絡待っているよ」
残照が顔や体に落ちて濃い影を作っていく。彼女は暗がりを抱えたまま民宿の戸を開けるのだった。